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米国プロファイル

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アメリカ合衆国のポートレート - 第11章「大衆文化の輸出」

 
野球、バスケットボール、映画、ジャズ、ロックンロール、カントリー 

ミッキー・マウス、ベーブ・ルース、スクリューボールコメディ、GIジョー、ブルース、「シンプソンズ」、マイケル・ジャクソン、ダラス・カウボーイズ、「風と共に去りぬ」、ドリームチーム、インディアナ・ジョーンズ、キャッチ22・・・アメリカのスポーツと娯楽の世界が生んだこれらの名称、ジャンル、言葉等は、有形のアメリカ製品とともに世界各地に広がっている。ことの善悪は別として、今日では、自国の文化に加えて、活力に満ち、幅広いアピール性を持つアメリカのスポーツ・映画・テレビ・音楽という、2本立ての文化を持つ国が多い。

この章では、アメリカが世界の娯楽に貢献した分野のうち、野球とバスケットボール、映画、そして3種類の大衆音楽、ジャズ、ロックンロール、カントリーを紹介する。

 

野球

どんなスポーツよりもアメリカ人の郷愁を呼び起こすのが野球である。子ども時代に野球(またはソフトボール)をしたことのある人が非常に多いため、野球は「国民的娯楽」とされている。野球は、フットボールやバスケットボールと違って、平均的な身長・体重の選手でも活躍できるスポーツでもある。

野球が誕生したのは南北戦争(1861~65年)前で、初めは空き地で行う「ラウンダーズ」という単純な球技だった。初期の名選手たちが、ラウンダーズを改良し、英国のクリケットを有名にした技能と判断力を採り入れた。中でも、得点と記録の存在が野球に重みを与えた。ジョン・ソーンは「野球百科」に、「今日、記録のない野球など考えられない」と書いている。ロジャー・マリスが1961年にホームランを61本打って、ベーブ・ルースの1927年の記録(60本)を破ったことを知っているアメリカ人の方が、1984年のレーガン大統領の選挙人獲得票数525票が1936年のルーズベルト大統領の記録523票を破ったことを知っているアメリカ人より多いことは確実である。

1871年に、初めてプロ野球リーグが結成された。20世紀初めには、アメリカ東部の大都市はほとんどがプロ野球チームを持っていた。全チームをナショナル・リーグとアメリカン・リーグの2リーグに分け、公式シーズン中は同一リーグ内のチーム同士が試合をした。各リーグの優勝チームは「ペナント」を勝ち取ったとされ、公式シーズンの終わりに、ペナントレースに勝ったチーム同士がワールド・シリーズで戦い、7試合中4試合に勝ったチームが、その年のチャンピオンとなった。この方式は今日も続いているが、現在は各リーグがさらに(地域)部門に分かれ、各部門の勝者がプレイオフ・シリーズで戦ってペナントレースの勝者を決める。

野球は1920年代に、ベーブ・ルース(1895~1948年)の登場と共に成熟した。ベーブ・ルースは、ニューヨーク・ヤンキースの数回にわたるワールド・シリーズ優勝の立役者となり、豪快なホームラン打者として国民的英雄になった。野球の歴史において、どのチームからも偉大な選手が出ているが、中でも注目に値するのは、ブルックリン・ドジャースのジャッキー・ロビンソン(1919~72年)で、才能に恵まれ勇敢な選手として、1947年に大リーグ初のアフリカ系アメリカ人選手となった。(それまで、黒人選手は黒人リーグにしか参加できなかった。)

1950年代に入ると、野球は地理的な拡張を始めた。アメリカ西部の都市も、東部のチームを移転させたり、既成チームから獲得した選手による「拡張チーム」を結成したりして、プロ野球チームを持つようになった。1970年代までは、厳しい契約のため、野球チームのオーナーが選手を事実上所有していたが、その後規則が変わり、選手は一定の枠内で自由を与えられ、どのチームにも自分を売り込めるようになった。その結果、選手獲得のための競争が激しくなり、スター選手は莫大な年俸を稼ぐようになった。選手組合とオーナー間の紛争のため、ときには野球の試合が何カ月間も中止される事態も発生した。野球がスポーツであると共にビジネスであるとするなら、20世紀末のファンの多くは、ビジネスとしての側面が優勢となっていることに不満を持っている。

野球は日本でも人気スポーツである。1990年代には、野茂英雄選手が、大リーグ、ロサンゼルス・ドジャースのスター・ピッチャーとなった。野球は、キューバやその他のカリブ海諸国でも広く人気がある。1996年夏季オリンピック大会で、日本とキューバが金メダルを争ったことは、アメリカ以外での野球人気を物語っている。(結果は、キューバが金メダルを獲得した。)

 

バスケットボール

バスケットボールも外国で人気のあるアメリカのスポーツである。公式の試合から、寄せ集めチームの「ピックアップ」ゲームまで、バスケットボール人口は世界中で2億5,000万人を上回る。バスケットボールの起源は、後に長老派の牧師となったジェームズ・ネイスミス(1861~1939年)が、1891年、マサチューセッツ州スプリングフィールドのYMCA訓練学校で体育の指導員となった時に遡る。体育のクラスは、生徒が騒ぐことで知られていたため、ネイスミスは、少年たちをおとなしくさせるために新しいスポーツを考えるよう指示された。冬で寒さが厳しかったため、室内でできるスポーツが望ましかった。

ネイスミスは、少年時代にカナダでやったことのある「ダック・オン・ザ・ロック(石落とし)」のゲームを思い出した。これは、土台石の上に乗せた大きな石に、小さな石をぶつけて落とす遊びである。彼はまた、ラグビーの選手たちが体育館で箱の中にボールを投げ入れていた光景を思い出した。こうして思いついたのが、高い場所に取り付けた箱にボールを投げ入れるゲームであるが、箱が見つからなかったため、桃カゴを利用した。アレグサンダー・ウォルフの著書「バスケットの100年」によると、ネイスミスは「ほぼ1時間」で、この新しい球技のルールを作った。そのほとんどが、今日でもそのまま使われている。

バスケットボールは急速に普及した。その理由は、YMCAの卒業生が各地へ散らばっていったこと、ネイスミスが進んでルールを普及させたこと、そして冬季に室内でできる単純なスポーツの必要性があったことである。ネイスミスはまた、大学バスケットボール界の最初の名コーチ、フォレスト・”フォグ”・アレン(1885~1974年)を育てた。アレンは、カンザス大学の選手としてネイスミスの下でプレーした後、自らも同大学のコーチとなり、771勝を上げた。アレンのスター選手だったウィルト・チェンバレンは、プロ・バスケットボールの初期のスーパースターとなり、1962年には1試合に1人で100得点をいれるという新記録を達成した。

初めてプロ・バスケットボール・リーグが結成されたのは1898年で、選手の報酬は、ホームゲームで2ドル50セント、遠征試合で1ドル25セントだった。それから100年足らず後、ワシントン・ブレッツ(現在の名称はワシントン・ウィザーズ)のスター選手ジュワン・ハワードは、ブレッツとマイアミ・ヒートの両チームから、7シーズンで1億ドルを超える報酬を提示された。

現在、全米バスケットボール協会(NBA)には、外国人選手を雇うチームも多く、彼らはオリンピックには母国の代表として出場する。最近のオリンピックでは、アメリカからは「ドリーム・チーム」と呼ばれるプロ・バスケットボールの選抜チームが出場している。1996年のオリンピックでは、ドリーム・チームが試合の終盤まで相手チームにリードを許す場面も見られ、バスケットボールが世界的に盛んになっていることが証明された。

 

映画

アメリカの映画評論家ポーリーン・ケイルは、1968年に出した映画評論集に「キス・キス・バン・バン」という題名を付けた。本人の解説によると、これはイタリアの映画ポスターからとった言葉であるが、「映画の基本的な魅力を考えられる限り短く表した言葉だと思われる。」確かに、これは、多くのアメリカ映画の生々しいエネルギーを要約した言葉だといえる。

映画はアメリカで発明されたものではないが、アメリカはこの分野で世界の娯楽にきわめて大きく貢献している。1900年代初めの映画の創生期には、ユダヤ人をはじめとする大勢の移民が、アメリカの映画産業に職を見つけた。彼らは、人種偏見のため他の職業から閉め出されていたので、全く新しい産業に活路を見出したのである。「ニッケルオデオン」と呼ばれる入場料5セント(ニッケル)の店頭劇場で短編の映画を上映した。数年後には、サミュエル・ゴールドウィン、カール・ラムリ、アドルフ・ズコア、ルイス・B・マイヤー、そしてワーナー兄弟(ハリー、アルバート、サミュエル、ジャック)といった野心家たちは、映画製作の分野にくら替えし、まもなく彼らは映画撮影所(映画スタジオ)という新種の事業のトップとなった。

主な撮影所は、カリフォルニア州ロサンゼルスのハリウッド地区に集まっていた。第1次世界大戦前には、アメリカ国内の他都市でも映画製作が行われていたが、映画産業の発展と共に、製作者はカリフォルニア州南部に集まるようになった。この地域の気候が温暖で年間を通じて野外ロケができ、また風景が多様で撮影に向いているためだった。

第1次世界大戦後、ヨーロッパからも映画関係者がアメリカにやってきた。監督ではエルンスト・ルビッチ、アルフレッド・ヒッチコック、フリッツ・ラング、ジャン・ルノアール、俳優では、ルドルフ・バレンチノ、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、ロナルド・コールマン、シャルル・ボワイエらがいる。トーキー時代の到来とともに、ニューヨークの舞台俳優も西部に移って映画に出演するようになり、これに上記のヨーロッパの俳優が加わって、映画産業は20世紀有数の成長産業となった。映画の最盛期だった1940年代半ばには、映画撮影所は年間約400作を超える映画を製作し、観客動員は毎週9,000万人に達した。

ハリウッドの黄金時代といわれた1930年代・40年代のハリウッド映画の製作過程は、フォード自動車工場の組立ラインに似ていた。どの映画も全く同じではないものの、西部劇、ドタバタ喜劇、フィルムノワール、ミュージカル、アニメーション、伝記物といった定型に沿ったものが多かった。しかし、それぞれに少しずつ違いがあり、また自動車を作るのは職人だったが、映画を作る人たちは芸術家だった。「脱出」(1944年)は、ハンフリー・ボガート(1899~1957年)とローレン・バコール(1924年~)が初共演した映画として知られているだけでなく、後にノーベル文学賞を受賞する2人の作家が書いた作品としても有名である。この映画の脚本はアーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961年)の小説をもとにしており、映画脚本はウィリアム・フォークナー(1897~1962年)が書いた。

しかし、映画製作がビジネスであることも事実であり、撮影所は、いわゆるスタジオ制度を採用して利益を上げた。主な映画撮影所は、俳優、演出家、監督、作家、スタントマン、職人、技術者等、何千人もの人たちを、給料を支払って雇用した。また、全米各地の町で何百軒もの映画館を経営し、そこで自社の映画を上映した。そうした映画館では、常に新しい作品を必要としていた。

このように規格化された制度から、質の高い娯楽作品が数多く生まれたことは、驚嘆に値する。その要因の1つは、映画が大量に製作されていたため、すべての作品が大ヒットする必要がなかったことである。撮影所は、ほどほどの予算で、すぐれた脚本と比較的無名の俳優を使った作品に賭けることが出来た。その好例が、オーソン・ウェルズ(1915~85年)監督の「市民ケーン」(1941年)で、この作品は広くアメリカ映画の最高傑作と見なされている。ハワード・ホークス(1896~1977年)、フランク・キャプラ(1897~1991年)といった監督も、撮影所と対立しながらも頑固に自らの芸術性を押し通した。1939年にはスタジオ制度が最高潮に達し、この年だけで、「オズの魔法使い」、「風と共に去りぬ」、「駅馬車」、「スミス都へ行く」(キャプラ)、「コンドル」(ホークス)、「ニノチカ」(ルビッチ)、「小夜」といった名作が公開された。

1940年代後半、スタジオ制度は2つの力に屈した。1つは、連邦政府の反トラスト措置により、映画の製作と上映が分離されたこと、もう1つは、テレビの登場である。映画の製作件数が激減したにもかかわらず、映画の平均製作費は大きく上昇した。これは、ハリウッドが、テレビでは見られないような壮観な映像を観客に見せようとしたためである。

こうした映画のブロックバスター現象は、現在に至るまでハリウッドに影響を与え続けている。俳優、撮影所のトップ、そしてエージェントへの報酬が急増しているのに加え、最近の映画作品は、その膨大なコストと大衆の好みとのバランスによって、大成功か大失敗かに分かれる傾向がある。

映画撮影所は現在も存在し、他のメディア企業と提携している撮影所も多いが、今日最も注目されるアメリカ映画には、独立系製作会社によるものも多い。ウッディ・アレン(1935年~)の映画などはこの範疇に入る。アレンの映画は評論家に高く評価され、興行的にも利益を上げているものが多いが、優秀な俳優がアレンのために比較的安い出演料で出ているため、製作費があまりかかっていない。したがって、興行成績の悪い作品があったとしても、破滅的な損害は出ない。これに対して、トム・クルーズやアーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画は、通常、スターの出演料だけで1,000万ドルを超える。こうした額の何倍ものお金の行方がかかっているため、ハリウッドの撮影所幹部は、冒険を避けようとしがちである。

 

ポピュラー音楽

アメリカ独自のスタイルを持ったポピュラー音楽作曲家の草分けは、スティーブン・フォスター(1826~64年)である。彼は、ヨーロッパ音楽の伝統と、アフリカ系アメリカ人のリズムとテーマを融合するというパターンを打ち立てた。以来、このパターンはアメリカの音楽の基盤となっている。アイルランド人を先祖に持つフォスターは、南部で成長したため、奴隷の音楽やミンストレル・ショーに触れる機会が多かった。ミンストレル・ショーとは、白人の芸人が顔を黒く塗り、アフリカ系アメリカ人の歌や踊りを演ずるものである。こうした音楽の影響を受けて作った歌曲に、「おおスザンナ」、「草競馬」、「バンジョーをかき鳴らせ」、「故郷の人々」(「遥かなるスワニー・リバー」の歌いだしでより知られている)など、フォスターの名曲とされるものが多い。今でも多くのアメリカ人は、これらの歌をそらで歌うことができる。

映画やラジオが普及するまで、アメリカ人は自分で娯楽を見つけるか、講演、サーカス、ボードビル(旅役者のレビュー)などが町にやってくるのを待たなければならなかった。アメリカの有名なエンターテイナーには、ボードビルの役者としてデビューした人たちが多く、たとえば、W・C・フィールズ、ジャック・ベニー、ジョージ・バーンズとグレーシー・アレン、バスター・キートン、ソフィー・タッカー、ファニー・ブライス、アル・ジョルソン、そして「三ばか大将」の3人組などが挙げられる。ボードビルは常に新しい歌を必要としており、アメリカでは19世紀末に音楽出版が大きな産業となった。音楽出版社の多くはニューヨークの一画に集中しており、その通りは「ティンパン・アリー」と呼ばれるようになった。

ボードビルと、ヨーロッパのオペレッタから、ブロードウェー・ミュージカルが生まれた。ミュージカルは、せりふのある物語劇に歌と踊りを取り入れたものである。この新しいジャンルの最初の成功例は、1927年に上演されたジェローム・カーンの「ショーボート」で、この作品は今日でもミュージカルの傑作の1つとされている。「ショーボート」は、異人種間の結婚をテーマにしており、劇中で最も悲痛な歌「オールマン・リバー」で奴隷の悲嘆を表現するなど、アメリカの音楽の黒人の影響を賛美している。

アービング・バーリン(1888~1989年)は、ティンパン・アリーからブロードウェーへスムーズに移行した作曲家である。ロシア系ユダヤ人移民だったバーリンは、「ゴッド・ブレス・アメリカ」、「イースター・パレード」、「ホワイト・クリスマス」、「ショービジネスほど楽しいものはない」、「チーク・ツー・チーク」など、ヒット曲を多数書いた。コール・ポーター(1891~1964年)は、ウィットに富んだ歌詞と感動的なメロディで、ブロードウェー・ショーの歌を新たな洗練のレベルに引き上げた。そうした作品には、「エニシング・ゴーズ」、「マイハート・ビロングス・トゥ・ダディ」、 「ユーア・ザ・トップ」、 「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー」、「イッツ・デ・ラブリー」などがある。

スコット・ジョプリン(1868~1917年)、ユービー・ブレーク(1883~1983年)ら、黒人の作曲家は、黒人音楽の伝統をもとに、歌曲、ラグタイムのピアノ曲、そしてジョプリンの場合はオペラも作曲した。ジョプリンは死後、ほとんど忘れられていたが、1970年以降、彼の作品が再評価されるようになった。ブレークは、ブロードウェー初の、黒人による黒人をテーマにしたミュージカル「シャッフル・アロング」の音楽を書いた。彼は、90歳代になっても活躍し続けた。奴隷の労働歌から生まれたブルースは、1920年代・30年代にニューヨークなどで大流行した。ブルースの名歌手には、マ・レイニー(1886~1939年)、ベッシー・スミス(1898年頃~1937年)らがいる。

 

ジャズ

W・C・ハンディの「セントルイス・ブルース」は、20世紀に書かれた歌の中で、最も頻繁に録音された歌の1つである。その中でも傑出しているのが、1925年にベッシー・スミスがルイ・アームストロング(1900~71年)のコルネット伴奏で録音したバージョンで、3人の偉大なアーティスト(作曲家、歌手、楽器奏者)がジャズという新しいジャンルの音楽で共演している。「ジャズ」の語源は明らかではないが、性的な意味を持つ言葉から来ていることはほぼ確実である。ジャズは、20世紀初めにルイジアナ州ニューオルリンズで発生し、ラグタイム、奴隷の歌、ブラスバンド音楽の各要素を採り入れている。ジャズの大きな特徴の1つはその流動性で、ジャズ・ミュージシャンは、同じ曲でも毎回同じ演奏をすることはほとんどなく、曲も歌詞も即興で変えることが多い。

1920年代から40年代には、ジェリー・ロール・モートン(1885~1941年)、デューク・エリントン(1899~1974年)、ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン(1909~86年)、ビックス・バイダーベック(1903~31年)、ビリー・ホリデー(1915~59年)、エラ・フィッツジェラルド(1918~96年)等、天才的なジャズ作曲家・演奏家が輩出し、ジャズはアメリカのポピュラー音楽の主流となった。1930年代・40年代に最も人気のあったジャズの形態は、大編成楽団による「ビッグバンド・スイング」ジャズだった。代表的なビッグバンドには、グレン・ミラー(1909~44年)やウィリアム・”カウント”・ベイシー(1904~84年)の率いる楽団がある。1940年代後半になると、新しい、より知的なジャズ「ビー・バップ」が注目されるようになった。これは、トランペットのディジー・ガレスピー(1917~93年)、サックスのチャーリー・パーカー(1920~55年)らを代表とする、インストルメンタル中心のジャズだった。トランペット奏者マイルズ・デイビス(1926~91年)は、さまざまな音楽の影響を受け、クラシック音楽を取り入れた「スペインからのスケッチ」などを作曲している。

 

ロックンロールとカントリー

1950年代初めになると、ジャズは大衆の支持を失い、ロックンロールという新たなポピュラー音楽が台頭してきた。ロックンロールは、強烈なビートときわどい歌詞の多い黒人音楽、リズム・アンド・ブルース(R&B)を母体としていた。R&Bは、黒人が作った、黒人のための音楽だったが、白人のティーンエージャーの支持を受け、黒人向けラジオの深夜放送でR&Bを聞くのが、彼らの秘かな楽しみとなった。白人のミュージシャンや編曲家は、R&Bのビートを抑え、歌詞を変えて、一般大衆に受け入れやすくするようR&Bを「使った」。その代表例が、黒人のアントワン・「ファッツ」・ドミノが自作自演した「エイント・ザット・ア・シェーム」で、この曲は1955年にロックのヒット曲となったが、白人歌手パット・ブーンによるバラード風のバージョンは、さらに大きなヒットとなった。

当時、目先のきくレコード・プロデューサーは、黒人男性のエネルギッシュな歌唱力を持つ、魅力ある白人男性を売り出せば、大スターになるだろうと目星をつけた。その条件にぴったり当てはまったのが、エルビス・プレスリー(1935~77年)である。南部の貧しい家庭に育ったプレスリーは、情感あふれる声と官能的な美貌を持ち、歌いながら腰を振るアクションは、大人の目には卑猥に映ったが、ティーンエージャーにとってはロックンロールとして自然なものだった。プレスリーも、初めは黒人歌手の曲を歌っていた。初期のヒット曲「ハウンド・ドッグ」は、ブルース歌手ビッグ・ママ・ソーントンの曲である。しかし、まもなくプレスリーは、新世代のロックンロール作曲家によるオリジナル曲を歌うようになった。

ロックンロールは、登場してから数年後には、特に若者の間で、アメリカを代表するポピュラー音楽になりつつあった。さらに英国にも急速に広がり、1960年代初めには、英国でビートルズやローリング・ストーンズが生まれた。一方、ロックに対抗するものとして、フォーク音楽が出現していた。フォークの母体は、スコットランド、イングランド、アイルランドからアメリカに持ち込まれ、ノースカロライナ州やウェストバージニア州の山地などで継承れていたバラードである。ウィーバーズ、ジョーン・バエズ、ジュディ・コリンズ、ピーター・ポール・アンド・マリーといったフォーク歌手は、アコースティック・ギターやバンジョーを伴奏に歌い、ロックンロールと対照的に(電気等を使わない)「ローテク」な音楽を聴かせた。

ボブ・ディラン(1941年~)は、黒人に対する公民権付与拒絶など現代社会の問題をとり上げた歌を書いて、フォークのファン層を広げた。1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでディランが初めてエレキギターを使った時には、「エレキに走った」ディランがブーングを受け、ロック・ファンとフォーク純粋主義者の対立が表面化した。しかしディランは臆することなく、フォークからロックとフォークの融合に移行する動きの先頭に立った。

この融合が一大転機となって、今日まで続くパターンが生まれた。ロックは、そのリズムの枠内に、ほとんどどんな音楽や風変わりなショーマンシップも採り入れることができるため、アメリカ、そして世界各地で、最も優勢なポピュラー音楽となっている。ロックは、マンネリ化の徴候が現れるたびに、アフリカ系アメリカ人の音楽をはじめ、他のジャンルからの刺激を得ているようである。その一例が、1980年代に登場したラップ音楽(単調な節に、韻を踏んだ、往々にしてきわどい歌詞を付けた黒人音楽)である。

フォークと同様、カントリーも、イングランド、スコットランド、アイルランドからアメリカに渡った音楽を母体としている。カントリーの原型は、「オールド・タイム」と呼ばれるもので、弦楽器のバンド(通常、フィドル、バンジョー、ギター、ベース)により演奏される。今日でも、バージニア、ノースカロライナ等、南部諸州のフェスティバルで、オールド・タイム・カントリーが演奏されている。

時代の関心事を歌ったモダン・カントリー音楽が生まれたのは1920年代だった。これは、農村の人々が職を求めて大量に都市部へ流入した時期とほぼ重なる。カントリーには、メランコリーな曲が多く、失われた家、故郷に残された親、失恋など、喪失や別離を歌ったものが多い。アメリカの他のポピュラー音楽と同様、カントリーもロックンロールのビートに合いやすく、カントリー・ロックも融合の成功例となった。カントリーは、ロックに次いで2番目に人気のあるジャンルであり、カントリーの歌手ガース・ブルックス(1962年~)のアルバム・レコード売上は、一人の歌手としてはエルビス・プレスリーやマイケル・ジャクソンを凌いで、アメリカの音楽史上最高である。

 
評論

アメリカ文化の強大な影響力を快く思わない国もある。フランスでは、英語の侵入を阻止しようとする動きが定期的に発生している。カナダも、国内におけるアメリカの出版物を制限している。アメリカ内でも、最大公分母をターゲットとした番組作りを優先するメディアの傾向を不満とする国民も多い。

しかし、公分母が必ずしも低級であるとは限らず、またアメリカは、世界中のほとんど全ての人たちにアピールする娯楽を作る、少なからぬ能力を備えている。作家・演出家のジョン・ボアスティンは、著書「ハリウッド・アイ」で、映画の大衆志向を次のように弁護しているが、これはアメリカの大衆文化のあらゆる分野に言えることである。「単純、貪欲、民主的な考え方を持つハリウッドの映画製作者たちは、すばらしく誇れる内容であると同時に、大衆が見たがるような作品を作ることが両立できることを本能的に知っている。そのために、彼らは自らの高尚な感性を抑えて、自分の両親や兄弟姉妹、ウォールストリートの弁護士、田舎町のロータリー会員、ウェイター、工学部の学生、警官、平和主義者、洗車場の職員、小学生、麻薬中毒者、偏見に凝り固まった人など、あらゆる人たちと共有する部分・・・すなわち人間が共通して持つ喜怒哀楽、興奮、喪失、苦悩、愛などを利用しているのだ。」


*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

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