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日米関係

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米国大使館の歴史

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日本における米国大使館の歴史は、1853年のペリー来航に始まります。翌1854 年に日米和親条約が結ばれ、1856年に初代米国総領事ハリスが下田の玉泉寺に臨時の領事館を開いて以来、米国公館(公使館のちに大使館)の場所は、東京麻布の善福寺、横浜関内の外国人居留地、東京築地の外国人居留地を経て、1890年東京赤坂へと移ってきました。その後1923年に関東大震災の被害に遭い、旧帝国ホテルで業務を行っていた時期もあります。1931年に再建された白亜の大使館は40年以上使われましたが、時代の移り変わりとともに手狭になったため、1976年シーザー・ペリとノーマ・メリック・スクラレックの設計により、近代的な建物に建て替えられ、現在に至っています。

以下の年表は、公使館、大使館の置かれた場所や、建物の移り変わりをまとめたものです。

年表

1853年7月
(嘉永6年6月)
米国のフィルモア大統領より日本の皇帝に宛てた親書を携えたマシュー・カルブレイス・ペリー (Matthew Calbraith Perry)提督が、「黒船」で浦賀沖(江戸湾)に来航。
1854年3月31日
(嘉永7年3月3日)
幕府とペリーは日米和親条約(神奈川条約)に調印。日本は鎖国を解き、下田と箱館(現在の函館)の2港を開港し、領事の下田駐在を承認する。
1856年8月21日
(安政3年8月5日)

初代米国総領事としてタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)が着任。下田柿崎の玉泉寺に臨時の領事館を開く。(現 静岡県下田市柿崎31-6)1

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(下田の玉泉寺)

1858年7月29日
(安政5年6月19日)
幕府とハリスは日米修好通商条約に調印。この条約により米国外交使節の江戸駐在や、函館のほか、神奈川、新潟、兵庫、長崎の4港の開港が定められる。(下田は閉港)
1859年
(安政6年)
1月19日、ハリスは弁理公使に任命される。7月、ハリスは下田より江戸に入り、幕府より貸与された麻布の善福寺に公使館と住居を移す。写真は麻布善福寺。(現 東京都港区元麻布1-6-21)7月1日、横浜開港。7月4日、横浜の本覺寺に領事館が開かれる。(現 神奈川県横浜市神奈川区高島台1-2)

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(麻布の善福寺)

1863年5月
(文久3年4月)
公使館が置かれていた麻布善福寺の庫裏より出火し、建物は消失。これにより公使館は、横浜関内の外国人居留地に移転。横浜本覺寺にあった領事館も、同年横浜居留地に移る。
1868年
(明治元年)
明治維新により江戸は東京となる。
1869年
(明治2年)
東京築地に外国人居留地が開かれる。
1874年

(明治7年)

ジョン・ビンガム(John A. Bingham)公使は、横浜の居留地より、築地の外国人居留地に公使館と住居を移す(現 中央区明石町)。

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(築地居留地の地図)

当時の築地居留地の跡地に建てられた聖路加国際病院には、この地に米国公使館があったことを示す3セットの記念石があったが、そのうちの1セットが、1984年、マンスフィールド(Michael J. Mansfield)大使の時代に米国大使館に寄贈され、式典が行われた。

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(寄贈された記念石)

1889年
(明治22年)
市制施行により、東京は東京市となる。
1890年
(明治23年)
日本政府とスウィフト(John F. Swift)公使は、東京市赤坂区溜池榎坂町1番地の地所並びに建物を米国公使館用として貸渡する契約を交わし、公使館は築地から現在の場所、赤坂に移転。

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(赤坂にあった旧米国公使館)

1906年
(明治39年)
米国公使館はライト(Luke E. Wright)大使以降、大使館に昇格。
1923年
(大正12年)
1890年から米国公使館/大使館として使われていた古い木造建築物は、1923年9月1日の関東大震災とその後の火災で倒壊したため、仮事務所を旧帝国ホテルに開設した。

旧帝国ホテルは、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)氏によって設計されたもので、場所は東京市麹町区内幸町(現 東京都千代田区)にあった。

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(米国大使館の仮事務所があった旧帝国ホテル)

1931年
(昭和6年)
フォーブス(W. Cameron Forbes)大使の時代、3階建ての白亜の大使館、大使公邸、職員宿舎2棟が、現在の場所(現 東京都港区赤坂1丁目)に完成。

 

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(1931年当時の旧米国大使館)

東京のアントニン・レーモンド(Antonin Raymond)氏の協力を得て、ニューヨークのH・ヴァン・ビューレン・マゴニグル(Harold Van Buren Magonigle)氏が設計。請負先は、ニューヨークのワルトン・グリーン社(Wharton Green)、施工は大林組、建築の監督は米陸軍工兵隊(Engineer Corps of the U.S. Army) のT.D. スタンプ大尉が担当した。 1929年11月から建設が始まり、1930年5月26日に定礎式が行われた。礎石は元駐日米国大使(1929-1930)のウィリアム・R・キャッスルJr.(William R. Castle, Jr.)によって置かれた。 白亜の壁に囲まれたたたずまいから、「(赤坂の)ホワイトハウス」などと呼ばれた。

1939年
(昭和14年)
第2次世界大戦勃発。
1941年
(昭和16年)
12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入。この日以降1952年まで米国大使館は閉鎖される。
1945年
(昭和20年)
8月15日、日本降伏。戦後直ちにアメリカ、イギリス、フランス、ソ連などを中心とした連合国軍による日本占領が始まり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京の旧第一生命ビル(写真)に置かれた。GHQのダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥は、大使公邸を住まいとした。

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(GHQがあった旧第一生命ビル)

1951年9月8日
(昭和26年)
サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)により戦争状態は終結し、日本の主権が回復。
1952年
(昭和27年)
大使館再開。それまでの大使館本館(現在の場所)に加え、すぐ近くの南満州鉄道株式会社の建物(港区赤坂葵町2番地)を購入し、大使館別館として使用。 本館には大使の執務室、政治部、軍事関係の部署、別館には領事部や広報部、調達調整委員会などがあった。別館は1973年に三井不動産に売却され、1977年に引き渡された。

wwwj-usj-embassy10(別館として使われた南満州鉄道ビル)

1973年

(昭和48年)

1932年に建設された横浜の領事館は1973年に東京の米国大使館領事部に併合された。写真は横浜市中区山下町6番地にあった米国領事館の建物の様子。設計はJ.H.モルガン(J.H. Morgan)建築設計事務所、施工は竹中工務店による。

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(旧横浜米国領事館)

1974年

(昭和49年)

大使館が様々なサービスを行う上で不都合が生じ、内部の連絡にも支障が出ていたため、大使館本館と職員宿舎2棟は1974年に解体。新館建設のための地鎮祭が7月30日に行われた。
1976年

(昭和51年)

現在の新大使館ビルが8月に完成し、9月6日に開館。設計は、ロサンゼルスのグルーエン・アソシエーツのシーザー・ペリ(César Pelli)とノーマ・メリック・スクラレック (Norma Merrick Sklarek)、施工は大林組が行った。

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(現在の米国大使館)

建設には400kmの電線と電話線、13kmの壁と間仕切り、40,000 m²のカーペット、20,000トンのコンクリートが使用され、コンクリート以外はすべて米国の資材が利用された。

建物完成後、職員は労働祭の日にこの新館に移った。新築記念のタイムカプセル埋設式は9月22日の夕方に行われた。このカプセルは銅製の箱で、1931年に旧大使館が完成したときに地下に埋められたもので、当時の日本の硬貨や各国外交官名簿、新聞などが保存されていた。これらに加え、新築記念として米国建国200年祭の記念コインや日本の硬貨、その日の新聞などが、新たに加えられて、大使館正面玄関の星条旗のポール下にある礎石の下に埋め込まれた。

1976年9月24日の落成式には、当時の駐日米国大使ジェームズ・D・ホジソン(James D. Hodgson)や、元駐日米国大使(1966-1969)のU・アレクシス・ジョンソン(U. Alexis Johnson)、大使館関係者のほか、日本政府や報道関係者、学界関係者など多くの来賓が出席した。


米国大使館レファレンス資料室作成

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