今月の話題
CELEBRATE! 米国の祝日
独立記念日 7月4日
1700年代半ばまでには、大英帝国の「新世界」の一部であった13の植民地は、3000マイルも離れた英国の国王が定めた法律や制約に縛られることに焦燥を感じていた。彼らは、英国の税金を課されることに不満を抱いていた。英国議会に代表を送ることができない植民地が、英国の税金を納める必要はない、と考えたのである。彼らの心情は、「代表なしの課税は暴政である」というスローガンに表された。多くの入植者は自治を望み、英国による統治から解放されたいと思っていた。しかし、彼らが独立を手にするまでには、長く苦しいプロセスが必要だった。入植者の中には、英国市民であるという自覚を捨てられず、国王ジョージ3世に忠誠を誓う人々もいた。また「母国」の保護を求める人たちもいた。しかし、入植者たちはほぼ例外なく、英国による統治の実態に不満を感じていた。
その後も混乱と緊張が増し、1765年までには大勢の入植者が「自由の息子たち」という秘密組織に加わり、英国政府に対抗する行動を計画し、中には暴力をも辞さないという人々もいた。こうした動きに怒った英国王は、英国の法律を執行するためにさらに多くの軍隊を植民地に送り込んだ。入植者たちは、英軍の兵士たちをあざけり、石を投げつけたりすることもあった。
最終的には、2つの大きな出来事が、英国に反抗する入植者たちを統一させ、定められた宿命への道を急がせた。1770年3月5日、英国軍が、抗議をするボストン市民の集団に向けて発砲して5人を殺害し、その他にも負傷者を出した。この「ボストン虐殺事件」に、入植者たちは衝撃を受け、激怒した。その後も混乱と緊張が増し、1765年までには大勢の入植者が「自由の息子たち」という秘密組織に加わり、英国政府に対抗する行動を計画し、中には暴力をも辞さないという人々もいた。こうした動きに怒った英国王は、英国の法律を執行するためにさらに多くの軍隊を植民地に送り込んだ。入植者たちは、英軍の兵士たちをあざけり、石を投げつけたりすることもあった。
もうひとつの大きな出来事は、紅茶に対する課税に関するものだった。紅茶は植民地で人気のある商品だったが、英国の税法は、英国の紅茶販売会社である東インド会社に有利なものとなっていた。入植者たちはこれに憤慨し、東インド会社が販売する紅茶の購入や消費をボイコットする運動を始めた。この抗議活動をドラマチックにするために、サミュエル・アダムズをはじめとするボストン市民が、「ボストン茶会」を計画した。1773年12月16日、彼らはアメリカ先住民に扮装し、東インド会社の船に乗り込んで、積み荷の紅茶をボストン港に投げ込んだ。これに対してジョージ国王は、ボストン港を閉鎖し、さらに厳しい制限と懲罰を科した。また国王は、ボストン市民が英国軍の兵士に宿と食事を提供することを義務付けた。
バージニア州の代議員たちは、各植民地を代表する大陸会議という委員会を設立することを票決して、独立への最初の1歩を踏み出した。第1回大陸会議は1774年9月に開催され、12の植民地から代表者が出席した。彼らは、王権に対する苦情の一覧を作成し、これが独立宣言の原案となった。その間にも入植者たちは、引き続き英国に対する抗議活動を組織し、独自の民兵軍の訓練を続けていた。
1775年4月19日、英国軍がマサチューセッツ州の民兵軍を襲撃しようとしたことから、独立戦争が始まった。入植者たちは直ちに戦闘部隊を組織し、英国軍に対抗した。1775年5月には第2回大陸会議が開かれ、バージニア州の代議員ジョージ・ワシントンが大陸軍の総司令官に選出された。ワシントンは、独立戦争中を通じてアメリカ軍を率い、英軍に対抗した。入植者たちはそれから8年間にわたり、独立を求めて必死に戦った。彼らは英軍に比べて訓練や装備の面では劣っていたが、有利な面もあった。それは、強烈な目的意識の下に統一されていたこと、慣れた土地で戦っていたこと、そして先住民から学んだ新しい戦術を使ったことである。彼らは軍服もないことが多かったが、それが森の中でのカムフラージュに役立った。これに対して英軍兵士は、「レッドコート」と呼ばれたことからもわかるように、派手な赤の軍服がすぐ目についた。
自由のための戦闘が続く一方で、ペンシルベニア州フィラデルフィア市では、もうひとつの戦い、すなわち言葉の戦いが行われていた。1776年7月2日、大陸会議は苦情の一覧の第2稿を作成し、大陸会議の議長ジョン・ハンコックがこれに真っ先に署名をした。王権はこの文書、すなわち独立宣言を反逆とみなし、これに署名した56人は処刑される恐れがあった。それでも大陸会議は、1776年7月4日に独立宣言を承認し、英国とのつながりを正式に断ち切って、新たな独立国家、アメリカ合衆国を形成した。
独立記念日を7月4日に祝うのは、その日に英国からの独立が正式に宣言されたからである。1776年7月8日には、独立宣言が初めて公に読み上げられ、市民はこれを祝った。鐘が鳴り、楽団が音楽を奏で、船は祝砲を撃ち、人々はろうそくをともし、花火を上げた。しかし、独立戦争はその間も続き、最終的に独立が勝ち取られたのは1783年のことだった。その年、13の新しい州で独立記念日が祝日に指定された。しかし、独立記念日が正式に連邦政府の法定休日とされたのは1941年のことである。
独立宣言の署名者の一人で、米国の第2代大統領となったジョン・アダムズは、妻への手紙に次のように書いている。「私は(中略)この日が今後何世代にもわたって、偉大な記念の祭典として祝福されると信じている(後略)。華やかな儀式とパレード、ショー、ゲーム、スポーツ、祝砲、鐘、かがり火、そしてイルミネーションで、この大陸の端から端まで各地で祝福されるべきだ(後略)。」
ジョン・アダムズの言葉は、その後の独立記念日の祝典を予言したもの、あるいは実現させたものかもしれない。初期の独立記念日(「7月4日」)には、実際にゲームやスポーツ、ショー、軍隊のパレード、花火などのイベントがあり、銃や大砲の祝砲が絶えなかった。しかし、銃砲や花火によるけが人が多く、死者まで出たため、1900年代初めには、市民の要望で当局が独立記念日には銃の使用を禁止し、花火も規制した。「安全で健全な7月4日を」というスローガンが広まり、これは今日でも7月4日に安全と常識を奨励するスローガンとして使われている。現在は多くの都市が花火を禁止するか、またはかんしゃく玉や線香花火のような小さな花火だけを許可している。専門の花火師による花火大会を実施する都市もある。
毎年7月4日は米国民の休日である。彼らは、仕事や学校を休んで、地域の人たちや家族と共に1日中ピクニックを楽しみ、ホットドッグ、ハンバーガー、ポテトサラダ、ベークドビーンズ、パイ、スイカなどを食べる。そして午後には、陽気な音楽、野球の親善試合、フリスビー、そして二人三脚、パイやスイカの早食い競争などのイベントが欠かせない。「建国の父」や初期の入植者に扮した人たちが、高校の楽団の演奏でパレードをする町もある。夕暮れには、市が主催する花火大会に人々が集まる。独立記念日の特別なイベントを開催する地域も多い。ジョン・アダムズの言葉は、その後の独立記念日の祝典を予言したもの、あるいは実現させたものかもしれない。初期の独立記念日(「7月4日」)には、実際にゲームやスポーツ、ショー、軍隊のパレード、花火などのイベントがあり、銃や大砲の祝砲が絶えなかった。しかし、銃砲や花火によるけが人が多く、死者まで出たため、1900年代初めには、市民の要望で当局が独立記念日には銃の使用を禁止し、花火も規制した。「安全で健全な7月4日を」というスローガンが広まり、これは今日でも7月4日に安全と常識を奨励するスローガンとして使われている。現在は多くの都市が花火を禁止するか、またはかんしゃく玉や線香花火のような小さな花火だけを許可している。専門の花火師による花火大会を実施する都市もある。
例えば、ペンシルベニア州フィラデルフィア市では、独立宣言の署名が行われた独立記念館でフリーダム・フェスティバルが開かれ、当時の衣装を着た市民たちが歴史的な場面を再現し、観客の前で独立宣言を読み上げる。マサチューセッツ州では、7月4日に米艦船ジョン・F・ケネディが総帆を揚げてボストン港に入り、ボストン・ポップス・オーケストラが愛国的な音楽を奏で、大勢の人たちが水上にさく裂する花火を眺める。
自由の鐘
7月4日に鳴る鐘の音とその姿は、ほとんどの米国民にとって自由を象徴するものであり、この新しい国家の誕生の時にフィラデルフィアで鳴らされた自由の鐘を思い出させるものである。「全土と住む者すべてに自由を宣言せよ」[訳注: 鐘に刻まれた文句。旧約聖書レビ記より]
自由の鐘は、フィラデルフィアの植民地議会議事堂(後の独立記念館)にあったものである。この鐘は、大統領選挙、政治家の葬儀、そして独立記念日など重要な国家的イベントの際に鳴らされた。自由の鐘は、1752年に英国の鋳造所からフィラデルフィアに運ばれたが、初めて鳴らされた時にひびが入ってしまった。鐘は修理され、その後も83年間にわたって特別なイベントのたびに鳴らされた。その中でも特筆されるのが、1776年7月8日の独立宣言署名の発表である。
1846年以降に、自由の鐘は再びひびが入り、さらなる破損を防ぐために鐘楼からはずされ、独立記念館に展示された。今日、自由の鐘は、リバティ・ベル・センターに収められ、インディペンデンス国立歴史公園の一部として年間を通じて公開されている。
鐘を製造した英国の鋳造所が、無料で割れた鐘を引き取り、溶解して新たに鐘を鋳造することを申し出たが、米国政府関係者は、古い自由の鐘をそのまま保存することを選んだ。彼らは、この鐘は米国民に愛されており、鐘の亀裂もその個性と伝統の一部だと考えたからである。
アメリカ・ザ・ビューティフル
現在の米国国歌「星条旗」に代えて「アメリカ・ザ・ビューティフル」を国歌にすべきだという提案が時々出される。この提案の支持者たちによると、「アメリカ・ザ・ビューティフル」は、国旗だけでなく国家全体を称えるものであり、また戦争に伴って作られた歌ではないという点で、より国歌にふさわしい。また、この歌は「星条旗」に比べて、はるかに歌いやすい。「アメリカ・ザ・ビューティフル」は、1893年にウェルズリー・カレッジ教授で文筆家のキャサリン・リー・ベイツが作詞したものである。彼女はコロラド州のパイクス・ピークの山頂へドライブをした折に、当時の人たちがめったに見ることのできなかった素晴らしい風景を目にした。彼女がその「広大な空」と「紫色の山々」に感動して書いた詩は後に出版され、国民に愛され、さまざまな曲を付けて歌われるようになった。最終的に、サミュエル・ワード作曲の賛美歌「マテルナ」の曲が定着し、今日では米国民にとって母国を称える最も美しい歌として愛されている。
- 「アメリカ・ザ・ビューティフル」の歌詞と楽譜 (PDF 1.46 MB)
- 音楽ファイルと歌詞
出典:Independence Day: July 4 – Celebrate! Holidays in the U.S.A.
*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。