米国プロファイル
アメリカ合衆国のポートレート - 第3章「『理想の町』を目指して」
初めて北アメリカに到達したヨーロッパ人は、西暦1000年頃にやってきたリーフ・エリクソン率いるアイスランド・バイキングの一団だった。その痕跡がカナダのニューファンドランド州で発見されているが、バイキングは定住することなく、まもなく新大陸から去っていった。
それから5世紀の後、ヨーロッパでアジアからの香辛料、織物、染料に対する需要が高まるにつれ、ヨーロッパの航海者は、東と西を結ぶ航路の短縮を夢見るようになった。1492年、イタリアの航海者クリストファー・コロンブスが、スペイン国王のためにヨーロッパから西方へ航海し、カリブ海のバハマ諸島に上陸した。その後40年の間に、スペインの探検家らが中南米に巨大な帝国を築いた。
英国の植民地として、はじめて成功したのが、1607年に設立されたジェームズタウン(バージニア)である。その数年後、英国で英国国教会に反対して迫害されていた清教徒(ピューリタン)が、宗教的迫害を逃れてアメリカ大陸に渡った。1620年、ピューリタンはプリマス植民地を作り、これが後にマサチューセッツ州となった。プリマスは、北アメリカで2番目の英国植民地であり、ニューイングランド地方では最初の英国植民地だった。
ピューリタンは、ニューイングランドに、理想の地域社会である「丘の上の町」を築こうとした。以来今日に至るまで、アメリカ人は自分たちの国について、偉大な実験であり、他の国々が従うに足る立派な模範であると考えている。ピューリタンは、政府が神の道徳を強制すべきであると信じ、異教徒、姦通者、酔っ払い、そして安息日の違反者などを厳しく罰した。ピューリタンは、自らが宗教の自由を求めてきたにもかかわらず、不寛容な倫理主義を実践したのである。1636年、ロジャー・ウィリアムズという英国人聖職者が、マサチューセッツを離れてロードアイランドに新たな植民地を建設し、信教の自由と政教分離を基本理念とした。この2つの理念は、後に合衆国憲法に採用された。
ヨーロッパの他の国々からも入植者がやってきたが、アメリカに最も深く根を下ろしていたのは英国人だった。1733年までに、英国からの入植者たちはアメリカ大西洋岸に、北はニューハンプシャーから南はジョージアまで、13の植民地を建設していた。北アメリカの他の地域では、フランスがカナダとルイジアナを制しており、この領地には広大なミシシッピ川流域が含まれていた。18世紀には英国とフランスが何度か戦い、アメリカは毎回、戦に巻き込まれた。1763年に7年戦争が終了し、英国がカナダ及びミシシッピ川以東の北アメリカを支配下に置いた。
その後まもなく、英国とその植民地とが対立するようになった。英国は、1つには7年戦争による経済負担を軽減するために、植民地に新たな税金を課し、アメリカ人が英国兵士を自宅に宿泊させることを期待した。入植者は課税に憤慨し、英国兵士の宿泊にも抵抗した。彼らは、植民地に課税できるのは植民議会だけだと主張し、「代議権なければ納税義務なし」のスローガンを掲げて結集した。
茶に対する税金を除き、すべての税金が廃止されたが、1773年には愛国者の一団がインディアンに扮してボストン港内の英国商船に乗り込み、茶342箱を海に投げ捨てて、課税に抗議した。これが「ボストン茶会事件」である。この事件の結果、英国議会は植民地の弾圧に乗り出し、海運に対しボストン港を封鎖した。植民地の指導者たちは、1774年に第1回大陸会議を開催し、英国による支配に対する植民地の反対について討議した。1775年4月19日、マサチューセッツ州レキシントンで英国兵士が植民地の反徒に立ち向かったことから独立戦争が勃発した。1776年7月4日には、大陸会議が独立宣言を採択した。
独立戦争は、最初はアメリカに不利な戦況となった。物資はほとんど無く、訓練もほとんど受けていなかったにもかかわらず、全般的にアメリカ兵はよく戦ったが、数でも戦力でも英国軍に圧倒されていた。しかし1777年、ニューヨーク州サラトガの戦いでアメリカ軍が英軍を破り、戦局が一転した。フランスは秘かにアメリカを援助していたが、アメリカが戦闘で実力を証明するまでは公に同盟を結ぶことを渋っていた。サラトガでのアメリカの勝利の後、フランスはアメリカと同盟条約を結び、アメリカに兵士や戦艦を提供した。
1781年、バージニア州ヨークタウンで独立戦争最後の大きな戦いが行われ、米仏連合軍が英国軍を包囲し、降伏させた。その後も2年間にわたって一部地域で戦闘が続いたが、1783年にパリ平和条約が結ばれ、英国がアメリカの独立を承認して、独立戦争は公式に終結した。
アメリカ合衆国憲法の起草とアメリカ合衆国の誕生については、第4章に詳しく述べる。基本的に、合衆国憲法は、政府を3つの府 — 立法府(議会)、行政府(大統領)、司法府(連邦裁判所)– に分離すること、そして個人の自由を保障する修正10カ条(「権利章典」)を付加することによって、過度な中央集権に対するアメリカ人の不安を緩和した。権力の集中に対する不安は引き続き存在し、それは、独立戦争時代の2人の偉人の異なる政治哲学にも表れている。独立戦争の英雄で合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントンは、強力な大統領と中央政府を支持する政党の党首となった。一方、独立宣言の主たる起草者だったトーマス・ジェファソンの率いる政党は、州の方が人民に対する責任を果たすことができるという理論の下に、各州により大きな権力を与えるよう求めた。
ジェファソンは1801年、第3代大統領に就任した。ジェファソンは大統領の権力を制限する意図を持っていたが、政治の現実はそれを許さなかった。ジェファソンの強硬な措置の中には、1803年のフランスからのルイジアナ購入があり、その結果領土はほぼ2倍に拡大した。ルイジアナ購入により、アメリカの領土は200万平方キロメートル以上広がり、西側の国境はコロラド州ロッキー山脈付近まで移動した。
19世紀の最初の25年間に、入植地のフロンティアはミシシッピ川に達し、さらに西へ広がった。1828年、アンドリュー・ジャクソンが「よそ者」として初めて大統領に選出された。フロンティアのテネシー州の貧しい家庭に生まれたジャクソンは、大西洋岸の伝統文化から見れば、「よそ者」だった。
ジャクソン時代は、表面的には楽観主義とエネルギーがあふれていたが、まだ生まれてまもないアメリカは、矛盾に満ちた国だった。独立宣言に謳われている「人は皆平等に創造される」との言葉は、150万人の奴隷にとっては無意味なものだった。(奴隷制度とその影響については、第1章と第4章を参照。)
1820年、南部と北部の政治家たちは、西部の領土で奴隷制度を合法とするかどうかを議論した。議会は妥協策として、新しい州ミズーリとアーカンソーの領土で奴隷制度を認めたが、ミズーリより西及び北の地域では奴隷制度を禁止した。1846~48年のメキシコ戦争で、アメリカはさらに領土を広げ、それとともに奴隷制度を新領土に広げるかどうかという問題が生じた。1850年には、再び妥協策として、カリフォルニア州を自由州とし、ユタとニューメキシコでは奴隷制度を認めるかどうかを住民に決定させることになった。(住民は奴隷制度を認めなかった。)
しかし、その後も奴隷制度を巡る対立が続いた。1860年、奴隷制度に反対するアブラハム・リンカーンが大統領に選出されると、南部11州が連邦を脱退し、独立を宣言した。南部連合国に参加したのは、サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス、バージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナの11州である。こうして南北戦争が始まった。
戦争初期は、南軍が善戦した。南軍の指揮官には、ロバート・E・リー将軍をはじめ、すぐれた戦術家がいたが、兵力と資源では北軍の方が優っていた。1863年夏、リー将軍は命運を賭けて北のペンシルバニア州へ行軍し、ゲティスバーグで北軍と交戦した。ゲティスバーグの戦いは、アメリカ本土で行われた戦闘としては最大のものとなった。3日間の激戦の末、南軍は敗北した。同じ頃、ミシシッピ州では、北軍のユリシーズ・S・グラント将軍が、ミシシッピ河畔のビックスバーグの町を包囲し、北軍がミシシッピ・バレーを完全に支配して、南軍を2つに分断した。
それから2年後、リー、グラント両将軍がそれぞれ率いる南軍と北軍の長い戦いの末、南軍は降伏した。南北戦争は、アメリカ史上、最も悲劇的な出来事である。しかし、この戦争は、1776年以来アメリカを悩ませていた2つの問題を解決した。南北戦争は、奴隷制度を終わらせるとともに、アメリカが準独立州の集まりではなく不可分の国家であることを明らかにしたのである。
1865年、リンカーン大統領が暗殺され、アメリカは、南北戦争が残した傷を癒すことのできる資質と経歴を備えたユニークな指導者を失った。リンカーンの後を継いで大統領に就任したアンドリュー・ジョンソンは、南部人だったが、南北戦争では北軍側への忠誠を保った。ジョンソンの属する共和党の北部出身の党員は、ジョンソンが旧南部連合国支持者に対して寛大すぎるとして、大統領免職の手続を開始した。その結果ジョンソンが無罪となったことは、三権分立の原則にとって、重要な勝利だった。すなわち、議会が大統領の政策に反対だからといって、大統領を免職にすることはできない。免職が可能なのは、大統領が、合衆国憲法に述べられている「反逆罪、収賄罪、またはその他の重罪及び軽罪」を犯した場合に限られる。
南北戦争後、数年のうちに、アメリカは主要工業国となり、商才のある事業家は大きな富を築いた。1869年には、初めての大陸横断鉄道が完成し、1900年までには、国内の鉄道の全長が、ヨーロッパ全土の鉄道の全長を超えるまでになっていた。石油産業が栄え、スタンダード・オイル・カンパニーのジョン・D・ロックフェラーは、全米有数の富豪となった。また、貧しいスコットランド移民だったアンドリュー・カーネギーは、巨大な製鋼事業を築いた。南部では繊維工場が急増し、イリノイ州シカゴには精肉工場が集中した。電話、電球、蓄音機、交流電動機・変圧器、活動写真などが相次いで発明され、国民がこれを利用するに伴い、電力産業が繁栄した。シカゴの建築家ルイス・サリバンによる、鉄鋼枠を使った建設法は、アメリカ独特の近代都市を象徴する摩天楼を生んだ。
しかし、抑制のない経済成長は危険をもたらした。鉄道会社は競争を制限するために合併し、標準輸送料金を設定した。巨大な企業グループであるトラストが、特に石油をはじめとする一部の産業を独占しようとした。こうした巨大企業は、製品を効率的に作り、安く売ることができたが、一方で価格を操作し、競争相手を破滅させることができた。これに対して、連邦政府は対抗措置をとった。1887年に、鉄道料金を統制するため、州際通商委員会が設立された。また、1890年のシャーマン反トラスト法(独占禁止法)は、トラスト、合併、そして「通商を抑制する」事業協定を禁止した。
産業化に伴い、組織労働者の数が増加した。1886年に設立されたアメリカ労働総同盟は、熟練労働者の労働組合連合である。19世紀末になって、移民の数が大幅に増え、新産業における労働者の多くが、外国生まれの者となった。しかし、この時期は、アメリカの農民にとっては厳しい時期となった。食糧価格が下落する一方で、農民は、高い輸送料、高金利のローン、高い税金、そして消費財に対する高い関税を負担しなければならなかったからである。
1867年のロシアからのアラスカ購入を除いては、アメリカの領土は1848年以降拡大していなかった。1890年代になって、再び領土拡大の気運が高まった。アメリカは、北欧諸国にならって、アジア、アフリカ、中南米諸国の民族を「教化」することが自らの務めであると主張した。スペインの植民地であったキューバにおける残虐行為を、アメリカの新聞が扇情的に報じた後の1898年、アメリカとスペインの両国が開戦した。戦争の終結時に、アメリカは、キューバ、フィリピン、プエルトリコならびにグアムといった多くの領土をスペインから獲得した。これとは別に、アメリカはハワイ諸島も獲得した。
しかし、かつて帝国の束縛から自らを開放したアメリカ人は、自ら帝国を統治することに居心地の悪さを感じた。1902年、新生キューバ共和国はアメリカ海軍基地提供を義務づけられたものの、アメリカ軍はキューバを撤退した。フィリピンは、1907年に、限られた自治を回復し、1946年には完全に独立した。また、プエルトリコは、アメリカ自治領となり、ハワイも1959年に、アラスカ同様、アメリカの1州となった。
アメリカ人は、国外で冒険的な行動をする一方で、国内では新たな角度から社会問題を検討していた。繁栄の兆しにもかかわらず、産業労働者の半数近くはいまだ貧困生活を続けていた。ニューヨーク、ボストン、シカゴ、サンフランシスコといった都市は、誇るべき博物館、大学、公立図書館等を有していたが、一方で、恥ずべきスラムも抱えていたのである。経済においては、商業活動に対する政府の干渉を最小限に抑えるという自由放任主義が、信条として広まっていた。1900年頃、政府の活動を通じて社会と個人の改革を実現しようとする進歩主義運動が起こった。この運動の支持者は、政治問題に対して科学的で費用対効果の高い解決策を求めた主として経済学者、社会学者、技術者、役人たちだった。
ソーシャルワーカーが、スラムに入り、福祉施設(セツルメント・ハウス)を設置して、貧困者に医療やレクリエーションを提供した。禁酒主義者は、アル中の夫を持つ妻やその子どもたちの苦難を未然に防ぐことを目的の一部として、酒類の販売禁止を求めた。都会では、改革派の政治家が腐敗と戦い、公共交通機関を規制し、自治体所有の公益事業施設を設置した。各州は法律を通して、児童労働を規制し、就労時間を制限し、労災補償を提供した。
アメリカ人の中には、もっと過激なイデオロギーを支持した人々もいた。ユージーン・V・デブスを党首とする社会党は、国家管理経済体制への、平和的かつ民主的な移行を提唱した。しかしながら、社会主義は、アメリカでは決して根付かなかった。社会党が大統領選挙で最も善戦したのは1912年で、得票率は6%だった。
1914年にヨーロッパで第1次世界大戦が勃発した時、ウッドロー・ウィルソン大統領は、アメリカの厳格な中立政策を提唱した。ところが、ドイツが連合国の港に向けて航行中の全船舶に対して無差別の潜水艦戦を宣言したため、中立の立場は崩れることになる。1917年に連邦議会がドイツに対し宣戦布告をした当時、合衆国陸軍には20万人の兵士しかいなかった。そこで数百万の男子を徴兵し、訓練を与え、潜水艦が出没する大西洋を渡って派兵することが必要になった。合衆国陸軍が、戦線で有意義な貢献ができるようになるまでには、その後丸1年を要した。
1918年秋までに、ドイツは絶望的な状態となっていた。ドイツ軍は、アメリカ軍の容赦ない兵力増強を前に、退却を開始していた。10月、ドイツは講和を求め、11月11日に休戦が宣言された。1919年、ウィルソン大統領は、自らベルサイユに赴き、平和条約起草に携わった。ウィルソン大統領は、連合国の各首都で、群衆に歓呼をもって迎えられたが、国際情勢に対する彼の展望は、国内ではそれほど人気がなかった。ウィルソン大統領が提案した国際連盟はベルサイユ条約に盛り込まれたが、合衆国議会上院はこの条約を批准せず、アメリカは連盟に参加しなかったのである。
アメリカ人の大半は、条約が批准されなかったことを嘆かなかった。国民は内向き志向になり、アメリカはヨーロッパの問題から手を引いた。それと同時にアメリカ人は、自らの周囲にいる外国人に対して敵意を抱くようになった。1919年、テロリストによる一連の爆破事件が「赤の恐怖」を産み出した。A・ミッチェル・パーマー司法長官の権限の下、政治集会が手入れをうけるようになり、外国生まれの政治的過激派数百名が、大半は何の罪も犯していないのに国外に追放された。1921年、イタリア生まれの2人の無政府主義者、ニコラ・サッコとバルトロメオ・バンゼッティが、不確実な証拠に基づいて、殺人の罪に問われた。これに対し、知識人たちは抗議したが、1927年、両名は電気椅子で処刑された。議会は1921年に、移民を制限する法律を制定、1924年と1929年の2回にわたり、この法律をさらに強化した。こうした制限は、アングロ・サクソン系と北欧諸国からの移民にとって有利になっていた。
1920年代は、快楽主義と禁欲的な保守主義が共存する、特異にして混乱した時代だった。また、禁酒法の時代でもあった。1920年、憲法改正によってアルコール飲料の販売が違法となったが、何千もの「スピークイージー」と呼ばれる違法バーができ、酒飲みは法の目を楽々とくぐり抜け、ギャングは密造酒で不正な富を築いた。この時代はまた、ジャズと華麗なサイレント映画、そして、旗ざおに昇ったり、金魚を飲み込んだりという奇行が流行った「狂乱の20年代」でもあった。南北戦争後に南部で生まれた人種差別主義者の組織、クークラックスクランは、新たな支持者を得て、黒人、カトリック教徒、ユダヤ人、及び移民に対するテロ行為を行った。こうした状況の中で、カトリック教徒であるニューヨーク州知事のアルフレッド・E・スミスが、民主党の大統領候補に選出された。
大企業にとっては、1920年代は黄金期となった。当時のアメリカは、消費社会となっており、ラジオ、家庭用電化製品、合成繊維及びプラスチック市場が急成長していた。1920年代に最も称賛された人物の1人として、自動車工場に組立ラインを導入したヘンリー・フォードが挙げられる。フォードは、何百万人もの消費者が購入できる低価格の大衆車、T型フォードの大量生産によって、従業員に高賃金を支払い、かつ莫大な利益を得ることができた。この時期、アメリカ人は、手に触れるものをすべて黄金に変えられるミダス王になったかのようだった。
しかしながら、この表面的な繁栄の下には、根深い問題が潜んでいた。急増する利益と低金利は、投資資金を潤沢にしたが、その多くは株式市場への無謀な投機に回されていた。熱狂的な買い注文によって、株価は実質価値よりはるかに押し上げられ、投資家は、購入価格の90%までを借り入れる「信用買い」を行った。そして1929年、バブルがはじけた。株式市場は崩壊し、世界的な不況を引き起こした。
1932年までには、アメリカの何千という銀行、そして10万以上の企業が倒産していた。工業生産は半減し、賃金水準は6割も下落した。労働者の4人に1人が、失業していた。その年、フランクリン・D・ルーズベルトが「米国民のためのニューディール政策」を掲げて、大統領に選出された。
ルーズベルトの快活で自信に満ちた態度は、国に活気を与えた。彼は、就任演説で、「我々が恐れなければならないのは、恐怖そのものだけだ」と述べた。彼は、自らのこの言葉を、断固たる行動で裏付けた。ルーズベルト大統領は、「最初の100日間」といわれる就任後の3カ月間で、経済復興のための多くの法律を議会で次々と通過させた。新規に設立された市民資源保全部隊や公共事業促進局等の連邦政府機関は、道路、橋、空港、公園、公共建築物の建設を請け負い、何百万もの雇用を創出した。後には、社会保障制度法によって、老齢者及び遺族を対象とした拠出型年金が創設されている。
しかし、ルーズベルトのニューディール政策も、不況を終わらせることはできなかった。経済は好転したものの、完全な復興までには、アメリカの第2次世界大戦参戦前の防衛力増強を待たなければならなかった。
1939年にヨーロッパで戦争が勃発した際、アメリカは当初、再び中立政策をとった。ところが、1941年12月、日本がハワイ真珠湾の海軍基地を爆撃し、アメリカは参戦を余儀なくされた。最初は日本を相手に、そして後に日本の同盟国であるドイツ、イタリアとも戦うことになった。
米・英・ソの軍事作戦計画では、まずドイツ軍を討ち負かすことに集中することになった。英・米両軍が1942年11月、北アフリカに上陸、翌1943年にはシシリー島、続いてイタリア本土と進撃し、1944年6月4日にローマを解放した。その2日後、いわゆる「Dデー」に、連合軍はノルマンディに上陸した。8月24日、パリの解放、そして9月までにはアメリカ軍部隊はドイツ国境を越え、1945年5月5日、ついにドイツは降伏した。
日本との戦争は、1945年8月に、突然終わりを告げた。ハリー・トルーマン大統領が広島、長崎の両都市に対し原爆投下を命じ、これにより20万人近い民間人が殺された。この原爆使用は、いまでも激しい議論の余地ある問題ではあるが、原爆投下の擁護論は、もし連合軍が日本に侵攻していたら双方の側にさらに多くの死傷者が出ていただろう、というものであった。
戦後、新たな国際機関として国際連合が設立され、これにはアメリカも加盟した。まもなく、アメリカと、戦争中は同盟関係にあったソ連との間に緊張が生じた。ソ連の指導者ジョセフ・スターリンは、ヨーロッパで解放されたすべての国における自由選挙を支持することを約束していた。にもかかわらず、ソ連軍は、東欧に対し共産主義の独裁体制を押し付けた。ドイツは分裂国家となり、西側を英・仏・米が共同で、東側をソ連が占領した。1948年春、ソ連は西ベルリンを封鎖し、町を孤立させ飢えさせることによって降伏させようとした。これに対し西側勢力は、食料と燃料を大量に空輸し、結局、1949年5月にソ連が封鎖を解いた。これより1カ月前、アメリカはベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、アイスランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ノルウェー、ポルトガルならびにイギリスと同盟を結び、北大西洋条約機構(NATO)を結成した。
1950年6月25日、ソ連製の武器で武装した北朝鮮軍が、スターリンの承認を得て韓国に侵略した。これに対しトルーマンは、韓国を防衛する言質を、直ちに国際連合から取り付けた。こうして始まった朝鮮戦争は、3年間続き、最終的決着によって、朝鮮半島は分断された。
東欧に対するソ連の支配、朝鮮戦争、及びソ連による原水爆の開発は、アメリカ人の間に恐怖を植え付けた。国民の中には、アメリカが新たに抱える脆弱さは、国内の反逆者の仕業であると信ずる者もいた。共和党のジョセフ・マッカーシー上院議員は、1950年代初め、国務省と軍は共産主義者によって蝕まれていると主張した。最終的には、彼は信用されなくなったが、その間に、中傷された人々のキャリアが潰され、国民は、政治的な反対意見に対する寛容性という枢要な美徳をもう少しで見失いそうになった。
1945年から70年までの間、アメリカは、短期間の軽い景気後退はいくつかあったものの、総じて長期にわたる経済成長を享受した。歴史上初めて、国民の過半数が快適な生活水準を謳歌した。1960年には、洗濯機の所有率が全世帯の55%、自動車が77%、テレビが90%、そして冷蔵庫はほぼ100%となっていた。これと同時に、アメリカはゆっくりと人種間の公平に向けて動いていた。
1960年、ジョン・F・ケネディが大統領に選出された。第2次世界大戦の老将軍ドワイト・D・アイゼンハワー大統領による8年間の任期の後、この若く、エネルギッシュでハンサムな大統領は、「アメリカの再活性化」を約束した。1962年10月ケネディ大統領は、後になって冷戦の最大の危機であることが判明した状況に直面した。ソ連が、キューバに核ミサイルを配備しようとしたのが発見されたのである。キューバは、ミサイルが数分でアメリカの都市に届く至近距離にある。ケネディは、キューバを海上封鎖した。ソ連のニキータ・フルシチョフ首相は最終的に、アメリカがキューバに侵攻しないとの約束と引き替えにミサイルの撤去に同意した。
1961年4月、ソ連は、初めて有人宇宙船を軌道に載せることに成功し、宇宙開発の分野で一連の勝利を収めた。これに対抗してケネディ大統領は、1960年代が終わるまでに、アメリカ人が月面を歩くようにすると公約した。1969年7月、宇宙飛行士ニール・アームストロングがアポロ11号宇宙船から月面に降り立ちし、ケネディの公約が実現した。
しかし、ケネディは、これを目にすることはできなかった。1963年に暗殺されていたからである。彼は、あまねく人気のある大統領ではなかったが、その死は国民にとって大きな衝撃だった。ケネディの後を継いだリンドン・B・ジョンソン大統領は、いくつかの新しい法律を何とか議会で成立させることに成功し、それによってさまざまな社会政策プログラムを確立した。ジョンソン大統領が推進した「貧困との戦い」の政策には、貧困家庭の子弟に対する就学前教育、中途退学者向け職業教育、スラム街の青少年に対する地域社会サービス等が含まれていた。
ジョンソンの6年間の任期中、ベトナム戦争が彼にとって最大の関心事となった。1968年までには、50万人ものアメリカの兵士が、それまでほとんど知らなかったこの小さな国で戦っていた。政治家たちは、この戦争について、共産主義をあらゆる前線で阻止するという必要な努力の一環と見る傾向があったが、国民の間では、ベトナムで起こることはアメリカの国益にとって重要ではないとの見方が広がっていった。アメリカの介入に対する抗議デモが各地の大学で起こり、学生と警察との間で激しい衝突があった。反戦ムードは、不正と差別に対する広範な抗議行動へと発展していった。
広まる不人気で打撃を受けたジョンソン大統領は、2期目を目指して再出馬をしない決心をした。1968年、リチャード・ニクソンが大統領に就任すると、米軍兵士を徐々にベトナム人に交替させていくというベトナム化政策を推進した。1973年、ニクソン大統領は、北ベトナムと和平条約に署名し、米軍兵士を帰還させた。このほかにもニクソンは、外交上2つの画期的な業績を達成した。それは、中華人民共和国との国交回復と、ソ連と交渉して締結した第1次戦略兵器制限条約(SALT)である。ニクソンは1972年、楽々と再選を果たした。
この大統領選挙戦の最中に、首府ワシントンにあるウォーターゲート・オフィスビル内の民主党本部に侵入した容疑で、5人の男が逮捕された。この事件を取材していた複数のジャーナリストは、侵入者たちがニクソンの再選委員会に雇われた者だったことを突きとめた。加えて、ホワイトハウスが侵入事件との関係を隠蔽しようとしたために事態はさらに悪化し、最終的には大統領自身がとった録音テープによって、大統領が隠蔽工作に関与していたことが判明した。1974年夏には、議会がニクソンを弾劾し有罪にしようとしていることが明らかになり、同年8月9日、リチャード・ニクソンはアメリカ合衆国大統領として初めて辞任した。
政策に対する評価はさておき、国民の大半は、国に対する誇りと将来に対する楽観を国民の間に浸透させるというレーガンの力は認めていた。レーガンの国内政策に中心的なテーマがあったとすれば、それは、連邦政府が肥大化しすぎ、連邦税が余りにも高すぎる、というものだった。
連邦予算の財政赤字が拡大していたにもかかわらず、1983年のアメリカ経済は、第2次大戦後有数の持続的成長の時期に突入した。しかし、1986年の選挙で民主党が上院における支配を回復し、レーガン政権は敗北を喫した。その頃、最も深刻な問題は、レバノンに拘束中のアメリカ人人質の解放と、ニカラグアの反政府勢力への資金援助のために、アメリカが密かにイランに武器を売却していたことが発覚したことである。当時、議会では、この種の援助を禁止していた。しかし、このような事実が明らかになったにもかかわらず、レーガンは2期目を通じて相変わらず人気を誇っていた。
1988年、レーガンの後継者となった共和党のジョージ・ブッシュは、レーガン人気の追い風を受け、その政策の多くを踏襲した。1990年、イラクが石油の豊かなクウェートに侵攻した際、ブッシュ大統領は多国籍軍を編成、1991年初めにはクウェートの解放に成功した。
ところが、1992年になる頃には、アメリカの有権者は再び不安感をもつようになっていた。有権者は民主党のビル・クリントンを大統領に選出した。しかし、この2年後には、再び方向転換し、共和党が40年ぶりに上下両院で過半数の議席を占めることとなる。こうした中、いくつかの永続的な論争が新たに吹き出していた。強い連邦政府の提唱者対地方分権の信奉者、公立学校でのお祈りの唱道者対政教分離の擁護者、犯罪者に対する迅速で確固たる処罰を求める人々対犯罪の根本的な原因に取り組むことを求める人々、といった論争である。また、選挙運動での金の影響力に対する苦情から、選出された公職者の任期を制限しようという運動が生まれた。既存の制度に対するこれらの不満から、テキサス州のビジネスマン、H・ロス・ペローが率いる、過去数世代で最も強力な第3政党が結成された。
1990年代半ばの米国経済は好調だったが、2つの現象が多くのアメリカ人を悩ませていた。企業はますます、いわゆる「ダウンサイジングと」いう手段に訴え、労働者の苦しみも省みず、コスト削減のために労働力を削減していった。また、多くの業界で、経営幹部と一般労働者との年収格差は極めて大きくなっていた。物質的には快適な生活を送っている過半数のアメリカ人でさえ、生活の質、家族の絆、隣人愛、礼儀などが衰微していると感じて、心配している。アメリカ人は今でも、世界で最も楽観的な国民であることには違いはないかもしれない。しかし、今世紀が終わりに近づく中、この楽観主義というアメリカ人の気質に翳りがさしていることを、世論調査の結果は示している。
*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。