国務省出版物
アメリカ合衆国のポートレート - 第11章「大衆文化の輸出」
ミッキー・マウス、ベーブ・ルース、スクリューボールコメディ、GIジョー、ブルース、「シンプソンズ」、マイケル・ジャクソン、ダラス・カウボーイズ、「風と共に去りぬ」、ドリームチーム、インディアナ・ジョーンズ、キャッチ22・・・アメリカのスポーツと娯楽の世界が生んだこれらの名称、ジャンル、言葉等は、有形のアメリカ製品とともに世界各地に広がっている。ことの善悪は別として、今日では、自国の文化に加えて、活力に満ち、幅広いアピール性を持つアメリカのスポーツ・映画・テレビ・音楽という、2本立ての文化を持つ国が多い。
この章では、アメリカが世界の娯楽に貢献した分野のうち、野球とバスケットボール、映画、そして3種類の大衆音楽、ジャズ、ロックンロール、カントリーを紹介する。
どんなスポーツよりもアメリカ人の郷愁を呼び起こすのが野球である。子ども時代に野球(またはソフトボール)をしたことのある人が非常に多いため、野球は「国民的娯楽」とされている。野球は、フットボールやバスケットボールと違って、平均的な身長・体重の選手でも活躍できるスポーツでもある。
野球が誕生したのは南北戦争(1861~65年)前で、初めは空き地で行う「ラウンダーズ」という単純な球技だった。初期の名選手たちが、ラウンダーズを改良し、英国のクリケットを有名にした技能と判断力を採り入れた。中でも、得点と記録の存在が野球に重みを与えた。ジョン・ソーンは「野球百科」に、「今日、記録のない野球など考えられない」と書いている。ロジャー・マリスが1961年にホームランを61本打って、ベーブ・ルースの1927年の記録(60本)を破ったことを知っているアメリカ人の方が、1984年のレーガン大統領の選挙人獲得票数525票が1936年のルーズベルト大統領の記録523票を破ったことを知っているアメリカ人より多いことは確実である。
1871年に、初めてプロ野球リーグが結成された。20世紀初めには、アメリカ東部の大都市はほとんどがプロ野球チームを持っていた。全チームをナショナル・リーグとアメリカン・リーグの2リーグに分け、公式シーズン中は同一リーグ内のチーム同士が試合をした。各リーグの優勝チームは「ペナント」を勝ち取ったとされ、公式シーズンの終わりに、ペナントレースに勝ったチーム同士がワールド・シリーズで戦い、7試合中4試合に勝ったチームが、その年のチャンピオンとなった。この方式は今日も続いているが、現在は各リーグがさらに(地域)部門に分かれ、各部門の勝者がプレイオフ・シリーズで戦ってペナントレースの勝者を決める。
野球は1920年代に、ベーブ・ルース(1895~1948年)の登場と共に成熟した。ベーブ・ルースは、ニューヨーク・ヤンキースの数回にわたるワールド・シリーズ優勝の立役者となり、豪快なホームラン打者として国民的英雄になった。野球の歴史において、どのチームからも偉大な選手が出ているが、中でも注目に値するのは、ブルックリン・ドジャースのジャッキー・ロビンソン(1919~72年)で、才能に恵まれ勇敢な選手として、1947年に大リーグ初のアフリカ系アメリカ人選手となった。(それまで、黒人選手は黒人リーグにしか参加できなかった。)
1950年代に入ると、野球は地理的な拡張を始めた。アメリカ西部の都市も、東部のチームを移転させたり、既成チームから獲得した選手による「拡張チーム」を結成したりして、プロ野球チームを持つようになった。1970年代までは、厳しい契約のため、野球チームのオーナーが選手を事実上所有していたが、その後規則が変わり、選手は一定の枠内で自由を与えられ、どのチームにも自分を売り込めるようになった。その結果、選手獲得のための競争が激しくなり、スター選手は莫大な年俸を稼ぐようになった。選手組合とオーナー間の紛争のため、ときには野球の試合が何カ月間も中止される事態も発生した。野球がスポーツであると共にビジネスであるとするなら、20世紀末のファンの多くは、ビジネスとしての側面が優勢となっていることに不満を持っている。
野球は日本でも人気スポーツである。1990年代には、野茂英雄選手が、大リーグ、ロサンゼルス・ドジャースのスター・ピッチャーとなった。野球は、キューバやその他のカリブ海諸国でも広く人気がある。1996年夏季オリンピック大会で、日本とキューバが金メダルを争ったことは、アメリカ以外での野球人気を物語っている。(結果は、キューバが金メダルを獲得した。)
バスケットボールも外国で人気のあるアメリカのスポーツである。公式の試合から、寄せ集めチームの「ピックアップ」ゲームまで、バスケットボール人口は世界中で2億5,000万人を上回る。バスケットボールの起源は、後に長老派の牧師となったジェームズ・ネイスミス(1861~1939年)が、1891年、マサチューセッツ州スプリングフィールドのYMCA訓練学校で体育の指導員となった時に遡る。体育のクラスは、生徒が騒ぐことで知られていたため、ネイスミスは、少年たちをおとなしくさせるために新しいスポーツを考えるよう指示された。冬で寒さが厳しかったため、室内でできるスポーツが望ましかった。
ネイスミスは、少年時代にカナダでやったことのある「ダック・オン・ザ・ロック(石落とし)」のゲームを思い出した。これは、土台石の上に乗せた大きな石に、小さな石をぶつけて落とす遊びである。彼はまた、ラグビーの選手たちが体育館で箱の中にボールを投げ入れていた光景を思い出した。こうして思いついたのが、高い場所に取り付けた箱にボールを投げ入れるゲームであるが、箱が見つからなかったため、桃カゴを利用した。アレグサンダー・ウォルフの著書「バスケットの100年」によると、ネイスミスは「ほぼ1時間」で、この新しい球技のルールを作った。そのほとんどが、今日でもそのまま使われている。
バスケットボールは急速に普及した。その理由は、YMCAの卒業生が各地へ散らばっていったこと、ネイスミスが進んでルールを普及させたこと、そして冬季に室内でできる単純なスポーツの必要性があったことである。ネイスミスはまた、大学バスケットボール界の最初の名コーチ、フォレスト・”フォグ”・アレン(1885~1974年)を育てた。アレンは、カンザス大学の選手としてネイスミスの下でプレーした後、自らも同大学のコーチとなり、771勝を上げた。アレンのスター選手だったウィルト・チェンバレンは、プロ・バスケットボールの初期のスーパースターとなり、1962年には1試合に1人で100得点をいれるという新記録を達成した。
初めてプロ・バスケットボール・リーグが結成されたのは1898年で、選手の報酬は、ホームゲームで2ドル50セント、遠征試合で1ドル25セントだった。それから100年足らず後、ワシントン・ブレッツ(現在の名称はワシントン・ウィザーズ)のスター選手ジュワン・ハワードは、ブレッツとマイアミ・ヒートの両チームから、7シーズンで1億ドルを超える報酬を提示された。
現在、全米バスケットボール協会(NBA)には、外国人選手を雇うチームも多く、彼らはオリンピックには母国の代表として出場する。最近のオリンピックでは、アメリカからは「ドリーム・チーム」と呼ばれるプロ・バスケットボールの選抜チームが出場している。1996年のオリンピックでは、ドリーム・チームが試合の終盤まで相手チームにリードを許す場面も見られ、バスケットボールが世界的に盛んになっていることが証明された。
アメリカの映画評論家ポーリーン・ケイルは、1968年に出した映画評論集に「キス・キス・バン・バン」という題名を付けた。本人の解説によると、これはイタリアの映画ポスターからとった言葉であるが、「映画の基本的な魅力を考えられる限り短く表した言葉だと思われる。」確かに、これは、多くのアメリカ映画の生々しいエネルギーを要約した言葉だといえる。
映画はアメリカで発明されたものではないが、アメリカはこの分野で世界の娯楽にきわめて大きく貢献している。1900年代初めの映画の創生期には、ユダヤ人をはじめとする大勢の移民が、アメリカの映画産業に職を見つけた。彼らは、人種偏見のため他の職業から閉め出されていたので、全く新しい産業に活路を見出したのである。「ニッケルオデオン」と呼ばれる入場料5セント(ニッケル)の店頭劇場で短編の映画を上映した。数年後には、サミュエル・ゴールドウィン、カール・ラムリ、アドルフ・ズコア、ルイス・B・マイヤー、そしてワーナー兄弟(ハリー、アルバート、サミュエル、ジャック)といった野心家たちは、映画製作の分野にくら替えし、まもなく彼らは映画撮影所(映画スタジオ)という新種の事業のトップとなった。
主な撮影所は、カリフォルニア州ロサンゼルスのハリウッド地区に集まっていた。第1次世界大戦前には、アメリカ国内の他都市でも映画製作が行われていたが、映画産業の発展と共に、製作者はカリフォルニア州南部に集まるようになった。この地域の気候が温暖で年間を通じて野外ロケができ、また風景が多様で撮影に向いているためだった。
第1次世界大戦後、ヨーロッパからも映画関係者がアメリカにやってきた。監督ではエルンスト・ルビッチ、アルフレッド・ヒッチコック、フリッツ・ラング、ジャン・ルノアール、俳優では、ルドルフ・バレンチノ、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、ロナルド・コールマン、シャルル・ボワイエらがいる。トーキー時代の到来とともに、ニューヨークの舞台俳優も西部に移って映画に出演するようになり、これに上記のヨーロッパの俳優が加わって、映画産業は20世紀有数の成長産業となった。映画の最盛期だった1940年代半ばには、映画撮影所は年間約400作を超える映画を製作し、観客動員は毎週9,000万人に達した。
ハリウッドの黄金時代といわれた1930年代・40年代のハリウッド映画の製作過程は、フォード自動車工場の組立ラインに似ていた。どの映画も全く同じではないものの、西部劇、ドタバタ喜劇、フィルムノワール、ミュージカル、アニメーション、伝記物といった定型に沿ったものが多かった。しかし、それぞれに少しずつ違いがあり、また自動車を作るのは職人だったが、映画を作る人たちは芸術家だった。「脱出」(1944年)は、ハンフリー・ボガート(1899~1957年)とローレン・バコール(1924年~)が初共演した映画として知られているだけでなく、後にノーベル文学賞を受賞する2人の作家が書いた作品としても有名である。この映画の脚本はアーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961年)の小説をもとにしており、映画脚本はウィリアム・フォークナー(1897~1962年)が書いた。
しかし、映画製作がビジネスであることも事実であり、撮影所は、いわゆるスタジオ制度を採用して利益を上げた。主な映画撮影所は、俳優、演出家、監督、作家、スタントマン、職人、技術者等、何千人もの人たちを、給料を支払って雇用した。また、全米各地の町で何百軒もの映画館を経営し、そこで自社の映画を上映した。そうした映画館では、常に新しい作品を必要としていた。
このように規格化された制度から、質の高い娯楽作品が数多く生まれたことは、驚嘆に値する。その要因の1つは、映画が大量に製作されていたため、すべての作品が大ヒットする必要がなかったことである。撮影所は、ほどほどの予算で、すぐれた脚本と比較的無名の俳優を使った作品に賭けることが出来た。その好例が、オーソン・ウェルズ(1915~85年)監督の「市民ケーン」(1941年)で、この作品は広くアメリカ映画の最高傑作と見なされている。ハワード・ホークス(1896~1977年)、フランク・キャプラ(1897~1991年)といった監督も、撮影所と対立しながらも頑固に自らの芸術性を押し通した。1939年にはスタジオ制度が最高潮に達し、この年だけで、「オズの魔法使い」、「風と共に去りぬ」、「駅馬車」、「スミス都へ行く」(キャプラ)、「コンドル」(ホークス)、「ニノチカ」(ルビッチ)、「小夜」といった名作が公開された。
1940年代後半、スタジオ制度は2つの力に屈した。1つは、連邦政府の反トラスト措置により、映画の製作と上映が分離されたこと、もう1つは、テレビの登場である。映画の製作件数が激減したにもかかわらず、映画の平均製作費は大きく上昇した。これは、ハリウッドが、テレビでは見られないような壮観な映像を観客に見せようとしたためである。
こうした映画のブロックバスター現象は、現在に至るまでハリウッドに影響を与え続けている。俳優、撮影所のトップ、そしてエージェントへの報酬が急増しているのに加え、最近の映画作品は、その膨大なコストと大衆の好みとのバランスによって、大成功か大失敗かに分かれる傾向がある。
映画撮影所は現在も存在し、他のメディア企業と提携している撮影所も多いが、今日最も注目されるアメリカ映画には、独立系製作会社によるものも多い。ウッディ・アレン(1935年~)の映画などはこの範疇に入る。アレンの映画は評論家に高く評価され、興行的にも利益を上げているものが多いが、優秀な俳優がアレンのために比較的安い出演料で出ているため、製作費があまりかかっていない。したがって、興行成績の悪い作品があったとしても、破滅的な損害は出ない。これに対して、トム・クルーズやアーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画は、通常、スターの出演料だけで1,000万ドルを超える。こうした額の何倍ものお金の行方がかかっているため、ハリウッドの撮影所幹部は、冒険を避けようとしがちである。
アメリカ独自のスタイルを持ったポピュラー音楽作曲家の草分けは、スティーブン・フォスター(1826~64年)である。彼は、ヨーロッパ音楽の伝統と、アフリカ系アメリカ人のリズムとテーマを融合するというパターンを打ち立てた。以来、このパターンはアメリカの音楽の基盤となっている。アイルランド人を先祖に持つフォスターは、南部で成長したため、奴隷の音楽やミンストレル・ショーに触れる機会が多かった。ミンストレル・ショーとは、白人の芸人が顔を黒く塗り、アフリカ系アメリカ人の歌や踊りを演ずるものである。こうした音楽の影響を受けて作った歌曲に、「おおスザンナ」、「草競馬」、「バンジョーをかき鳴らせ」、「故郷の人々」(「遥かなるスワニー・リバー」の歌いだしでより知られている)など、フォスターの名曲とされるものが多い。今でも多くのアメリカ人は、これらの歌をそらで歌うことができる。
映画やラジオが普及するまで、アメリカ人は自分で娯楽を見つけるか、講演、サーカス、ボードビル(旅役者のレビュー)などが町にやってくるのを待たなければならなかった。アメリカの有名なエンターテイナーには、ボードビルの役者としてデビューした人たちが多く、たとえば、W・C・フィールズ、ジャック・ベニー、ジョージ・バーンズとグレーシー・アレン、バスター・キートン、ソフィー・タッカー、ファニー・ブライス、アル・ジョルソン、そして「三ばか大将」の3人組などが挙げられる。ボードビルは常に新しい歌を必要としており、アメリカでは19世紀末に音楽出版が大きな産業となった。音楽出版社の多くはニューヨークの一画に集中しており、その通りは「ティンパン・アリー」と呼ばれるようになった。
ボードビルと、ヨーロッパのオペレッタから、ブロードウェー・ミュージカルが生まれた。ミュージカルは、せりふのある物語劇に歌と踊りを取り入れたものである。この新しいジャンルの最初の成功例は、1927年に上演されたジェローム・カーンの「ショーボート」で、この作品は今日でもミュージカルの傑作の1つとされている。「ショーボート」は、異人種間の結婚をテーマにしており、劇中で最も悲痛な歌「オールマン・リバー」で奴隷の悲嘆を表現するなど、アメリカの音楽の黒人の影響を賛美している。
アービング・バーリン(1888~1989年)は、ティンパン・アリーからブロードウェーへスムーズに移行した作曲家である。ロシア系ユダヤ人移民だったバーリンは、「ゴッド・ブレス・アメリカ」、「イースター・パレード」、「ホワイト・クリスマス」、「ショービジネスほど楽しいものはない」、「チーク・ツー・チーク」など、ヒット曲を多数書いた。コール・ポーター(1891~1964年)は、ウィットに富んだ歌詞と感動的なメロディで、ブロードウェー・ショーの歌を新たな洗練のレベルに引き上げた。そうした作品には、「エニシング・ゴーズ」、「マイハート・ビロングス・トゥ・ダディ」、 「ユーア・ザ・トップ」、 「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー」、「イッツ・デ・ラブリー」などがある。
スコット・ジョプリン(1868~1917年)、ユービー・ブレーク(1883~1983年)ら、黒人の作曲家は、黒人音楽の伝統をもとに、歌曲、ラグタイムのピアノ曲、そしてジョプリンの場合はオペラも作曲した。ジョプリンは死後、ほとんど忘れられていたが、1970年以降、彼の作品が再評価されるようになった。ブレークは、ブロードウェー初の、黒人による黒人をテーマにしたミュージカル「シャッフル・アロング」の音楽を書いた。彼は、90歳代になっても活躍し続けた。奴隷の労働歌から生まれたブルースは、1920年代・30年代にニューヨークなどで大流行した。ブルースの名歌手には、マ・レイニー(1886~1939年)、ベッシー・スミス(1898年頃~1937年)らがいる。
ジャズ
W・C・ハンディの「セントルイス・ブルース」は、20世紀に書かれた歌の中で、最も頻繁に録音された歌の1つである。その中でも傑出しているのが、1925年にベッシー・スミスがルイ・アームストロング(1900~71年)のコルネット伴奏で録音したバージョンで、3人の偉大なアーティスト(作曲家、歌手、楽器奏者)がジャズという新しいジャンルの音楽で共演している。「ジャズ」の語源は明らかではないが、性的な意味を持つ言葉から来ていることはほぼ確実である。ジャズは、20世紀初めにルイジアナ州ニューオルリンズで発生し、ラグタイム、奴隷の歌、ブラスバンド音楽の各要素を採り入れている。ジャズの大きな特徴の1つはその流動性で、ジャズ・ミュージシャンは、同じ曲でも毎回同じ演奏をすることはほとんどなく、曲も歌詞も即興で変えることが多い。
1920年代から40年代には、ジェリー・ロール・モートン(1885~1941年)、デューク・エリントン(1899~1974年)、ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン(1909~86年)、ビックス・バイダーベック(1903~31年)、ビリー・ホリデー(1915~59年)、エラ・フィッツジェラルド(1918~96年)等、天才的なジャズ作曲家・演奏家が輩出し、ジャズはアメリカのポピュラー音楽の主流となった。1930年代・40年代に最も人気のあったジャズの形態は、大編成楽団による「ビッグバンド・スイング」ジャズだった。代表的なビッグバンドには、グレン・ミラー(1909~44年)やウィリアム・”カウント”・ベイシー(1904~84年)の率いる楽団がある。1940年代後半になると、新しい、より知的なジャズ「ビー・バップ」が注目されるようになった。これは、トランペットのディジー・ガレスピー(1917~93年)、サックスのチャーリー・パーカー(1920~55年)らを代表とする、インストルメンタル中心のジャズだった。トランペット奏者マイルズ・デイビス(1926~91年)は、さまざまな音楽の影響を受け、クラシック音楽を取り入れた「スペインからのスケッチ」などを作曲している。
1950年代初めになると、ジャズは大衆の支持を失い、ロックンロールという新たなポピュラー音楽が台頭してきた。ロックンロールは、強烈なビートときわどい歌詞の多い黒人音楽、リズム・アンド・ブルース(R&B)を母体としていた。R&Bは、黒人が作った、黒人のための音楽だったが、白人のティーンエージャーの支持を受け、黒人向けラジオの深夜放送でR&Bを聞くのが、彼らの秘かな楽しみとなった。白人のミュージシャンや編曲家は、R&Bのビートを抑え、歌詞を変えて、一般大衆に受け入れやすくするようR&Bを「使った」。その代表例が、黒人のアントワン・「ファッツ」・ドミノが自作自演した「エイント・ザット・ア・シェーム」で、この曲は1955年にロックのヒット曲となったが、白人歌手パット・ブーンによるバラード風のバージョンは、さらに大きなヒットとなった。
当時、目先のきくレコード・プロデューサーは、黒人男性のエネルギッシュな歌唱力を持つ、魅力ある白人男性を売り出せば、大スターになるだろうと目星をつけた。その条件にぴったり当てはまったのが、エルビス・プレスリー(1935~77年)である。南部の貧しい家庭に育ったプレスリーは、情感あふれる声と官能的な美貌を持ち、歌いながら腰を振るアクションは、大人の目には卑猥に映ったが、ティーンエージャーにとってはロックンロールとして自然なものだった。プレスリーも、初めは黒人歌手の曲を歌っていた。初期のヒット曲「ハウンド・ドッグ」は、ブルース歌手ビッグ・ママ・ソーントンの曲である。しかし、まもなくプレスリーは、新世代のロックンロール作曲家によるオリジナル曲を歌うようになった。
ロックンロールは、登場してから数年後には、特に若者の間で、アメリカを代表するポピュラー音楽になりつつあった。さらに英国にも急速に広がり、1960年代初めには、英国でビートルズやローリング・ストーンズが生まれた。一方、ロックに対抗するものとして、フォーク音楽が出現していた。フォークの母体は、スコットランド、イングランド、アイルランドからアメリカに持ち込まれ、ノースカロライナ州やウェストバージニア州の山地などで継承れていたバラードである。ウィーバーズ、ジョーン・バエズ、ジュディ・コリンズ、ピーター・ポール・アンド・マリーといったフォーク歌手は、アコースティック・ギターやバンジョーを伴奏に歌い、ロックンロールと対照的に(電気等を使わない)「ローテク」な音楽を聴かせた。
ボブ・ディラン(1941年~)は、黒人に対する公民権付与拒絶など現代社会の問題をとり上げた歌を書いて、フォークのファン層を広げた。1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでディランが初めてエレキギターを使った時には、「エレキに走った」ディランがブーングを受け、ロック・ファンとフォーク純粋主義者の対立が表面化した。しかしディランは臆することなく、フォークからロックとフォークの融合に移行する動きの先頭に立った。
この融合が一大転機となって、今日まで続くパターンが生まれた。ロックは、そのリズムの枠内に、ほとんどどんな音楽や風変わりなショーマンシップも採り入れることができるため、アメリカ、そして世界各地で、最も優勢なポピュラー音楽となっている。ロックは、マンネリ化の徴候が現れるたびに、アフリカ系アメリカ人の音楽をはじめ、他のジャンルからの刺激を得ているようである。その一例が、1980年代に登場したラップ音楽(単調な節に、韻を踏んだ、往々にしてきわどい歌詞を付けた黒人音楽)である。
フォークと同様、カントリーも、イングランド、スコットランド、アイルランドからアメリカに渡った音楽を母体としている。カントリーの原型は、「オールド・タイム」と呼ばれるもので、弦楽器のバンド(通常、フィドル、バンジョー、ギター、ベース)により演奏される。今日でも、バージニア、ノースカロライナ等、南部諸州のフェスティバルで、オールド・タイム・カントリーが演奏されている。
時代の関心事を歌ったモダン・カントリー音楽が生まれたのは1920年代だった。これは、農村の人々が職を求めて大量に都市部へ流入した時期とほぼ重なる。カントリーには、メランコリーな曲が多く、失われた家、故郷に残された親、失恋など、喪失や別離を歌ったものが多い。アメリカの他のポピュラー音楽と同様、カントリーもロックンロールのビートに合いやすく、カントリー・ロックも融合の成功例となった。カントリーは、ロックに次いで2番目に人気のあるジャンルであり、カントリーの歌手ガース・ブルックス(1962年~)のアルバム・レコード売上は、一人の歌手としてはエルビス・プレスリーやマイケル・ジャクソンを凌いで、アメリカの音楽史上最高である。
アメリカ文化の強大な影響力を快く思わない国もある。フランスでは、英語の侵入を阻止しようとする動きが定期的に発生している。カナダも、国内におけるアメリカの出版物を制限している。アメリカ内でも、最大公分母をターゲットとした番組作りを優先するメディアの傾向を不満とする国民も多い。
しかし、公分母が必ずしも低級であるとは限らず、またアメリカは、世界中のほとんど全ての人たちにアピールする娯楽を作る、少なからぬ能力を備えている。作家・演出家のジョン・ボアスティンは、著書「ハリウッド・アイ」で、映画の大衆志向を次のように弁護しているが、これはアメリカの大衆文化のあらゆる分野に言えることである。「単純、貪欲、民主的な考え方を持つハリウッドの映画製作者たちは、すばらしく誇れる内容であると同時に、大衆が見たがるような作品を作ることが両立できることを本能的に知っている。そのために、彼らは自らの高尚な感性を抑えて、自分の両親や兄弟姉妹、ウォールストリートの弁護士、田舎町のロータリー会員、ウェイター、工学部の学生、警官、平和主義者、洗車場の職員、小学生、麻薬中毒者、偏見に凝り固まった人など、あらゆる人たちと共有する部分・・・すなわち人間が共通して持つ喜怒哀楽、興奮、喪失、苦悩、愛などを利用しているのだ。」
*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。
<< 「アメリカ合衆国のポートレート」の目次に戻る
Exporting Popular Culture - Portrait of the USA
Mickey Mouse, Babe Ruth, screwball comedy, G.I. Joe, the blues, "The Simpsons," Michael Jackson, the Dallas Cowboys, Gone With the Wind, the Dream Team, Indiana Jones, Catch-22 - these names, genres, and phrases from American sports and entertainment have joined more tangible American products in traveling the globe. For better or worse, many nations now have two cultures: their indigenous one and one consisting of the sports, movies, television programs, and music whose energy and broad-based appeal are identifiably American.
This chapter concentrates on a few of America's original contributions to world entertainment: the sports of baseball and basketball; movies; and three kinds of popular music - jazz, rock and roll, and country.
The sport that evokes more nostalgia among Americans than any other is baseball. So many people play the game as children (or play its close relative, softball) that it has become known as "the national pastime." It is also a democratic game. Unlike football and basketball, baseball can be played well by people of average height and weight.
Baseball originated before the American Civil War (1861-1865) as rounders, a humble game played on sandlots. Early champions of the game fine-tuned it to include the kind of skills and mental judgment that made cricket respectable in England. In particular, scoring and record-keeping gave baseball gravity. "Today," notes John Thorn in The Baseball Encyclopedia, "baseball without records is inconceivable." More Americans undoubtedly know that Roger Maris's 61 home runs in 1961 broke Babe Ruth's record of 60 in 1927 than that President Ronald Reagan's 525 electoral-college votes in 1984 broke President Franklin Roosevelt's record of 523 in 1936.
In 1871 the first professional baseball league was born. By the beginning of the 20th century, most large cities in the eastern United States had a professional baseball team. The teams were divided into two leagues, the National and American; during the regular season, a team played only against other teams within its league. The most victorious team in each league was said to have won the "pennant;" the two pennant winners met after the end of the regular season in the World Series. The winner of at least four games (out of a possible seven) was the champion for that year. This arrangement still holds today, although the leagues are now subdivided and pennants are decided in post-season playoff series between the winners of each division.
Baseball came of age in the 1920s, when Babe Ruth (1895-1948) led the New York Yankees to several World Series titles and became a national hero on the strength of his home runs (balls that cannot be played because they have been hit out of the field). Over the decades, every team has had its great players. One of the most noteworthy was the Brooklyn Dodgers' Jackie Robinson (1919-1972), a gifted and courageous athlete who became the first African-American player in the major leagues in 1947. (Prior to Robinson, black players had been restricted to the Negro League.)
Starting in the 1950s, baseball expanded its geographical range. Western cities got teams, either by luring them to move from eastern cities or by forming so-called expansion teams with players made available by established teams. Until the 1970s, because of strict contracts, the owners of baseball teams also virtually owned the players; since then, the rules have changed so that players are free, within certain limits, to sell their services to any team. The results have been bidding wars and stars who are paid millions of dollars a year. Disputes between the players' union and the owners have at times halted baseball for months at a time. If baseball is both a sport and a business, late in the 20th century many disgruntled fans view the business side as the dominant one.
Baseball became popular in Japan after American soldiers introduced it during the occupation following World War II. In the 1990s a Japanese player, Hideo Nomo, became a star pitcher for the Los Angeles Dodgers. Baseball is also widely played in Cuba and other Caribbean nations. In the 1996 Olympics, it was a measure of baseball's appeal outside the United States that the contest for the gold medal came down to Japan and Cuba (Cuba won).
Another American game that has traveled well is basketball, now played by more than 250 million people worldwide in an organized fashion, as well as by countless others in "pick-up" games. Basketball originated in 1891 when a future Presbyterian minister named James Naismith (1861-1939) was assigned to teach a physical education class at a Young Men's Christian Association (YMCA) training school in Springfield, Massachusetts. The class had been noted for being disorderly, and Naismith was told to invent a new game to keep the young men occupied. Since it was winter and very cold outside, a game that could be played indoors was desirable.
Naismith thought back to his boyhood in Canada, where he and his friends had played "duck on a rock," which involved trying to knock a large rock off a boulder by throwing smaller rocks at it. He also recalled watching rugby players toss a ball into a box in a gymnasium. He had the idea of nailing up raised boxes into which players would attempt to throw a ball. When boxes couldn't be found, he used peach baskets. According to Alexander Wolff, in his book 100 Years of Hoops, Naismith drew up the rules for the new game in "about an hour." Most of them still apply in some form today.
Basketball caught on because graduates of the YMCA school traveled widely, because Naismith disseminated the rules freely, and because there was a need for a simple game that could be played indoors during winter. Naismith's legacy included the first great college basketball coach, Forrest "Phog" Allen (1885-1974), who played for Naismith at the University of Kansas and went on to win 771 games as a coach at Kansas himself. Among Allen's star players was Wilt Chamberlain, who became one of professional basketball's first superstars - one night in 1962, he scored a record 100 points in a game.
The first professional basketball league was formed in 1898; players earned $2.50 for home games, $1.25 for games on the road. Not quite 100 years later, Juwan Howard, a star player for the Washington Bullets (now called the Washington Wizards), had competing offers of more than $100 million over seven seasons from the Bullets and the Miami Heat.
Many teams in the National Basketball Association now have foreign players, who return home to represent their native countries during the Olympic Games. The so-called Dream Team, made up of the top American professional basketball players, has represented the United States in recent Olympic Games. In 1996 the Dream Team trailed some opponents until fairly late in the games - an indication of basketball's growing international status.
The American film critic Pauline Kael gave a 1968 collection of her reviews the title Kiss Kiss Bang Bang. By way of explanation, she said that the words, which came from an Italian movie poster, were "perhaps the briefest statement imaginable of the basic appeal of movies." Certainly, they sum up the raw energy of many American films.
If moving pictures were not an American invention, they have nonetheless been the preeminent American contribution to world entertainment. In the early 1900s, when the medium was new, many immigrants, particularly Jews, found employment in the U.S. film industry. Kept out of other occupations by racial prejudice, they were able to make their mark in a brand-new business: the exhibition of short films in storefront theaters called nickelodeons, after their admission price of a nickel (five cents). Within a few years, ambitious men like Samuel Goldwyn, Carl Laemmle, Adolph Zukor, Louis B. Mayer, and the Warner Brothers - Harry, Albert, Samuel, and Jack - had switched to the production side of the business. Soon they were the heads of a new kind of enterprise: the movie studio.
The major studios were located in the Hollywood section of Los Angeles, California. Before World War I, movies were made in several U.S. cities, but filmmakers gravitated to southern California as the industry developed. They were attracted by the mild climate, which made it possible to film movies outdoors year-round, and by the varied scenery that was available.
Other moviemakers arrived from Europe after World War I: directors like Ernst Lubitsch, Alfred Hitchcock, Fritz Lang, and Jean Renoir; actors like Rudolph Valentino, Marlene Dietrich, Greta Garbo, Ronald Colman, and Charles Boyer. They joined a homegrown supply of actors - lured west from the New York City stage after the introduction of sound films - to form one of the 20th century's most remarkable growth industries. At motion pictures' height of popularity in the mid-1940s, the studios were cranking out a total of about 400 movies a year, seen by an audience of 90 million Americans per week.
During the so-called Golden Age of Hollywood, the 1930s and 1940s, movies issued from the Hollywood studios rather like the cars rolling off Henry Ford's assembly lines. No two movies were exactly the same, but most followed a formula: Western, slapstick comedy, film noir, musical, animated cartoon, biopic (biographical picture), etc. Yet each movie was a little different, and, unlike the craftsmen who made cars, many of the people who made movies were artists. To Have and Have Not (1944) is famous not only for the first pairing of actors Humphrey Bogart (1899-1957) and Lauren Bacall (1924- ) but also for being written by two future winners of the Nobel Prize for literature: Ernest Hemingway (1899-1961), author of the novel on which the script was based, and William Faulkner (1897-1962), who worked on the screen adaptation.
Moviemaking was still a business, however, and motion picture companies made money by operating under the so-called studio system. The major studios kept thousands of people on salary - actors, producers, directors, writers, stuntmen, craftspersons, and technicians. And they owned hundreds of theaters in cities and towns across the nation - theaters that showed their films and that were always in need of fresh material.
What is remarkable is how much quality entertainment emerged from such a regimented process. One reason this was possible is that, with so many movies being made, not every one had to be a big hit. A studio could gamble on a medium-budget feature with a good script and relatively unknown actors: Citizen Kane (1941), directed by Orson Welles (1915-1985) and widely regarded as the greatest of all American movies, fits that description. In other cases, strong-willed directors like Howard Hawks (1896-1977) and Frank Capra (1897-1991) battled the studios in order to achieve their artistic visions. The apogee of the studio system may have been the year 1939, which saw the release of such classics as The Wizard of Oz, Gone With the Wind, Stagecoach, Mr. Smith Goes to Washington (directed by Capra), Only Angels Have Wings (Hawks), Ninotchka (Lubitsch), and Midnight.
The studio system succumbed to two forces in the late 1940s: (1) a federal antitrust action that separated the production of films from their exhibition; and (2) the advent of television. The number of movies being made dropped sharply, even as the average budget soared, because Hollywood wanted to offer audiences the kind of spectacle they couldn't see on television.
This blockbuster syndrome has continued to affect Hollywood. Added to the skyrocketing salaries paid actors, studio heads, and deal-making agents, it means that movies released today tend to be either huge successes or huge failures, depending on how well their enormous costs match up with the public taste.
The studios still exist, often in partnership with other media companies, but many of the most interesting American movies are now independent productions. The films of Woody Allen (1935- ), for example, fall into this category. Critics rate them highly and most of them make a profit, but since good actors are willing to work with Allen for relatively little money, the films are inexpensive to make. Thus, if one happens to fail at the box office, the loss is not crushing. In contrast, a movie featuring Tom Cruise or Arnold Schwarzenegger typically begins with a cost of $10 million or more just for the star's salary. With multiples of a sum like that at stake, Hollywood studio executives tend to play it safe.
The first major composer of popular music with a uniquely American style was Stephen Foster (1826-1864). He established a pattern that has shaped American music ever since - combining elements of the European musical tradition with African-American rhythms and themes. Of Irish ancestry, Foster grew up in the South, where he heard slave music and saw minstrel shows, which featured white performers in black make-up performing African-American songs and dances. Such material inspired some of Foster's best songs, which many Americans still know by heart: "Oh! Susanna," "Camptown Races," "Ring the Banjo," "Old Folks at Home" (better known by its opening line: "Way down upon the Swanee River").
Before the movies and radio, most Americans had to entertain themselves or wait for the arrival in town of lecturers, circuses, or the traveling stage revues known as vaudeville. Dozens of prominent American entertainers got their starts in vaudeville - W.C. Fields, Jack Benny, George Burns and Gracie Allen, Buster Keaton, Sophie Tucker, Fanny Brice, Al Jolson, and the Three Stooges, to name just a few - and the medium demanded a steady supply of new songs. Late in the 19th century, music publishing became a big business in the United States, with many firms clustered in New York City, on a street that became known as Tin Pan Alley.
Vaudeville and the European genre of operetta spawned the Broadway musical, which integrates songs and dancing into a continuous story with spoken dialogue. The first successful example of the new genre - and still one of the best - was Jerome Kern's Showboat, which premiered in 1927. Interestingly, Showboat pays tribute to the black influence on mainstream American music with a story centered on miscegenation and, as its most poignant song, the slave lament "Ol' Man River."
Songwriter Irving Berlin (1888-1989) made a smooth transition from Tin Pan Alley to Broadway. An immigrant of Russian-Jewish extraction, he wrote some of the most popular American songs: "God Bless America," "Easter Parade," "White Christmas," "There's No Business Like Show Business," and "Cheek to Cheek." Cole Porter (1891-1964) took the Broadway show song to new heights of sophistication with his witty lyrics and rousing melodies, combined in such songs as "Anything Goes," "My Heart Belongs to Daddy," "You're the Top," "I Get a Kick Out of You," and "It's De-Lovely."
Black composers such as Scott Joplin (1868-1917) and Eubie Blake (1883-1983) drew on their own heritage to compose songs, ragtime pieces for piano, and, in Joplin's case, an opera. Joplin was all but forgotten after his death, but his music made a comeback starting in the 1970s. Blake wrote the music for Shuffle Along, the first Broadway musical by and about blacks, and continued to perform well into his 90s. Blues songs, which had evolved from slaves' work songs, became the rage in New York City and elsewhere during the 1920s and 1930s; two of the blues' finest practitioners were Ma Rainey (1886-1939) and Bessie Smith (c.1898-1937).
W.C. Handy's "St. Louis Blues" is one of the most frequently recorded songs written in the 20th century. Of all those recordings, one stands out: Bessie Smith's 1925 version, with Louis Armstrong (1900-1971) accompanying her on the cornet - a collaboration of three great figures (composer, singer, instrumentalist) in a new kind of music called jazz. Though the meaning of "jazz" is obscure, originally the term almost certainly had to do with sex. The music, which originated in New Orleans early in the 20th century, brought together elements from ragtime, slave songs, and brass bands. One of the distinguishing elements of jazz was its fluidity: in live performances, the musicians would almost never play a song the same way twice but would improvise variations on its notes and words.
Blessed with composers and performers of genius - Jelly Roll Morton (1885-1941) and Duke Ellington (1899-1974), Louis Armstrong and Benny Goodman (1909-1986) and Bix Beiderbecke (1903-1931), Billie Holiday (1915-1959), and Ella Fitzgerald (1918-1996) - jazz was the reigning popular American music from the 1920s through the 1940s. In the 1930s and 1940s the most popular form of jazz was "big-band swing," so called after large ensembles conducted by the likes of Glenn Miller (1909-1944) and William "Count" Basie (1904-1984). In the late 1940s a new, more cerebral form of mostly instrumental jazz, called be-bop, began to attract audiences. Its practitioners included trumpeter Dizzy Gillespie (1917-1993) and saxophonist Charlie Parker (1920-1955). Trumpeter Miles Davis (1926-1991) experimented with a wide range of musical influences, including classical music, which he incorporated into such compositions as "Sketches from Spain."
By the early 1950s, however, jazz had lost some of its appeal to a mass audience. A new form of pop music, rock and roll, evolved from a black style known as rhythm and blues: songs with strong beats and often risqué lyrics. Though written by and for blacks, rhythm and blues also appealed to white teenagers, for whom listening to it over black-oriented radio stations late at night became a secret pleasure. To make the new music more acceptable to a mainstream audience, white performers and arrangers began to "cover" rhythm and blues songs - singing them with the beat toned down and the lyrics cleaned up. A typical example is "Ain't That a Shame," a 1955 hit in a rock version by its black composer, Antoine "Fats" Domino, but an even bigger hit as a ballad-like cover by a white performer, Pat Boone.
Shrewd record producers of the time realized that a magnetic white man who could sing with the energy of a black man would have enormous appeal. Just such a figure appeared in the person of Elvis Presley (1935-1977), who had grown up poor in the South. Besides an emotional singing voice, Presley had sultry good looks and a way of shaking his hips that struck adults as obscene but teenagers as natural to rock and roll. At first, Presley, too, covered black singers: One of his first big hits was "Hound Dog," which had been sung by blues artist Big Mama Thornton. Soon, however, Presley was singing original material, supplied by a new breed of rock-and-roll songwriters.
A few years after its debut, rock and roll was well on its way to becoming the American form of pop music, especially among the young. It spread quickly to Great Britain, where the Beatles and the Rolling Stones got their starts in the early 1960s. In the meantime, however, a challenge to rock had appeared in the form of folk music, based largely on ballads brought over from Scotland, England, and Ireland and preserved in such enclaves as the mountains of North Carolina and West Virginia. Often accompanying themselves on acoustic guitar or banjo, such performers as the Weavers, Joan Baez, Judy Collins, and Peter, Paul, and Mary offered a low-tech alternative to rock and roll.
Bob Dylan (1941- ) extended the reach of folk music by writing striking new songs that addressed contemporary social problems, especially the denial of civil rights to black Americans. The division between the two camps - rock enthusiasts and folk purists - came to a head when Dylan was booed for "going electric" (accompanying himself on electric guitar) at the 1965 Newport Folk Festival. Far from being deterred, Dylan led virtually the entire folk movement into a blend of rock and folk.
This merger was a watershed event, setting a pattern that holds true to this day. Rock remains the prevalent pop music of America - and much of the rest of the world - largely because it can assimilate almost any other kind of music, along with new varieties of outlandish showmanship, into its strong rhythmical framework. Whenever rock shows signs of creative exhaustion, it seems to get a transfusion, often from African Americans, as happened in the 1980s with the rise of rap: rhyming, often rude lyrics set to minimalist tunes.
Like folk, country music descends from the songs brought to the United States from England, Scotland, and Ireland. The original form of country music, called "old-time" and played by string bands (typically made up of fiddle, banjo, guitar, and base fiddle), can still be heard at festivals held each year in Virginia, North Carolina, and other southern states.
Modern country music - original songs about contemporary concerns - developed in the 1920s, roughly coinciding with a mass migration of rural people to big cities in search of work. Country music tends to have a melancholy sound, and many classic songs are about loss or separation - lost homes, parents left behind, lost loves. Like many other forms of American pop music, country lends itself easily to a rock-and-roll beat, and country rock has been yet another successful American merger. Overall, country is second only to rock in popularity, and country singer Garth Brooks (1962- ) has sold more albums than any other single artist in American musical history - including Elvis Presley and Michael Jackson.
Some countries resent the American cultural juggernaut. The French periodically campaign to rid their language of invading English terms, and the Canadians have placed limits on American publications in Canada. Many Americans, too, complain about the media's tendency to pitch programs toward the lowest common denominator.
And yet the common denominator need not be a low one, and the American knack for making entertainment that appeals to virtually all of humanity is no small gift. In his book The Hollywood Eye, writer and producer Jon Boorstin defends the movies' orientation to mass-market tastes in terms that can be applied to other branches of American pop culture: "In their simple-minded, greedy, democratic way Hollywood filmmakers know deep in their gut that they can have it both ways - they can make a film they are terrifically proud of that masses of people will want to see, too. That means tuning out their more rarefied sensibilities and using that part of themselves they share with their parents and their siblings, with Wall Street lawyers and small-town Rotarians and waiters and engineering students, with cops and pacifists and the guys at the car wash and perhaps even second graders and junkies and bigots;...the common human currency of joy and sorrow and anger and excitement and loss and pain and love."