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米国プロファイル

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アメリカ合衆国のポートレート - 第12章「メディアとそのメッセージ」

 
報道の自由と新聞、ラジオ、テレビ 

最近の調査によると、平均的なアメリカ人が、家庭や職場や車中で、印刷メディアおよび電子メディアに費やす時間は、1日約8時間であるという。その内訳は、テレビに4時間、ラジオに3時間、録音された音楽の鑑賞に30分、新聞に30分となっている。

アメリカ社会における情報の中心的な役割は、合衆国憲法起草者の基本的な信念にまで遡ることができる。すなわち、十分に情報を持つ人民は、自分たちの自由を最大限にまもる、という信念である。この考え方を具体的に表した憲法修正第1条には、「議会は、言論または報道の自由を抑制する・・・いかなる法律をも制定してはならない」と規定されている。この条項に基づく帰結としては当然、メディアは政府の行動を監視する機能を持ち、公職者の悪事や個人の権利の侵害に注意を喚起する役割を果たす、ということになる。

憲法修正第1条とその基盤となる考え方により、アメリカのメディアは、ニュースの報道と意見の表明において多大な自由を与えられている。1970年代、アメリカの記者はウォーターゲート事件のスキャンダルを暴露し、リチャード・ニクソン大統領を辞任に追い込んだ。またアメリカの新聞は、ベトナム戦争へのアメリカの関与に関する国防総省の秘密書類「ペンタゴン・ペーパー」の内容を掲載した。国によっては公職者の腐敗を報道すると新聞関係者の逮捕や新聞社の閉鎖につながるが、アメリカでは自由にそのような記事を載せることができる。アメリカではメディアを閉鎖することは不可能であり、政府自体に対する名誉毀損は成立せず、公職者が損害賠償を勝ち取るには、報道の虚偽性だけでなく、それが悪意に基づいて行われたことを立証しなければならないため、官吏の汚職等のニュースも自由に報道されている。

この章では、新聞、雑誌、放送メディア、そしてメディアに関する最新の課題という4点を取り上げる。

 

新聞:報道の自由のパイオニア

アメリカの報道の歴史は、1990年に300年を迎えた。1690年に、植民地最初の新聞「パブリック・オカランス」が発行されたが、この新聞は英国政府の抑圧にあい、わずか1日しか存在しなかった。しかし、その後さまざまな新聞が刊行され、1730年代には植民地の新聞が英国総督を批判するだけの力を持つようになった。1734年には、ニューヨークの総督が、「ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル」紙の発行者ジョン・ピーター・ゼンガーを文書煽動罪で告訴した。ゼンガーの弁護士アレグザンダー・ハミルトンは、「事実の真実性」は記事を掲載するに十分な理由であると主張した。陪審は報道の自由を支持し、ゼンガーに無罪の判決を下した。

1820年代には、アメリカ内で日刊紙25種、週刊紙400種以上が発行されていた。1841年には、ホレス・グリーリーが「ニューヨーク・トリビューン」紙を創刊し、同紙はまもなく国内で最も大きな影響力を持つ新聞となった。南北戦争(1861~1865年)後、ジョセフ・ピューリッツァーとウィリアム・ランドルフ・ハーストという2大メディア王が、それぞれ大規模な新聞事業に乗り出した。両者は読者を獲得するために、しばしば正確さを欠いた興味本位の報道をする「イエロー・ジャーナリズム」と呼ばれる方法で、激しい競争を繰り広げた。20世紀に入ると、新聞編集者は、偏見を交えずに出来事をあらゆる側面から報道することが読者をつかむ最大の方法であると認識するようになった。この客観的報道の基準は、今日アメリカのジャーナリズムにおける最重要な伝統の1つとなっている。20世紀初頭のジャーナリズムのもう1つの特徴は、ハーストの組織をはじめとして、同1経営者が所有する新聞チェーンが生まれたことだった。この傾向は第2次大戦後さらに強まり、今日ではアメリカの日刊紙の約75%が新聞チェーンに属している。

1940年代と50年代には、テレビの発明とともに、電子メディアが新聞界に食い込んできた。その日のニュースがテレビで見られるようになったため、夕刊の読者が減った。1971年には、たいていの場合1紙が朝刊で他紙が夕刊という組み合わせで日刊紙が2種以上発行されていた都市数は66だったが、1995年には日刊紙が2紙以上ある都市はわずか36だった。

全体的には日刊紙の数は、1946年の1,763紙から1994年の1,534紙へ、わずかに減少したにすぎない。日曜版の数は、1946年の497紙から1994年には889紙に増えている。これを合わせると、新聞の総数、総発行部数(1億3,500万)ともに、世界最大である。しかし近年、アメリカの大手新聞各社の発行部数は減少を続けており、その原因はテレビその他のニュース源が増えたためと考えられる。

1995年のアメリカの日刊紙発行部数上位5紙は、「ウォール・ストリート・ジャーナル」(182万3,207部)、「USAトゥデー」(157万624部)、「ニューヨーク・タイムズ」(117万869部)、「ロサンゼルス・タイムズ」(105万3,498部)、「ワシントン・ポスト」(84万232部)である。このうち最も新しい「USAトゥデー」紙は、大手新聞チェーンのガネット社が大規模な市場調査を行い、その後1982年に創刊した全国紙である。同紙は、派手なグラフィックデザインとカラー写真を多用し、記事を短くした紙面にして、従来の長文の記事よりも簡潔なニュースを求める都会の読者層をターゲットにしている。

新しい技術が「USAトゥデー」の発行を可能にしたが、他の新聞も国内外に読者層を拡大できるようになった。「USAトゥデー」は、バージニア州アーリントンで編集・組版されたものが、衛星通信で全米32カ所の印刷工場およびヨーロッパとアジア向けの印刷工場2カ所に送られている。また「ニューヨーク・タイムズ」と「ワシントン・ポスト」が共同所有する国際向け「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」は、衛星通信により世界11都市で印刷され、164カ国で販売されている。

1992年、「シカゴ・サン・タイムズ」は、パソコンとインターネットを初めてつないだアメリカ・オンライン社を通して記事の提供を開始した。 次いで1993年には、「サンノゼ・マーキュリー・ニュース」紙が毎日の記事の大半を、写真とイラストなしでアメリカ・オンラインの加入者に提供するようになった。1995年には、メディア企業8社がオンライン新聞のネットワークを形成するために企業を設立することを発表した。今日では、アメリカの新聞のほとんどをインターネットで読むことができ、パソコンさえあれば誰もが家庭や職場から全国各地の新聞にアクセスできるようになった。

 

雑誌の市場ニーズ

アメリカ初の雑誌が発行されたのは最初の新聞創刊から半世紀後のことであり、雑誌が広く購読されるようになるには時間がかかった。1893年、大量発行部数の雑誌が登場し、1923年にはヘンリー・ルースが初の週刊誌「タイム」を創刊した。しかし、テレビの到来により雑誌の広告収入が減り、いくつかの週刊誌が廃刊に追い込まれた。1969年に「サタデー・イブニング・ポスト」、1971年には「ルック」、1972年には「ライフ」が廃刊になった。(「サタデー・イブニング・ポスト」と「ライフ」は後に月刊誌として復活した。)

こうした状況に対応して、雑誌社は広い読者層よりも慎重に選んだ特定の層にアピールする雑誌作りを目指すようになった。その結果、「テニス」、「トレーラー・ライフ」、「鉄道模型」など、あらゆるジャンルに焦点をあてた雑誌が登場した。1方、既存の読者の中から特定の層にターゲットを絞った雑誌もある。例えば、「タイム」、「TVガイド」、「ニューズウィーク」などは地方版を発行している。さらに、個々の読者の関心に合わせて各号の内容を変えることを試みている雑誌もある。

このように雑誌に特徴付けをすることにより、アメリカ内で発行される雑誌の数は、1970年の6,960誌から1994年には1万1,000誌に増えた。1994年には発行部数100万以上の雑誌は50誌を超えた。発行部数で1位と2位を占める「NRTS/AARPブレティン」(2,187万5,436部)と「モダン・マチュリティ」(2,171万6,727部)の両誌は、いずれも定年退職した高齢者向けの雑誌である。以下、「リーダイズ・ダイジェスト」(1,512万6,664部)、「TVガイド」(1,403万7,062部)、「ナショナル・ジオグラフィック」(928万3,079部)が3位から5位を占めている。

1993年に「タイム」が雑誌としては初めてオンライン版を発行し、購読者は雑誌が店頭に出るより早く、コンピュータで記事が読めるようになった。1996年には、ソフトウェア王のビル・ゲイツが、オンライン専用の政治・文化誌「スレート」を創刊した。(ただし「スレート」はまもなく印刷版も出すようになった。)

1970年代に新聞と雑誌の中間の形態として人気を集めるようになったのがニュースレター(ミニコミ誌)である。ニュースレターは、通常、週刊または隔週刊で、ページ数は4~6ページ、安価な紙に印刷されている。その内容は、特定のトピックについて情報を収集し分析したもので、たとえば「サザン・ポリティカル・レポート」はアメリカ南部諸州の選挙戦を、「FTCウォッチ」は連邦取引委員会の活動を追っている。ニュースレターは少数のスタッフで発行でき、中には記者が1人で取材をしコンピュータで紙面を作成している例もある。

ニュースレターに加えて、「ジーン」と呼ばれる、きわめて個人的で発行部数の比較的少ない雑誌も登場している。その中には、衝撃を与えることを目的とした内容のものもあり、たとえば「アフレイド」という月刊ジーンは、ホラー小説だけを載せている。

 

ラジオの役割

1920年に始まったラジオ商業放送は、アメリカの家庭に新たな情報源と娯楽をもたらした。フランクリン・ルーズベルト大統領はコミュニケーション手段としてのラジオの有用性をよく理解し、「ファイヤーサイド・チャット(炉辺談話)」と題した政見放送番組で、大恐慌時代の経済動向や第2次世界大戦中の軍の動きを国民に伝えた。

第2次大戦後、テレビが広く普及したため、ラジオ局は番組編成の見直しを強いられた。ラジオが、ドラマ、コメディ、バラエティショーなどで視覚に訴えるテレビと競争することはきわめて難しく、多くのラジオ局はニュースや特集番組に録音された音楽を組み合わせた番組編成に切り替えた。1950年代に入ると、ラジオはアメリカの自動車には欠かせないものとなり、通勤の車の中でラジオを聞く人が増えたため、ラジオは再び普及した。

1970年代と80年代には、AMより音質がすぐれているが受信距離の短いFM放送が普及し、番組編成の方針が2つに分かれた。FMは主として音楽番組、AMは主にニュースやトーク番組へと切り替えた。

有名人または専門家がホストを務め、放送中に聴取者が電話で質問をしたり意見を述べる「トーク・ラジオ」という番組形式は、25年前にはほとんど存在しなかったが、今日ではアメリカの商業ラジオ局1万局のうち1,000局近くがトーク・ラジオ番組を放送している。

テレビの力は多大であるが、ラジオの普及度も今なお非常に高い。1994年には、アメリカの全世帯の99%がラジオを1台以上所有しており、平均すると1世帯当たりのラジオ所有台数は5台であった。アメリカには、商業ラジオ局1万局のほかに、公共ラジオ局が1,400局以上もある。その大半は、大学などの公共機関が教育目的で運営しているもので、財政的には政府の資金と民間の寄付に支えられている。ワシントンDCに本部を置く非営利団体のナショナル・パブリック・ラジオは、全米に430の系列公共ラジオ局を持っており、1991年の聴取者総数は1,200万人を超えた。

 

テレビ:3大ネットワークを超えて

第2次世界大戦後、テレビはアメリカで最も人気のあるメディアとなり、国内の選挙や国民の生活様式に多大な影響を及ぼすようになった。1994年には、9,700万世帯、すなわちアメリカのほぼすべての家庭にテレビが1台以上あり、65%の世帯がテレビを2台以上持っていた。

コマーシャル収入で経営され、無料で番組を放映する3大ネットワークのNBC、CBS、ABCの民間放送局3は、1950年代から1970年代までテレビ市場の90%を支配していた。1980年代になると、衛星放送による有料ケーブルテレビが急速に普及し、優位に立っていた3大ネットワークを脅かした。1994年には、ケーブルテレビに加入している世帯は、アメリカ全世帯のほぼ60パーセントを占めていたが、3大ネットワーク以外の局の番組が視聴者の3割以上を獲得し始めた。新しくできたケーブルテレビ局の中には、1日24時間継続して映画を放映する局や、テッド・ターナーが創設した四六時中ニュースを流しているケーブル・ニュース・ネットワーク(CNN)やミュージックビデオのMTVなどがある。

一方、4番目の民間ネットワークとしてフォックスが登場し、3大ネットワークに挑戦した。3大ネットワークの1つと提携していたローカルテレビ局が、フォックス系列にくら替えする例も見られた。さらに、WBとUPNの全国ネット局2社が全国ネットワークとして創設され、ケーブルテレビ局の数は増え続けている。

アメリカには公共テレビ局が335社あり、いずれも独立局として地域社会に密着したサービスを提供している。各地の公共テレビ局は、パブリック・ブロードキャスティング・サービス(PBS)のような公共テレビ放送の全国組織に加盟し、PBS等から番組の供給を受けている。公共テレビ放送は、一部、国民の税金でまかなわれており、視聴者数は週に8,700万人と推定されている。公共テレビで最も人気のある番組の1つに、人形やマンガを使ったり、歌や寸劇などで読み方や算数を教える幼児向け番組の「セサミ・ストリート」がある。

1970年代後半からアメリカのケーブルテレビ局は、特定の視聴者を対象とするサービスの提供を始めた。たとえば、サイレント・ネットワークの番組は、聴覚障害者のために手話と字幕が付いている。また1988年にクリストファー・ホイットルが創設したチャンネル・ワンは、コマーシャル付の教育番組をアメリカの高校生の約4割に提供している。さらに、コンピュータ、テレビ、光ファイバー等の技術を融合したインタラクティブ・テレビ(双方向伝送テレビ)の可能性が高まっており、これが実現すれば視聴者は好きな時に好きな番組を選択して観ることができる。

 

最新の課題

アメリカ人の多くは、子どもたちが見るテレビに暴力場面が多いことに不満を持っている。市民の苦情や連邦議会からの圧力に対して、4大ネットワーク(ABC、CBS、NBC、フォックス)は、1993年に、番組の冒頭に暴力場面に関する警告を入れて親に知らせるという取り決めをした。ケーブル各局も同様の警告を挿入することに同意している。1996年には、商業局とケーブル局は一歩前進して、暴力、セックス、冒涜的な言葉の数量に基づいて番組を評価・格付けする制度を確立した。番組の冒頭と途中に、格付けを表すマークが画面に表示されるようになった。

こうした規制を政府が行うことは憲法修正第1条に違反する可能性が高いため、テレビ局によるこのような自主規制の方が望ましいと思われる。もう1つの解決法として、「Vチップ」という新しい技術がある。これは、親が子どもに見せたくない番組を画面に写し出さないようにする装置で、1998年以降、アメリカで発売されるテレビにはVチップが搭載される。

コンピュータでアクセスできる情報や画像についても同様の苦情が出ている。連邦議会は最近、コンピュータ通信による猥褻な言葉や画像の送信を防止する法案を通過させたが、連邦裁判所はこれを違憲とし、無効と判定した。この問題が解決できるとすれば、親が子どものコンピュータ使用を厳しく監視するか、コンピュータの機能の一部を遮断する技術の開発を待つしかないようだ。

今日、アメリカではメディアに関して最も活発に議論が行われているのは、技術の問題ではなく、昔からいわれている個人のプライバシーに関連する問題である。すなわち、公的な立場にある人たちの私生活の一部について、メディアが立ち入るべきかどうか、という問題である。1988年の大統領選挙で有力候補者だったゲーリー・ハート上院議員は、若い女性との関係をマスコミに暴露されたため、出馬を断念した。党派を問わず政治家たちは、マスコミが「事あれば政治家をとっちめてやろうと、てぐすねひいて待っている」と苦情を呈する。メディアはリベラル派寄りだと言う保守派議員もいる。メディアによる暴露合戦が激しくなると、保守・革新を問わず有能な人材が政治の世界から離れてしまう、と批判する声も多い。

また一方では、報道陣が政治家と事実上共謀して、政治家の個人的な弱点を国民から隠そうとした時代もあった。フランクリン・ルーズベルト大統領は身体に障害があったが、それが話題にのぼったり写真に撮られるようなことはなかった。1944年に大統領が4選を目指して立候補した時も、大統領の思わしくない健康状態は有権者に知らされなかった。いずれにしても多くの有権者がルーズベルトに投票したことだろう。しかし、民主主義において情報の提供は情報の抑圧に勝ると信じる今日のアメリカ人は、概してこうした事実の隠蔽は不誠実であると考えている。


*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

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