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農業
米国の農業は過去200年間で劇的に変化した。米国独立戦争当時(1775-83)、95パーセントの人口が農業に従事していた。今日、その数字は2パーセント以下である。米国史の初期において、農民が国民の気風を決定づけていた。 農民は個人主義と平等主義を示し、社会の残りの成員はそれを賞賛し、見習う。
東から西へと入植が進むと、米国の農業は世界中の他の地域に比類ないほどに、豊かさと多様性を獲得していった。大地の広大さと自然の寛容さのお陰で、これは今日でもまだ事実である。米国の農業は数多くの家族農場を基本とし、農場は村の周りに集落をなすというより、散在し孤立するようになった。そして、農民の個人主義と自立の気風がさらに高められた。
喜んで新しい技術を取り入れる性格が米国の農民の特徴となっている。南北戦争の時代(1861-65)までに、機械が干草作り、脱穀、刈取り、耕作、 植え付けなどを肩代わりし、そのため生産性の拡大に拍車がかかった。農業生産量増大についてのもうひとつの要因は、19世紀後期におけるミシシッピ川を渡った入植者の急激な増加である。連邦政府は、入植者に税を免除するホームステッド法(1862)など、いくつかの方法を使って、国内の移住の促進を図った。
南北戦争後、生産過剰が深刻な問題となった。1870年代から1900年までが、米国の農民にとって特に困難であった。1862年に農務省を設立し、連邦政府は直接農事に関する役割を担うこととなった。20世紀初頭の一時期の繁栄の後、1920年代に農場価格は下落した。1930年代の大恐慌は価格をさらに下落させ、1932年までに農場価格は平均で1920年代のレベルの3分の1以下にまで下がった。今日の多くの農業政策は1930年代の絶望的な十年間にそのルーツがあり、救済活動はニューディール政策に盛り込まれている。
全般的に見て、米国の農業は, 注目すべき成功物語りである。米国の消費者は他の多くの工業国家の消費者よりも、より安い価格を食料に支払っている。米国の農業耕作最適地の3分の1は輸出用の作物を生産している。2003年、農業輸出は輸入を4倍から5倍しのいでいる。
米国の農業は益々「アグリビジネス」となっている。アグリビジネスとは、多様な農場ビジネスと構造を持ち、小規模のもの、家族経営のものから巨大なコングロマリット、或いは大きな土地を所有し、農民が使用するモノや材料を生産する多国籍企業まである。20世紀後期のアグリビジネスの出現は、より少数の、より大規模な農場を意味した。経営に携わらない株主に所有されたこれらの企業農場は機械をより多用し、農民の手はほとんど使わない。1940年には、平均67ヘクタールの600万の農場があった。1990年代後期までに、大きさが平均190ヘクタールの、220万の農地だけになった。同時期に、農場雇用は、1930年の1250万人から1990年代の120万人に激減した。1990年、労働人口の半分は農民であった。しかし2003年、その数字は2パーセント以下になった。今日、14万人の米国の農民が米国のほとんどの食物と繊維を生産している。
— 米国国務省国際情報プログラム室出版物およびその他の政府刊行物より —