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アメリカ合衆国のポートレート - 第10章「アメリカが生んだ芸術」

 
音楽、舞踊、建築、視覚芸術、文学 

アメリカにおける音楽、舞踊、建築、視覚芸術、文学等の芸術は、ヨーロッパの洗練性とアメリカの独創性という2つの強い影響力が引き合う緊張の中で発展してきた。アメリカの優れた芸術家には、この2つの力をうまく利用した例が多い。この章では、作品の中で旧世界と新世界の対立に取り組んできた人たちをはじめ、アメリカの偉大な芸術家を紹介する。

 

音楽

アメリカでは20世紀に入るまで、「真面目な」音楽とは、ヨーロッパの基準と作風によるものとされていた。その中で、ルイ・モロー・ゴットシャーク(1829~69年)は、例外だった。英国人の父とクレオールの母との間に生まれたゴットシャークは、生まれ故郷のニューオーリンズで聞いたプランテーション労働者のメロディとカリブのリズムを取り入れ曲を作った。彼はまた、アメリカ人ピアニストでは初めて国際的な評価を受けたが、早世したために比較的知名度が低い。

これに対して、典型的なアメリカ初期の作曲家として、エドワード・マクダウェル(1861~1908年)を挙げることができる。マクダウェルは、ヨーロッパ音楽を模範としただけでなく、「アメリカ人作曲家」と呼ばれることを断固として拒否した。彼は、初期のアメリカ人作家たちと同様、完全なアメリカ人になることは田舎者になることだという考えにとらわれ、その束縛から逃れることができなかった。

アメリカ独自のクラシック音楽を結実させたのは、ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937年)、アーロン・コープランド(1900~90年)といった作曲家たちだった。彼らは、ヨーロッパの形式に、アメリカで生まれたリズムとメロディを取り入れた。ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」や、オペラ「ポーギーとベス」は、ジャズ及びアフリカ系アメリカ人の音楽の影響を受けている。またガーシュウィンの曲には、都会性を強く意識したものもあり、「パリのアメリカ人」の出だしの部分は、タクシーの警笛を真似ている。

ハロルド・C・ショーンバーグの著書「偉大な作曲家たちの人生(The Lives of the Great Composers)」によると、コープランドは、「アメリカの音楽をドイツの束縛から解放することに貢献した」。コープランドは、パリ留学中に、伝統から離れてジャズへの関心を追求するようになった(ジャズについては第11章を参照)。彼は、交響曲、協奏曲、オペラのほかに、映画音楽も作曲しているが、コープランドの名を最も高めたのは、アメリカ民謡を取り入れたバレエ音楽で、「ビリー・ザ・キッド」、「ロデオ」、「アパラチアの春」などがある。

チャールズ・アイブズ(1874~1954年)も独創的なアメリカ人作曲家である。彼は、典型的なクラシック音楽の要素と、耳障りな不協和音とを組み合わせて使った。アイブズは、「私は早くから、ありふれた和音だけではやっていけないことがわかっていた。私には、別の音が聞こえていた」と説明している。アイブズの特異な音楽は、彼の生存中はほとんど演奏されることがなかったが、今日アイブズは、20世紀の音楽の方向を先取りした革新的な作曲家として評価されている。アイブズの後に続いた作曲家たちは、12音階、ミニマリズム等の革新的な手法を採り入れたが、こうした実験音楽は、一部の聴衆には不評だった。

20世紀も終わりに近づくと、再び、作曲家と聴衆の両方が満足できる音楽に戻ろうとする傾向が出てきた。この動きは、アメリカにおける交響楽団の不安定な状況に関係があるかもしれない。政府が交響楽団や歌劇団を援助することが珍しくないヨーロッパと違って、アメリカでは芸術に対する公共の支援が比較的少ない。アメリカの交響楽団は、存続のために、主として寄付や入場料に頼っている。

一般聴衆を満足させながら新しい音楽を取り入れていくために、伝統的なクラシック音楽と近代音楽とを並べたプログラムを組むなどの工夫をしている交響楽団もある。一方、オペラは伝統オペラも近代オペラも人気があるが、上演に多大なコストがかかるため、企業や個人からの寄付に大きく依存している。

 

舞踊

20世紀初めのアメリカ音楽の発展と密接に結びついて発生したのが、アメリカ独自の芸術形式、モダンダンスである。初期の革新的な舞踊家には、イザドラ・ダンカン(1878~1927年)がいる。ダンカンは、クラシック・バレーのポジションに代わって、純粋で自由な動きを強調した。

しかし、モダンダンスの発展の主流となったのは、ルース・セントデニス(1878~1968年)とその夫でパートナーのテッド・ショーン(1891~1972年)が設立した舞踊団である。セントデニスの弟子、ドリス・ハンフリー(1895~1958年)は、社会や人間の対立に題材を求めた。同じくセントデニスの弟子だったマーサ・グラハム(1893~1991年)がニューヨークに設立した舞踊団は、モダンダンス界でおそらく最も良く知られている。グラハムは、内に秘めた情熱を表現することを目指した。グラハムの有名な作品の多くは、コープランドの「アパラチアの春」のように、著名なアメリカ人作曲家と共同で制作された。

その後に出てきた振付師たちは、新たな表現の手法を求めた。マース・カニンガム(1919年~)は、踊りの舞台に即興性とランダムな動きを導入した。アルビン・エイリー(1931~89年)は、アフリカの踊りの要素と黒人音楽を作品に取り入れた。最近では、マーク・モリス(1956年~)、リズ・ラーマン(1947年~)らが、ダンサーは若くてスタイルがよくなければならないという固定観念を打ち破った。彼らは、優雅な動き、刺激的な動きは、年齢や体型とは関係ないとの信念に従ってダンサーを雇い、上演している。

20世紀初めには、ヨーロッパのバレエ団がアメリカで公演し、アメリカ人に初めてクラシック・バレエを紹介した。アメリカ初のバレー団が設立されたのは1930年代で、舞踊家や振付師たちが、リンカーン・カーステン(1907~96年)のような先見の明のあるバレエ愛好家と手を組んだ。カーステンは1933年に、ロシアの振付師ジョージ・バランチン(1904~83年)をアメリカに招き、2人でアメリカン・バレー学校を設立した。これが1948年に、ニューヨークシティバレエ団となった。1940年には、バレエ・マネージャー兼広報代理人のリチャード・プレザント(1909~61年)が、舞踊家兼後援者のルシア・チェイス(1907~86年)と共に、アメリカ第2のバレエ組織、アメリカン・バレー・シアターを設立した。

プレザントをはじめアメリカ生まれの演出家がロシアの伝統作品をレパートリーに入れたのに対し、バランチンは、過去の正統的なレパートリーではなく、クラシックの作風による新しい作品と優れた音楽を基盤とした。以来、アメリカのバレエ界では、ジェローム・ロビンズ(1918年~)、ロバート・ジョフリー(1930~88年)、エリオット・フェルド(1942年~)、アーサー・ミッチェル(1934年~)、ミハイル・バリシニコフ(1948年~)等、才能ある元ダンサーの振付で、クラシックの再演とオリジナル作品の両方が発展してきた。

 

 

建築

建築の分野で、間違いなくアメリカの貢献といえるのは、摩天楼である。高くそびえる摩天楼の大胆な線は、資本主義のエネルギーの象徴となった。新しい建築手法とエレベーターの発明によって可能となった摩天楼の第1号は、1884年、シカゴに建設された。

初期の優雅な摩天楼の多くは、アメリカで初めての偉大な近代建築家ルイス・サリバン(1856~1924年)の設計によるものだった。サリバンの最も優秀な弟子だったフランク・ロイド・ライト(1869~1959年)は、主に個人の住宅と、住宅に合わせた家具を設計した。ライトの住宅は、広い空間をふんだんに使ったものだった。しかし、ライトの作品で最も有名なものの1つは、公共の建物であるニューヨークのグッゲンハイム美術館である。

第2次世界大戦前にアメリカに移住したヨーロッパの建築家は、インターナショナル様式を設立し、これが建築界における主流となった。中でも、最も大きな影響力を有していたと思われるのは、ルドウィグ・ミース・ヴァン・デル・ローエ(1886~1969年)とワルター・グロピウス(1883~1969年)で、いずれもドイツの有名な建築デザイン学校、バウハウスのディレクターを務めた。この様式の建物は幾何学デザインに基づくもので、アメリカの企業社会の記念碑的存在として称賛される一方、「ガラスの箱」と批判されることもあった。マイケル・グレーブズ(1945年~)のようなアメリカの若手の建築家は、こうした単純な箱のようなデザインを拒否し、伝統建築を思わせる美しい輪郭と大胆な装飾を持つ「ポストモダン」様式の建物を設計した。

 

視覚芸術

アメリカで初めての著名な画派は、1820年に生まれた「ハドソン・リバー派」である。音楽や文学の場合と同様、絵画においても、芸術家たちが新世界にも独自の題材があることに気づくまでに時間がかかった。絵画の世界では、西部の開拓に伴って、フロンティアの大自然の類まれな美しさが画家の心をとらえた。

ハドソン・リバー派の率直で簡素な視覚は、後にウィンズロー・ホーマー(1836~1910年)らに影響を与えた。ホーマーは、アメリカの田舎、海、山、そしてそこに住む人たちを描いた。また、トーマス・イーキンズ(1844~1916年)は、厳しい写実主義者として、上品なロマン主義、感傷主義を排し、都市部の中流階級の生活を、見たままに描いた。

その後まもなく、アメリカの美術家にとっては、論争が日常となった。1900年以降、アメリカの絵画・彫刻の歴史は伝統に対する反逆の歴史でもある。「アッシュカン(ash-can)派」のリーダー、ロバート・ヘンリ(1865~1929年)は、「芸術的価値などくそくらえだ」と宣言した。アッシュカン(くず入れ)という名前は、同派が都市部の荒廃を率直に描いたことから、批評家が付けたものである。まもなく、アッシュカン派に代わってヨーロッパから来たモダニストが台頭し、写真家アルフレッド・スティーグリッツ(1864~1946年)が経営するニューヨークのギャラリー291では、キュービズムや抽象派の画家の作品が紹介された。

第2次世界大戦後、ニューヨークの若手芸術家の一団が、アメリカ独自の芸術運動を起こし、初めて外国の芸術家にも大きな影響を及ぼした。これが、ジャクソン・ポロック(1912~56年)、ウィレム・デ・クーニング(1904~97年)、マーク・ロスコ(1903~70年)を中心とする抽象的表現主義派である。彼らは、形式的な構図や写実を排して、空間と色の直感的な配置を重視し、カンバスに絵を描くという身体的行為の効果を表現しようとした。

抽象的表現主義の次世代の芸術家は、抽象主義の異なる形態として、複合素材を好んで使った。ロバート・ラウシェンバーグ(1925年~)、ジャスパー・ジョンズ(1930年~)らは、写真、新聞紙、廃物などを使った作品を制作している。また、アンディ・ウォーホール(1930~87年)、ラリー・リバーズ(1923年~)ロイ・リキテンスタイン(1923年~97年)といったポップ・アーティストは、コカ・コーラのびん、スープの缶、連載漫画など日用品やアメリカ大衆文化のイメージを風刺的に使った作品を生んだ。

今日、アメリカの芸術家は、流派、作風、素材にとらわれない傾向がある。舞台でのパフォーマンス、手書きの声明文、西部の砂漠に刻まれた巨大なデザイン、そしてベトナム戦争の戦死兵の名前を刻んだ大理石板を簡素に配置したものなど、あらゆる形態の美術作品が存在し得る。20世紀のアメリカによる美術界への最大の貢献は、からかいや遊びの要素を持ち込み、新しい作品の最大の目的は芸術そのものの定義に関する論争に参加することだという趣旨を広めたことではないだろうか。

 

文学

アメリカの初期の文学は、主として、ヨーロッパの形式を新しい土地に移植した模倣的なものだった。一例を挙げると、チャールズ・ブロックデン・ブラウン(1771~1810年)の「ウィーランド (Wieland)」や彼のその他の小説は、当時の英国のゴシック小説を積極的に真似たものだった。ワシントン・アービング(1783~1859年)の名作「リップ・バン・ウィンクル (Rip Van Winkle)」や「ムーアの泉 / スリーピー・ホローの伝説 (The Legend of Sleepy Hollow)」等でさえも、舞台は新世界であるが、きわめてヨーロッパ風な印象を与える。

おそらくアメリカ人作家として初めて大胆な新しい小説や詩を生んだのは、エドガー・アラン・ポー(1809~49年)である。1835年から、ポーは、それまで隠されていた人間の深層心理を探り、小説の限界をミステリーやファンタジーに向けて広げる短編小説を書き始めた。その中には、「赤死病の仮面 (The Masque of the Red Death)」、「落とし穴と振り子(The Pit and the Pendulum)」、「アッシャー家の崩壊(The Fall of the House of Usher)」、「モルグ街の殺人(The Murders in the Rue Morgue)」などがある。

1837年には、若い作家ナサニエル・ホーソーン(1804~64年)が、象徴主義とオカルト事象にあふれた短編集「トワイス・トールド・テールズ(Twice-Told Tales)」を発表した。その後ホーソーンは、長編ロマンス小説をいくつか書いた。これらは、生まれ故郷のニューイングランドを舞台に、罪、誇り、感情の抑制といったテーマを追求したものだった。代表作「緋文字(The Scarlet Letter)」は、姦通を犯したために地域社会から追放された女性を描いた厳しい小説である。

ホーソーンの小説は、彼の友人ハーマン・メルビル(1819~91年)に深い影響を与えた。メルビルは、船乗り時代の体験を素材にした異国情緒の作品で名を馳せた。その後、ホーソーンの影響を受けたメルビルは、哲学的考察に富んだ小説を書くようになった。冒険的な捕鯨生活を描いた「白鯨(Moby-Dick)」は、強迫観念、悪、自然に挑む人間の戦いといったテーマを掘り下げる手段となっている。また、短編の名作「ビリー・バッド(Billy Budd)」では、戦時の船上での義務と同情のせめぎ合いを感動的に描いている。しかし、メルビルの深遠な作品はあまり売れず、彼は忘れられた存在となっていた。メルビルが再び評価されるようになったのは、20世紀初めになってからである。

1836年、元牧師のラルフ・ウォルドー・エマソン(1803~82年)が驚異的なノンフィクション、「自然論(Nature)」を発表した。その中でエマソンは、組織的な宗教をなくし、自然界を研究し、自然と交わることで精神の高みに達することができると主張した。エマソンの作品は、彼の周囲に集まって超絶主義運動を形成したグループだけでなく、彼の講演を聞いた一般の人々にも影響を与えた。

エマソンの同輩の思想家で最も才能に恵まれていたのが、ヘンリー・デイビッド・ソロー(1817~62年)である。ソローは、確固たる非協調主義者で、森の中の池畔の小屋に、2年間ほとんど1人で暮らした後、その記録をもとに「森の生活(Walden)」という本を書いた。その中で彼は、組織化された社会の干渉に抵抗することを促している。ソローの急進的な著述は、アメリカ人の性質に深く根ざす個人主義の傾向を表している。

ミシシッピ川の西端に位置するミズーリ州で生まれたマーク・トウェイン(本名サミュエル・クレメンズ、1835~1910年)は、アメリカで初めての東海岸出身でない主要作家だった。トウェインの回想録「ミシシッピ川の生活(Life on the Mississippi)」と小説「ハックルベリー・フィンの冒険(Adventures of Huckleberry Finn)」は、地域文学として第2章でもとり上げた。トウェインの作品は、ジャーナリズムの影響を受けると共に、土地の方言を取り入れ、飾り気のない率直な文章ながら、きわめて感動的であり、かつ不遜なおかしさがあった。その作風は、アメリカ人の文章の書き方に変革をもたらした。トウェインの作品の登場人物は、土地の方言や新造語を使って、実在のアメリカ人と同じようにしゃべった。

ヘンリー・ジェイムズ(1843~1916年)は、旧世界と新世界のジレンマを正面からとり上げた。ジェイムズは、ニューヨークで生まれたが、成人してからはほとんど英国で暮らした。彼の小説には、ヨーロッパに住むアメリカ人やヨーロッパを旅するアメリカ人を主人公にしたものが多い。ジェイムズの難解できわめて修飾的な文章と、感情のニュアンスの精密な分析は、読者をひるませることもある。その中でも比較的読みやすい作品として、ヨーロッパに渡った魅力的なアメリカ人の娘を描いた中編「デイジー・ミラー(Daisy Miller)」、謎めいた幽霊物語「ねじの回転(The Turn of the Screw)」などが挙げられる。

19世紀のアメリカは、気質・作風共に正反対の2人の偉大な詩人を生んだ。その1人、ウォルト・ホイットマン(1819~92年)は、労働者であり、旅人であり、南北戦争(1861~65年)中は志願して看護士となり、詩人としては詩の世界に革新をもたらした。最大の傑作となった詩集「草の葉(Leaves of Grass)」は、自由な詩形と不規則な長さの行を使って、アメリカの民主主義の包括性を歌ったものである。そのモチーフをさらに一歩押し進めて、アメリカの広範な体験を自らに重ねた作品もあるが、そこには自己中心的な響きはない。たとえば、「草の葉」に収められた代表的な長詩「ぼく自身の歌 (Song of Myself)」で、彼はこう書いている。「これはあらゆる時代、あらゆる土地のあらゆる人たちの考えであり、私の独創ではない・・・。」

またホイットマンは、「ボディ・エレクトリック(the body electric)」と称し、肉体を重視した詩人でもあった。英国の小説家D・H・ローレンスは、著書「アメリカ古典文学の研究(Studies in Classic American Literature)」で、ホイットマンは「人間の精神が肉体より『すぐれ』、『上位』にあるものとする従来の道徳的概念を初めて打破した」と述べている。

もう1人の19世紀の偉大な詩人エミリー・ディキンソン(1830~86年)は、マサチューセッツの小さな町で、ひっそりと人生を過ごした、上流社会の未婚女性である。彼女の作品は、定型の中で、独創とウィット、洗練された精緻さ、そして心理的洞察に富んでいる。ディキンソンの詩は、当時としては伝統にとらわれないものであり、彼女の生前にはほとんど刊行されなかった。

ディキンソンの作品には死をとり上げたものが多いが、そこに茶目っ気のあるひねりをきかせている。たとえば、ある詩は、「私が立ち止まって死神を待つことができなかったので、死神が親切にも立ち止まって私を待ってくれた」という一節で始まる。また、男性優位主義の社会における女性としての立場と、認められない詩人としての立場から、「私は名もない人間。あなたは誰?あなたも名もない人間?」という問いかけで始まる作品もある。

20世紀初めのアメリカの作家は、小説の題材を、社会の上層と下層の両方に広げていった。イーディス・ウォートン(1862~1937年)は、自らが育った環境である東海岸の上流社会を鋭く観察した作品を書いた。彼女の代表作の1つである「汚れなき情事(The Age of Innocence)」は、魅力的なよそ者より、社会的に受け入れられる伝統的な女性を結婚相手に選ぶ男性を描いている。ほぼ同時代の作家スティーブン・クレーン(1871~1900年)には、南北戦争を題材にした代表作「赤い武功章(The Red Badge of Courage)」のほかに、ニューヨークの売春婦の生活を描いた「マギー / 街の女 (Maggie: A Girl of the Streets)」などの作品がある。また、セオドア・ドライサー(1871~1945年)の「シスター・キャリー (Sister Carrie)」は、田舎からシカゴに出てきて囲われの身となる少女の物語である。

まもなく、新たな題材の自由に、実験的な様式・形式を組み合わせた作品が出現した。1909年、パリに定住していたガートルード・スタイン(1874~1946年)は、キュービズム、ジャズ、その他の現代美術・音楽の運動との関わりに影響を受けた革新的な短編集「三人の女(Three Lives)」を出版した。

詩人エズラ・パウンド(1885~1972年)は、アイダホ州に生まれたが、成人してからは主にヨーロッパに住んだ。パウンドの作品は複雑で、時に理解し難く、西洋・東洋の幅広い文学作品やその他の芸術形態を引用している。パウンドの影響を受けた詩人は多いが、パウンドと同様、海外に渡ったT・S・エリオット(1888~1965年)が有名である。エリオットの詩は、簡潔かつ知的であり、象徴をちりばめた濃密な構成を持っている。「荒地(The Waste Land)」と題する作品では、苦悩に満ちた断片的なイメージを使って、第1次世界大戦後の社会の歪んだ見方を具現化した。パウンドの作品と同様に、エリオットの詩もきわめて引用が多く、「荒地」も版によっては作者による脚注が付いている。エリオットは1948年にノーベル文学賞を受けた。

第1次世界大戦後の幻滅感を表現したアメリカの作家も多い。F・スコット・フィッツジェラルド(1896~1940年)の小説は、1920年代の不安感と、快楽を求める反抗的なムードをとらえている。フィッツジェラルドは、若者の輝かしい夢が失敗と失望に終わりやすいことを、好んで小説のテーマとしたが、それを痛切に表した代表作が「偉大なギャッツビー (The Great Gatsby)」である。

アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961年)は、第1次世界大戦で救急車の運転手として、暴力と死を実地に体験した。そうした無意味な殺戮を見たことから、ヘミングウェイは、抽象的な言葉は概して空疎であり誤解をもたらすとの結論に達した。彼の文章は、不必要な言葉をそぎ落とし、文の構造を簡素化し、具体的な事物や行為に注意を集中している。ヘミングウェイは、苦境下における勇気を重視する道徳律を信奉し、彼の作品は、寡黙で往々にして女性に対してぎこちない男性を主人公にしている。その中でも「陽はまた昇る(The Sun Also Rises)」と「武器よさらば(A Farewell to Arms)」が、最高傑作とされている。ヘミングウェイは1954年にノーベル文学賞を受賞した。

1920年代は、小説だけでなく演劇も盛んだった。アメリカには、ユージーン・オニール(1888~1953年)が出現するまで、重要な劇作家はいなかった。1936年にノーベル文学賞を受賞したオニールは、神話、聖書、そして当時新しい科学だった心理学を参考にしながら、人間の内面を探究した。オニールは、性や家族の争いを率直に描いたが、彼が最も関心を持ったのは、個人のアイデンティティの追求だった。彼の傑作の1つである「夜への長い旅路 (Long Day’s Journey Into Night) 」は、自分の家族をモデルにした悲痛なドラマで、規模は小さいが、大きなテーマを扱っている。

テネシー・ウィリアムズ(1911~1983年)も、きわめて独創的なアメリカの劇作家である。アメリカ南部に生まれたウィリアムズは、詩的かつ扇情的な戯曲で、南部の伝統を表現した。粗野な環境に閉じ込められた繊細な女性を描いた作品が多い。「欲望という名の電車 (A Streetcar Named Desire) 」、「やけたトタン屋根の上の猫 (Cat on a Hot Tin Roof) 」など、映画化された作品もある。

ヘミングウェイより5年早くノーベル賞を受けたアメリカの作家が、ウィリアム・フォークナー(1897~1962年)である。彼は、ミシシッピ州に架空の郡「ヨクナパトーファ郡」を設定し、そこに膨大な種類の人間像を描き出した。登場人物の内面を表すために、彼らのとりとめのない話を一見何の手も加えずにそのまま記録している。これは「意識の流れ」と呼ばれる手法だが、とりとめがなく見えるのは錯覚で、実際には技巧を凝らして作られた文章である。またフォークナーは、過去が(特に南部の奴隷制度時代が)現在まで続いているさまを表すために、時間の流れを混乱させる手法を使った。フォークナーの代表作には、「響きと怒り(The Sound and the Fury)」、「アブサロム、アブサロム!(Absalom, Absalom!)」、「行け、モーゼよ(Go Down, Moses)」、「征服されざる人々(The Unvanquished)」などがある。

フォークナーと共に、南部文芸復興を担ったのが、トルーマン・カポーティ(1924~84年)、フラネリー・オコナー(1925~64年)らである。カポーティは、短編、長編、フィクション、ノンフィクション等さまざまな作品を書いたが、代表作は、実際に起きた一家惨殺事件とその波紋を描いた「冷血(In Cold Blood)」である。この作品は、粘り強いジャーナリズムに、作家の鋭い心理洞察と透明な散文体を融合させている。このほかにも、こうした「ノンフィクション小説」には、国防総省に対する反戦デモを題材にしたノーマン・メイラー(1923年~)の「夜の軍隊 (Armies of the Night)」、アメリカの宇宙飛行士を描いたトム・ウルフ(1931年~)の「ライト・スタッフ(The Right Stuff)」などがある。

フラネリー・オコナーはカトリック教徒であり、プロテスタントが大多数を占めるアメリカ南部で、よそ者として育った。彼女の作品には、神と悪魔の両方について妄想にとりつかれたプロテスタントの原理主義者が登場する。オコナーは、悲喜劇的な短編が最もよく知られている。

1920年代には、ニューヨークのハーレム地区で、黒人の芸術社会が生まれた。「ハーレム・ルネッサンス」と呼ばれるこの時期に、ラングストン・ヒューズ(1902~67年)、カウンティー・カレン(1903~46年)、クロード・マッケイ(1889~1948年)ら、才能ある詩人が出現した。作家ゾラ・ニール・ハーストン(1903~60年)は、語り部としての才能と人類学の知識を使い、アフリカ系アメリカ人が語り継いできた物語をもとに生き生きとした小説を書いた。ハーストンは、皮膚の色の明るいアフリカ系アメリカ人女性の人生や結婚生活を描いた「彼らの目は神を見ていた(Their Eyes Were Watching God)」等の作品を通じて、後の黒人女性作家に影響を与えた。

第2次世界大戦後、多様な意見に対する受容度が高まり、黒人作家がアメリカ文化の主流に参加するようになった。ジェームズ・ボールドウィン(1924~87年)は、「ジョバンニの部屋(Giovanni’s Room)」で、人種差別主義に対する軽蔑と、セクシュアリティへの賛美を表現した。ラルフ・エリソン(1914~94年)の「見えない人間 (Invisible Man)」は、人種のせいで、白人中心の文化にとって見えない存在となるしかないアフリカ系アメリカ人の苦しい状況を、近代世界における人間のアイデンティティの追求という、より大きなテーマに結びつけた作品である。

1950年代には、アメリカ西海岸で、「ビート・ジェネレーション」の詩や小説が誕生した。「ビート・ジェネレーション」という名前は、ジャズ音楽のリズムを表すと同時に、戦後の社会の衰退、また麻薬、酒、東洋の神秘主義による新たな体験への興味をも表している。詩人アレン・ギンズバーグ(1926~97年)の「吠える(Howl)」は、社会への抵抗と幻想的な恍惚を基調としており、ホイットマンの作品を思わせる。この詩は、「私は、この世代の最もすぐれた頭脳が、狂気で破壊されるのを見てきた」という1行で始まる。またジャック・ケロアック(1922~69年)は、エピソード風の小説「路上(On the Road)」で、ビート・ジェネレーションの気楽で快楽主義的な生活を賛美した。

アービングやホーソーンの時代から今日に至るまで、アメリカでは短編小説が広く好まれてきたが、20世紀の短編の名手に、ジョン・チーバー(1912~82年)がいる。彼は、大都市周辺に広がる裕福な郊外地域というアメリカの生活の一側面を、文学の世界に取り入れた。チーバーは長年にわたって、ウィットと洗練された内容で知られる「ニューヨーカー」誌に関わっていた。

現在進行中の文学の動向を語ろうとするのは危険なことであるが、最近の少数民族グループの作家の台頭にはめざましいものがある。ここでは、そのごく一部を紹介する。アメリカ先住民のレスリー・マーモン・シルコ(1948年~)は、口語体と昔話を使って、「冷たい嵐の光の中で(In Cold Storm Light」」のような印象的な叙情詩を書いている。中国系アメリカ人作家エイミー・タン(1952年~)の「ジョイ・ラック・クラブ(Joy Luck Club)」は、自分の両親がカリフォルニア州で体験した苦労を題材にしている。キューバにルーツを持つオスカル・イフエロス(1951年~)は、小説「マンボ・キング、愛のうたを歌う(The Mambo Kings Play Songs of Love)」で、1991年ピュリッツァー賞を受賞した。エドムンド・ホワイト(1940年~)は、「ある少年の物語(A Boy’s Own Story)」に始まる一連の作品で、アメリカで同性愛者として育つことの苦悩と喜劇を表現した。最後になるが、近年アフリカ系アメリカ人の女性作家による小説に、優れたものが多い。そうした作家の1人、トニ・モリソン(1931年~)は、「ビラブド / 愛されし者(Beloved)」その他の作品を書き、1993年にアメリカ人女性では2人目のノーベル文学賞受賞者となった。


*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

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