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CELEBRATE! 米国の祝日
マーティン・ルーサー・キング牧師の日 1月第3月曜日
マーティン・ルーサー・キング牧師の日は、公民権運動の先駆的なリーダーの一人で、1964年にノーベル平和賞を受賞したマーティン・ルーサー・キングの一生と彼の残した業績を称える祝日である。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、少年のころから大きな将来性を現し、9年生と12年生を飛び級して、15歳でモアハウス・カレッジに入学した。父、祖父共に牧師だった彼は、教会で2人の説教を聞いて育ち、早くから平等と同胞愛を信条とするようになった。
1955年後半、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは神学博士号を取得し、妻コレッタ・スコット・キングと共にアラバマ州モンゴメリー市に移り、バプテスト教会の牧師となった。
そこで彼は、多くの南部の州と同様に、アフリカ系米国人が人種主義や人種差別、不公正な法律によって屈辱を受けている現状を見た。その一例として、黒人は公共のバスの後部座席に座り、前部座席が満席になった場合は、白人に後部座席を譲らなければならないという法律があった。キング博士には、この法律がすべてのアフリカ系米国人の権利を侵害していることが明らかだった。
1955年12月1日、ローザ・パークスという勇気ある黒人女性が、バスで白人男性に席を譲ることを拒否したために逮捕され拘留された。これに抗議して黒人の指導者たちがモンゴメリー市バスのボイコット運動を組織し、キング博士がこの抗議運動の指導者となることを要請された。黒人も白人も含め何千もの人々がバスの乗車拒否をし、代わりに車の相乗りをしたり歩いたりした。こうした人々に対してキング博士は、デモ活動を平和に行い、暴力に訴えないよう熱心に説いた。それにもかかわらず、デモ参加者や支持者たちは、不平等な制度を変えることを望まない人々によって、絶え間なく脅迫され攻撃を受けた。デモ参加者の多くは逮捕され拘留され、キング博士の自宅には爆弾が投げ込まれたが、幸いにして夫人と子どもたちにけがはなかった。
こうした暴力行為にもかかわらずボイコット運動は続き、バス会社は多大な経済的損失を被った。そして、モンゴメリー市バスのボイコット運動が381日間続いた後、成果を上げた。連邦最高裁判所が、アラバマ州の人種分離法は違憲であるとの判決を下したのである。バスのボイコット運動のきっかけとなった小さな抗議の行為の主ローザ・パークスは、後に「公民権運動の母」と呼ばれるようになった。
バスの人種分離は、アフリカ系米国人に対する多くの不公平のひとつにすぎなかった。南部各地では学校も人種によって分離され、黒人は住宅、賃金、雇用機会、そして投票権においても平等には扱われていなかった。多くのホテルやレストランも黒人の客を受け入れることを拒んだ。
バスのボイコット運動によって、こうした不平等とキング博士の指導力に世界が注目した。公正を求める闘争はその後も続き、最終的に公民権運動となった。キング博士はこの運動の最前線に立って、アフリカ系米国人を象徴し、その意見を代表する存在として国際的に知られるようになった。
1957年に、キング博士をはじめとする牧師のグループが、人種差別に対する非暴力闘争を推進するために南部キリスト教指導者会議を設立した。その後何年にもわたり、キング博士は数多くの非暴力抗議活動を主導した。彼はマハトマ・ガンジーの教えを学び、非暴力的な抗議の持つ力を強く信じていた。黒人の指導者やその他の市民の中には、こうしたキング博士の哲学に強く反対する人々もいた。しかしキング博士は、彼を信奉する人たちに、流血に頼らない闘争が勝利につながることを説き続けた。公民権運動の動乱の年月の間に、キング博士は何度も拘留された。彼がアラバマ州バーミンガム市の留置場で書いた手紙には、「いかなる場所の不正も、あらゆる場所の公正への脅威となる」という有名な言葉がある。
公民権運動の最も重要なイベントのひとつに、1963年8月28日のワシントン大行進がある。その日、25万人以上がワシントンDCに集まり、キング博士の指揮の下、すべての米国民に平等な公民権を保証する法律の可決を求めて、連邦議会議事堂へ行進した。キング博士がリンカーン記念堂の階段で行った「私には夢がある」という演説は、彼の数ある演説の中でも最も力強く雄弁なものである。ワシントン大行進は、米国の首都で行われた最大の集会のひとつであったが、暴力的な行為は全く見られなかった。翌1964年にキング博士は、非暴力の抗議活動を主導した功績でノーベル平和賞を受賞した。
同年、雇用と教育の機会均等を求める1964年公民権法が可決された。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアをはじめ何千人もの人々の闘争は無駄ではなかったのである。しかし、その新法が確実に執行されるようにすること、またその他の不平等を廃止することなど、まだ成すべきことは多かった。
その後もキング博士は、黒人が安全に選挙登録し投票する権利を保証する1965年投票権法など多くの法改革を推進した。その年は、記録的な人数の黒人投票者が投票所へ向かった。
1968年4月4日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、テネシー州メンフィス市で労働者のストライキを支援中に暗殺された。わずか39歳だった。平和と公民権のために苦労を重ねてきた人々は皆、衝撃と怒りに襲われた。世界中が、この平和的で偉大な人が失われたことを悲しんだ。しかし、マーティン・ルーサー・キングの死が公民権運動を減速させることはなかった。1969年、コレッタ・スコット・キング夫人がマーティン・ルーサー・キング・ジュニア非暴力社会変革センターを設立した。キング夫人は、2006年1月に死去するまで、亡夫の夢を現実にするための活動を続けた。社会的公正を求める運動は今日も続いている。
祝日の制定
1980年代を通じて、マーティン・ルーサー・キング牧師の日をめぐって論議が続いた。キング博士の未亡人コレッタ・スコット・キングと連邦議会の指導者や市民らが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの誕生日である1月15日を法定休日とすることを大統領に嘆願した。多くの州では、すでにその日が休日となっていたが、キング博士を称える休日を認めたくない人々もいた。また、キング博士が暗殺された日を休日にすることを求める人々もいた。最終的には、ロナルド・レーガン大統領が、1月の第3月曜日をマーティン・ルーサー・キング・ジュニアを称える連邦法定休日とすることを宣言し、1986年1月20日の月曜日に、全米の人々が第1回の正式なマーティン・ルーサー・キング牧師の日を祝った。これは、アフリカ系米国人を記念する唯一の連邦法定休日である。
現在、毎年この日には各地で、キング博士と彼の夢を称え、静かな追悼式が開かれたり、大がかりな式典や、公開討論会で社会的公正について話し合うイベントが催されたりする。学校では、どの学年でも、人種差別、平等、平和について教えるための授業やカリキュラム、イベントが行われる。宗教界の指導者たちは、生涯を平和に捧げたキング博士の活動を称える説教をする。ラジオやテレビは、この日にちなんだ歌や演説を放送し、公民権運動の歴史やキング博士の一生とその時代のハイライトを紹介する特別番組を組む。
※マーティン・ルーサー・キング牧師が1963年8月28日にリンカーン記念堂の階段で行ったスピーチ「私には夢がある」
出典:Martin Luther King Day : Third Monday in January Celebrate! Holidays in the U.S.A.