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コロンブス・デー 10月第2月曜日

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クリストファー・コロンブス

コロンブス・デーは、クリストファー・コロンブスの最初の航海を記念する、米国連邦政府の法定祝日である。コロンブスは1492年、スペインから西へ航海し、今日のバハマ諸島に到達した。当時この地域には、すでに3万年も前から原住民が探検し住み着いていたが、ヨーロッパの人々にはほとんど知られていなかった。

バハマ諸島に着いたコロンブスは、東方(東方は当時、中国、日本、インド、およびインド諸国を意味した)への新しい航路を発見したと思い込み、これらの島々を「西インド諸島」と名付け、原住民を「インディアン」と呼んだ。

19世紀には、ヨーロッパなどからの大勢の移民が、ニューヨーク、シカゴをはじめとする米国の大都市に住み着いた。その住環境は彼らが夢見ていたほど素晴しいものではなかった。多くの移民は、市内でも最も貧しいゲットー地区の荒れ果てた家に住んでいた。1家族用の家に6家族が暮らしていることも珍しくはなかった。

しかし、この土地に足を踏み入れたヨーロッパ人はコロンブスが初めてではなかった。紀元1000年頃には、スカンジナビアのバイキングやアイルランドの宣教師などがすでに到達していた可能性がある。また、多くの米国の子どもたちが学校で教えられているようにコロンブスが「アメリカを発見」したわけでもなかった。しかし、このコロンブスの最初の航海は、多くの理由で歴史的に重要な意味を持つものである。この航海によって、大西洋の向こうに豊かな土地があることが証明され、それが動機となって南北アメリカ大陸の探検と植民地化が相次いで行われた。そして、その一部が後にアメリカ合衆国となったのである。当時南北アメリカ大陸各地に住んでいたおよそ1000万人のインディアンにとって、コロンブスの到着は別の意味で大きな意味を持っていた。それは彼らの生活の進路を変え、最終的には彼らの部族を絶滅寸前にまで追い込み、その文化を破壊したのである。

15世紀のヨーロッパの商人たちは、香料、宝石、金などの「異国的な」商品の輸入先である東方へ行くための、より短く新しい貿易路を求めていた。主に使われていたのは陸路であったが、それは長く危険の伴う道のりだった。ポルトガルの船乗りたちが、アフリカ大陸の海岸に沿って南下し、アフリカ最南端の喜望峰を回ってインド洋を渡り、アジアへ向かう航路を探検していたが、これも非常に長く危険に満ちた旅であった。

クリストファー・コロンブス(自称クリストバル・コロン)は、ポルトガルに住むイタリア人の船員だった。彼は、日本がヨーロッパから西へわずか3000マイル(約4827km)のところにあり、中国とインドもそこからそう遠くはないと信じていた。当時の教養ある人たちは、コロンブスが大西洋そして世界の広さを過小評価していることを知っていたが、コロンブスは、西へ向かって航海すれば東方へのより短い航路を発見できると主張した。そして主な貿易港を開いて東西の商品を交換することができると考えた。そのためには船舶と資金が必要であり、ポルトガル、英国、そしてフランスの各国の国王に資金援助を願い出たが、いずれも拒否された。コロンブスは優れた船員であり航海士であったが、そのような無謀な冒険に投資をしようとする者はいなかったのである。

しかしコロンブスは、最終的にはスペインのイサベラ女王を説得し、女王とフェルディナンド国王がコロンブスの要請をすべて受け入れることになった。そしてついに1492年8月3日、コロンブスは90人の乗組員と共に、サンタマリア号でスペインを出航した。このほかにもニーニャ号、ピンタ号という2隻の船を伴っていた。西へ向かって航海すること2カ月、船員たちは長い旅に疲れ、病気になる者も出て、スペインに戻ると言い出した。アジアの近くにまで来ていると確信していたコロンブスは、船員たちを励まして前進した。 10月11日、とうとう陸地が視界に現れ、翌朝彼らは植物の生い茂る島に上陸し、コロンブスは使命を達成したと考えた。しかし彼には、その島の実際の位置がわかっていなかった。島に上陸したコロンブスは、先住民のアラワク族に出会い、彼らからその島が「グアナハニ」という名前であることを教えられた。コロンブスはその島に「サンサルバドル」という名前を付け、直ちにスペインの領土であると主張した。数日後、彼は現在のキューバに近い島に上陸し、そこは中国の一部であると考えた。

アラワク族は当初、コロンブスと乗組員たちに親切であったが、コロンブスがアラワク族を何人か捕まえて女王のもとに連れて帰ろうとしたため、友好的だった感情は一変した。

1493年3月15日にスペインに戻ったコロンブスを、イサベラ女王とフェルディナンド国王は、盛大な賞賛と敬意をもって迎えた。コロンブスは、「あらゆる海洋の司令長官」という称号を与えられ、さらに航海を続けるための資金も与えられて、スペインのために新しい地域に植民地を開拓するよう命じられた。彼は南北アメリカ大陸に何度も航海し、スペインの帝国を拡張したが、最後までその地域が本当はどこなのかを知ることはなかった。コロンブスは死の床にあっても、自分はアジアへの航路を発見したと信じていたのである。

祝日の誕生

何百年も後まで、コロンブスの航海を祝う式典が行われることはほとんどなかった。1792年にニューヨークでコロンブスを称える式典が開催され、記念碑の除幕式が行われた。その後間もなく、ワシントン市が正式に「コロンビア特別区」と命名され、米国の首都となった。それからの1世紀の間に、全米各地で彫像、道路、河川、都市などがコロンブスにちなんで名付けられた。1892年にシカゴで行われた「コロンブス世界博覧会」では、コロンブスの3隻の船の複製が展示された。

wwwj-theme-celebrate-columbus2コロンブス・デーが祝日となったのは、ひとつにはニューヨーク市をはじめとする各地のイタリア人の努力によるものである。ニューヨークに住むイタリア人のグループが、「同郷人」に対する誇りから、1866年10月12日、「アメリカ発見」の祝典を初めて開催した。その後、他の都市のイタリア人たちも同様の祝典を開いて、宴会、パレード、ダンスパーティなどを催した。1869年には、サンフランシスコ市のイタリア人が10月12日を祝い、この日を「コロンブス・デー」と呼んだ。1937年には、フランクリン・ルーズベルト大統領が10月12日を正式にコロンブス・デーと公告した。現在では、10月の第2月曜日がコロンブス・デーとされ、週末の3連休となっている。

ここ数十年間、コロンブス・デーをめぐって大きな議論が起きている。アメリカ先住民をはじめとする各団体が、コロンブスがアメリカ大陸を発見したという主張に異議を唱え始めたのである。彼らは、アメリカに最初に来た真の発見者はコロンブスではなくアメリカ先住民であるということを認めるべきだと提案した。彼らは、その日は和解の精神の下にアメリカ先住民を祝福すべき日だと考え、州政府や地方自治体に正式な「アメリカ先住民の日」を設けること、またはコロンブス・デーをアメリカ先住民の日とすることを求める嘆願書を提出した。その結果、全米各地の学校では、コロンブス・デーのカリキュラムにアメリカ先住民に関する知識と、ヨーロッパ人との接触がアメリカ先住民に及ぼした影響についての知識が加えられるようになった。州によっては、この祝日に両方の名前を付けて、「コロンブス・デー/アメリカ先住民の日」と呼んでいるところもある。また、アメリカ先住民の日を別に設けている州もある。サウスダコタ州では、先住民を称えて、正式にコロンブス・デーの代わりにアメリカ先住民の日を祝うようになっている。


出典:Columbus Day: Second Monday in October – Celebrate! Holidays in the U.S.A.
*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

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