国務省出版物
米国の歴史の概要 – 変動の時代:1960~1980年
1960年までには、米国では大きな社会変動が目前に迫っていた。米国社会は常に、世界のほとんどの国に比べて、開放的かつ流動的であった。しかし、米国は主として古い家系の白人男性に支配されていた。1960年代には、それまで表に出なかったグループあるいは従属的な地位にあったグループが、より積極的に主張をし、力をつけ始めた。それは、アフリカ系米国人、アメリカ先住民、女性、「新移民」の白人少数派の子孫、そしてラテン系米国人などであった。彼らを支持したのは、かつてない規模の若者人口であった。こうした若者たちは、これもかつてないペースで拡大する全米各地の大学で学んでいた。第2次大戦世代の親から生まれた子どもたちの多くは、「対抗文化」と急進的な政治思想を支持し、文化的・民族的多元主義を特徴とする新しい米国を推進した。これは親の世代にとっては不安なことであった。
平等を求めるアフリカ系米国人の闘争は、1960年代半ばにピークに達した。1950年代の漸進的な勝利の後に、アフリカ系米国人は非暴力的直接行動にますます打ち込むようになった。アフリカ系米国人聖職者から成る南部キリスト教指導者会議(SCLC)や、若い活動家が結成した学生非暴力調整委員会(SNCC)などの団体が、平和的な対決による改革を求めた。
1960年に、ノースカロライナ州でアフリカ系米国人の大学生らが、ウールワース(大手小売チェーン・ストア)の白人専用のランチ・カウンターに座り、拒否されてもそのまま居すわった。この座り込み事件はマスコミの注目を集め、同様の座り込み運動が南部各地に広がった。翌年には、公民権運動の活動家たちが「フリーダム・ライド」を組織した。これは、アフリカ系米国人と白人が共にバスに乗って南部各地の人種隔離されたバス・ターミナルを回るという活動で、ターミナルで人種差別主義者との対立が発生すればマスコミの注意を引き、変化につながることが期待された。
彼らはさまざまな集会も企画したが、その最大のものは1963年の「ワシントン大行進」であった。20万人以上の人々が米国の首都ワシントンに集まり、すべての人の平等を求めてデモ行進をした。歌や演説の続いた1日のハイライトは、公民権運動の傑出したリーダーとして台頭していたマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの演説であった。「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくようになることである」とキングは語った。彼が「私には夢がある」という一節を繰り返すたびに、聴衆から大歓声が沸き起こった。
公民権運動の初期の実績は、こうした雄弁な演説が求めた水準に達しなかった。当初ケネディ大統領は、南部の白人に公民権運動の支持を求めることをためらった。大統領は他の分野で彼らの票を必要としていたからである。しかし、アフリカ系米国人自身が推進したいくつかの出来事によって、ケネディは行動をとらざるを得なくなった。1962年にジェームズ・メレディスが、黒人であることを理由にミシシッピ大学への入学を拒否されると、ケネディは法律を執行するために連邦軍を派遣した。アラバマ州バーミンガムで、差別廃止を求める抗議活動に対して警察が暴力を振るった事件の後で、ケネディは、公共の場所における人種差別撤廃を義務付ける新しい公民権法案を連邦議会に提出した。しかし、ワシントン大行進の後でさえも、この法案が連邦議会委員会を通過することはできず、1963年にケネディ大統領が暗殺されたときも、法案は委員会にとどまったままであった。
しかし、リンドン・B・ジョンソン大統領は、上院多数党院内総務時代に見せた交渉の手腕を発揮して、上院を説得し、包括的な1964年公民権法の最終採決を妨げていた引き延ばし戦術を抑制させた。この公民権法は、あらゆる公共施設における差別を違法とするものであった。翌1965年の投票権法によって、地方政府職員がアフリカ系米国人の選挙登録を妨げた場合には、連邦政府が登録を行う権限が認められた。1968年までには、深南部で100万人のアフリカ系米国人が選挙登録をした。全米各地で、公選されたアフリカ系米国人政治家の数が大幅に増えた。1968年には、住宅差別を禁止する法律が可決された。
しかしながら、いったん公民権改革が始まると、変化のペースに対しても、またアフリカ系米国人を主流の白人社会に合流させようとする目標に対しても、不満を持つ指導者たちが出てきた。雄弁な活動家マルコムXは、アフリカ系米国人の白人種からの分離を主張する分離主義者の中で最も有名な存在であった。学生の指導者ストークリー・カーマイケルも、非暴力と人種間の協調という考え方に幻滅を感じ始めていた。彼は「ブラック・パワー」というスローガンを普及させた。マルコムXによれば、ブラック・パワーは「必要ならばいかなる手段をとっても」達成されなければならなかった。
戦闘的な改革の要求には暴力が伴った。1966年と1967年には、いくつかの大都市で暴動が発生した。1968年春、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺者の弾丸に倒れた。その数カ月後には、暗殺されたケネディ大統領の弟で、弱者を代弁し、ベトナム戦争に反対していたロバート・ケネディ上院議員も、同じ運命に遭った。多くの人々にとって、この2つの暗殺事件は、純真な理想主義の時代の終わりを象徴していた。左派の過激化と、必然的に発生する保守派の反動が、米国の精神に亀裂を生み、これがいやされるには長い年月が必要であった。
しかしながら、そのころには、裁判所の判決、議会による法律制定、および連邦政府の規則に支えられた公民権運動は、米国の暮らしの構造の中に深く浸透しており、後戻りをすることはできなかった。主な問題となったのは、人種隔離あるいは公民権はく奪の合法性ではなく、平等と権利の実現であった。1970年代以降の議論は、都市部の学校で人種の均衡を達成するための強制バス通学や、「アファーマティブ・アクション(差別是正措置)」の適用をめぐって行われた。これらの政策・制度は、機会均等を確保するための積極的な措置と見なされる一方で、これらを逆差別と見なす人たちもいた。
こうした課題に取り組む裁判所の判決は、一貫性を欠くことが多かった。その間にもアフリカ系米国人が着々と中流階級に仲間入りし、かつては主として白人が住んでいた郊外へ流入して、米国の人口構造を深く静かに変えていった。
1950年代と1960年代には、労働市場に参入する既婚女性の数が増えたが、1963年の働く女性の平均賃金は、男性の平均賃金の63%にすぎなかった。その年、ベティ・フリーダンが「新しい女性の創造」を出版し、中流階級の生活パターンを強烈に批判した。彼女は、多くの女性が漠然とした不満を感じていると主張し、そうした不満を明確に分析してみせた。フリーダンは、多くの女性は「夫を見つけ、子どもを産む」こと以外に自己表現の手段がないと述べ、読者に、新たな役割と責任を探究すること、そして男性優位の社会が定義するアイデンティティではなく、独自の個人的・職業的なアイデンティティを見つけることを奨励した。
1960年代と1970年代の女性解放運動は、公民権運動に触発されたものであった。運動に参加したのは主に中流階級の人々であり、従って、1960年代の中流階級の若者と同様の反抗精神に影響されていた。
改革のための法律制定も変化に拍車をかけた。1964年公民権法案をめぐる議論の際に、反対派は、人種だけでなく性別による差別をも禁止する修正条項を提案することによって、法案全体の否決を狙った。結果的には、まず修正条項が、続いて法案自体が可決され、女性は貴重な法的手段を獲得した。
1966年に、フリーダンをはじめとする28 人の働く女性が、「今すぐ(now)米国の女性を米国社会の主流に全面的に参加させる行動を起こすために」、全米女性機構(NOW)を設立した。今日、NOWおよび同様のフェミニスト団体には多数の会員がいるが、これらの組織が最も大きな影響力を持ったのは、おそらく1970年代初めのことで、この時期にはまた、ジャーナリストのグロリア・スタイナムをはじめ数人の女性が「ミズ」誌を創刊した。これらの組織に触発された反フェミニスト団体も創設され、その多くは女性を指導者としていた。中でも有名なのは、政治活動家フィリス・シュラフリーの率いる団体である。こうした団体は、通常、より「伝統的な」性別による役割分担を支持し、提案されていた「男女平等」憲法修正条項(ERA)に反対した。
1972年に議会で可決されたこの修正条項は、「法の下での平等が、性別を理由に、米国によって、あるいはいかなる国家によっても否定されたり、はく奪されることがあってはならない」と述べている。批准には38州の承認が必要であったが、その後数年間に35州がこれを承認した。1973年には、最高裁が「ロー対ウェード」判決によって、女性が妊娠初期に人工妊娠中絶を受ける権利を認めた。これは、女性解放運動における大きな勝利と見なされたが、同時に中絶反対運動の発展を刺激した。
しかしながら、1970年代半ばから後半にかけて、女性解放運動は停滞したようだった。女性運動は中流階級以外の人々にアピールすることができず、また穏健派と過激派の対立も見られた。保守的な反対派が「男女平等」憲法修正条項に反対する運動を起こし、結局この修正条項は批准に必要な38州の承認を得ることができず、1982年に消滅した。
第2次世界大戦後の米国では、メキシコ系およびプエルトリコ系の米国人が差別に直面した。キューバ、メキシコ、および中央アメリカからの新たな移民も差別の対象となった。こうした移民は、熟練技術を持たず、英語も話せないことが多かった。ラテン・アメリカ系移民の一部は、農場労働者として作物を収穫し、時には雇用主にひどく搾取されることもあった。より良い生活を求めて都市部へ流れた移民は、初期の移民グループと同様の困難に直面した。
「チカノ」と呼ばれたメキシコ系米国人は、急進的な全米メキシコ系米国人協会のような組織を結成して活動したが、積極的に闘うようになったのは1960年代に入ってからであった。彼らは、リンドン・ジョンソン大統領の貧困対策が、彼らにとっても機会の拡大につながると期待したが、結局、政府は声高に権利を主張しないグループには対応しないということに気づいた。特に黒人活動家の例が、多民族社会における政治的圧力の重要性を、ラテン・アメリカ系米国人にも教えた。
1935年の全国労働関係法は、労働者の団体交渉権を保証したが、農業労働者は除外されていた。主としてラテン・アメリカ系の人々から成る全米農業労働者組合(UFW)の創設者シーザー・チャベスは、労働組合が直接行動によって雇用者の注意を引くことができることを証明した。チャベスは、全国的な消費者ボイコットを主導することによって、カリフォルニア州のブドウ農場経営者たちに、労働組合との交渉の場につくことを同意させた。レタスその他の農産物のボイコット運動も同様の成果につながった。農場経営者は、引き続きチャベスの組織を妨害しようとしたが、労働組合が賃金引き上げと労働環境の改善を確保するための法的基盤がすでに整備されていた。
政治の世界でもラテン・アメリカ系米国人の活躍が目立つようになった。1961年に、ヘンリー・B・ゴンサレスがテキサス州から下院議員に選出された。3年後には、エリヒオ・「キカ」・デ・ラ・ガルサ が同じくテキサス州から下院議員に、またジョセフ・モントーヤがニューメキシコ州から上院議員に選出された。ゴンサレスとデ・ラ・ガルサ はいずれも後に下院委員長として有力な地位についた。1970年代および1980年代には、ラテン・アメリカ系米国人の政治参加が加速した。ビル・クリントンおよびジョージ・W・ブッシュ両政権の閣僚には、ラテン・アメリカ系米国人が数人含まれていた。
1950年代に、アメリカ先住民は、彼らを居留地から都市部に移住させ、米国民の主流の生活に同化させようとする米国政府の政策と闘った。住み慣れた土地から引き離されたアメリカ先住民の多くは、なかなか都会の生活に適応することができなかった。この政策は1961年に廃止され、米国公民権委員会は、アメリカ先住民の間では「貧困と窮乏が一般的に見られる」と報告した。
1960年代と1970年代には、第3世界の民族主義の発展と公民権運動の前進を目の当たりにしたアメリカ先住民が、自らの権利を、より積極的に要求するようになった。新しい世代の指導者たちが、残された部族の土地を保護するため、あるいは過去に違法な手段で奪われた土地を取り戻すために、訴訟を起こした。彼らは各州で次々と条約違反を訴え、1967 年には、長年にわたって侵害されてきた土地および水資源の権利の保証を初めて勝ち取り、その後も多くの同様の勝利を収めた。1968年に設立されたアメリカン・インディアン運動(AIM)は、アメリカ先住民の組織のために政府資金を獲得し、忘れ去られていた都市部のアメリカ先住民を援助した。
対立も増えた。1969年には、アメリカ先住民78人がサンフランシスコ湾のアルカトラス島に上陸し、1971年に連邦政府当局によって排除されるまで同島を占拠した。1973年には、AIMが、19世紀後半に連邦軍がスー族の野営地を襲って殺りくを行った、サウスダコタ州のウンデッドニーを占拠した。過激派は、町を取り巻くインディアン居留地の貧困とアルコール依存症の現状を浮き彫りにしようとした。アメリカ先住民一人が死亡し、もう一人が負傷した後に占拠が終了し、政府は条約の権利を再検討することに同意した。
その上、アメリカ先住民による運動はさまざまな成果を上げた。まず米国民はアメリカ先住民のニーズを以前より認識するようになった。また米国政府は、1975年教育援助法および1996年アメリカ先住民住宅・民族自決法の制定などの措置を取った。1992年には、コロラド州のベン・ナイトホース・キャンベルが上院で初めてのアメリカ先住民議員となった。
機会の平等を求める運動は、さまざまな形の変動を誘発した。特に若者は、親の世代が第2次大戦後に築いてきた中流階級の安定した生活パターンを否定した。過激な政治活動に飛び込む若者もいたが、多くは服装や性行動の新しい基準を積極的に受け入れた。
対抗文化の目に見える兆候は、1960年代後半から1970年代初めにかけて、米国社会の一部に広がった。長髪とひげがはやり、背広とネクタイがジーンズとTシャツに変わった。違法な薬物の使用が増えた。ロックンロールが勢いを得て大流行し、さらにさまざまな音楽に変形していった。ビートルズ、ローリング・ストーンズなど英国のグループが、米国で爆発的な人気を得た。「ハードロック」の人気が高まり、シンガー・ソングライターのボブ・ディランの作品をはじめとする政治的・社会的なメッセージ・ソングが増えた。若者の対抗文化が頂点に達したのが、1969 年8月のウッドストック・フェスティバルであった。ニューヨーク州の農村部で3日間にわたって開かれたこの音楽祭には、50万人近い人々が集まった。ウッドストック・フェスティバルは、映画やレコードに記録されて伝説化し、「ウッドストック世代」という言葉が登場した。
これと並行する形で、若者の新たな感受性が現れた出来事は、新左翼、すなわち若い大学生の世代の過激派活動家の台頭であった。彼らは、西ヨーロッパの新左翼に対応する存在であり、多くは旧世代の過激派活動家の子どもたちであった。しかし彼らは、古いマルクス主義のレトリックを拒否し、大学生自身が抑圧された階級であり、米国社会で抑圧されている他のグループの苦闘を理解することができる、と主張した。
新左翼の活動家は、公民権運動に参加し、貧困との闘いに加わった。彼らが最も大きな成功を収めたのは、ベトナム反戦運動であった。これは、徴兵年齢の彼らと同世代の若者たちの感情に訴える問題であり、新左翼が一般大衆の支持を得た唯一の例となった。1970年代後半までには、新左翼の学生運動は消滅していたが、その活動家の多くは、政治の主流へと移行していった。
公民権運動、対抗文化、そして新左翼を推進したエネルギーと感受性は、1960年代半ばに環境保護運動をも活気付けた。環境保護活動家の多くは、1962年に出版されたレーチェル・カーソンの「沈黙の春」によって目覚めた人たちであった。この本でカーソンは、化学薬品を使った殺虫剤、特にDDTが、がんをはじめとする病気の原因となっている、と主張した。1960年代を通じて、多くの人々が、自分たちの健康や周囲の美しい景観を脅かす、自動車排気ガス、工業廃棄物、石油汚染などの汚染物質に注目するようになるに従い、環境に関する国民の不安が高まっていった。1970年4月22日、全米の学校や地域社会で、初めてアース・デーの催しが行われた。また、米国民に環境汚染の危険を教える「ティーチ・イン」が実施された。
汚染の問題が存在することを否定する者は少なかったが、提案された解決策は、費用がかかり、国民に不便を強いるものであった。それを実行すれば、米国の生活水準を維持するために必要な経済成長が抑制される、という意見が多かった。それでも、1970年には、連邦議会が1967 年大気浄化法を修正し、全国的に統一された大気浄化基準を設定した。また議会は水質改善法を可決し、海上の石油流出の清掃責任を汚染者に負わせることを定めた。さらに1970年には、環境汚染行為を規制する活動の先頭に立つ独立した連邦機関として、環境保護庁(EPA)が設立された。その後30年間にわたり、EPAは、その権限を強化する立法に支えられて、連邦政府内でも有数の活発な機関となり、大気と水質に関する強力な規則を公布した。
1960年までには、政府が国民の生活においてますます強大な力を持つ存在となっていた。 1930年代の大恐慌時代に、米国民の生活のさまざまな側面に対処する多くの行政省庁が新設された。第2次世界大戦中には、連邦政府に雇用されている民間人の数が100万人から380万人に増え、その後1950年代には250万人で安定した。連邦政府支出は、1929年には31億ドルであったが、1953年には750億ドルとなり、1960 年代には1500億ドルを超えた。
米国民の間では、こうした拡張がどこまで続くべきかという点については異なる意見があったものの、ほとんどの国民が政府の役割の拡大を受け入れた。民主党は概して、政府が成長と安定を確保することを求めた。彼らは、教育、医療、および福祉における連邦政府による援助の拡大を望んだ。共和党員の多くは、政府の一定の責任を認めたが、支出を制限し、再び個人の責任を拡大することを望んだ。1960年の大統領選挙では、国家がこの2つの考え方にほぼ二分されていることが明らかになった。
民主党の大統領候補ジョン・F・ケネディが僅差で当選し、43歳で史上最年少の大統領となった。対立候補のリチャード・ニクソンとの一連のテレビ討論で画面に登場したケネディは、有能、雄弁、かつエネルギッシュな印象を与えた。選挙運動で、ケネディは、「われわれが求めようと求めまいと、新たなフロンティアが目前に迫っている」として、新しい10年間に積極的に突入しようと語った。ケネディは大統領就任演説を、次のような雄弁な呼びかけで結んだ。「国が諸君のために何ができるかではなく、諸君が国のために何ができるかを問おうではないか。」ケネディはその短い大統領時代を通じて、具体的な立法政策より、優雅さとウィットと洗練されたスマートさで国民の人気を維持し、その後の何世代にもわたる政治家に影響を与えた。
ケネディは、すべての国民に経済的な恩恵を与えるために強力なリーダーシップをとろうとしたが、大統領選で紙一重の勝利を収めた彼の権限は限られていた。連邦議会は上下両院とも民主党が多数党となっていたが、保守的な南部民主党議員は、経済への政府の介入については、共和党側に付くことが多かった。彼らは、連邦政府の教育援助、高齢者のための医療保険、都市省の新設などの計画に反対した。従って、ケネディの政策は、彼の崇高な演説通りにはいかず、制約・抑制されたものとなることが多かった。
ケネディにとって優先事項のひとつは、大統領就任時にすでに進行しつつあった景気後退を停止させ、経済成長を回復させることであった。しかしケネディは、1962年に、鉄鋼産業の価格上昇を過剰と見なし、価格引き下げ政策を打出して成功したため、財界首脳たちの信頼を失った。大統領は、当面の目標は達成したが、重要な支持基盤を離反させたのであった。ケネディは、大幅な減税が経済を刺激するという経済顧問の説得を受けて、そうした減税を定めた法案を支持した。しかしながら、連邦議会ではほとんどの議員が、そのような法案は予算赤字を増大させると考え、保守派議員の反対によって、この法案は可決の見込みがほぼなくなった。
ケネディ政権の総合的な立法実績はわずかなものであった。ケネディ大統領は、公民権運動の指導者たちに対して、ある程度応える姿勢を示したが、1963年にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの率いるデモ行進によって行動を迫られるまでは、実際に公民権運動の目標を容認することはなかった。トルーマンの場合と同様、ケネディも、公共教育に対する連邦政府援助あるいは高齢者のための医療制度に関する法案を議会で可決させることができなかった。最低賃金に関しても、わずかな引き上げを達成するにとどまった。しかしケネディは、宇宙計画の資金を確保し、また開発途上国の自立を援助するために米国人を海外へ派遣する平和部隊を創設した。
ケネディ大統領は就任時に、積極的な冷戦参加を誓約したが、同時に和解を望み、米国の軍事力を投入することには消極的であった。ケネディは、就任後の1年半の間に、CIA主導の亡命キューバ人によるピッグズ湾侵攻が失敗した後は米国による介入を拒否し、東南アジアの内陸国家ラオスを実質的に共産党の支配下に渡し、ベルリンの壁構築を黙認した。ソ連のニキタ・フルシチョフ首相は、ケネディとの唯一の直接会談である1961年6月のウィーン首脳会談で、ケネディの弱さを感じていたが、上記のようなケネディの決断は、その印象をさらに強めることになった。
こうした状況の下で、ケネディは、冷戦における最も深刻な出来事となったキューバ・ミサイル危機に直面した。
1962年秋、ケネディ政権は、ソ連がひそかにキューバに攻撃用核ミサイルを設置しているとの情報を得た。さまざまな対応策を検討した後、ケネディは、ソ連の船舶によるキューバへの追加的物資輸送を阻止するために検疫措置を取ることを決定した。彼は、ソ連が兵器を撤去することを公に要求し、キューバから攻撃が行われたらソビエト連邦に報復する、と警告した。数日間にわたって緊張が続き、世界はかつてないほど緊迫した核戦争の危機にさらされたが、結局ソ連がミサイル撤去に同意した。穏便な外交手段が効果を発揮した可能性があったにもかかわらずケネディは核の惨事の危険を冒した、という批判もあった。しかし、ほとんどの米国民、そして非共産主義諸国は、ケネディの決断力を称賛した。キューバ・ミサイル危機によって、ケネディ大統領は初めて、西側民主主義諸国のリーダーと認められたのである。
振り返ってみると、キューバ・ミサイル危機は、米ソ関係の転換点であった。この危機によって、米ソ双方が、直接的な軍事衝突につながり得る緊張を緩和する必要性を認識した。翌年、米国、ソビエト連邦、および英国が、大気圏内、宇宙空間、および水中における核兵器実験を禁止する画期的な部分的核実験禁止条約に調印した。
第2次大戦前はフランスの領地であったインドシナ半島(ベトナム、ラオス、カンボジア)も、冷戦の戦場となった。フランスはインドシナにおける植民地支配を回復しようとしたが、ベトナムの共産主義者ホー・チ・ミンの抵抗に遭った。ホー・チ・ミンの率いるベトミン(ベトナム独立同盟)は、独立を目指してフランス軍とのゲリラ戦争を行った。
トルーマンもアイゼンハワーも、ヨーロッパにおける封じ込め政策に対するフランスの支持を得るために、フランスに財政援助を与え、それによってフランスはベトナムでの闘争に必要な資金を手に入れた。しかし1954年5月、ディエン・ビエン・フーの戦いで、フランス軍は決定的敗北を喫した。ジュネーブで開かれた国際会議で、ラオスとカンボジアに独立が与えられた。ベトナムは分割され、ホー・チ・ミンが北ベトナム、ゴー・ジン・ジェムが南ベトナムの指導者となった。ゴー大統領は、仏教徒が大多数を占める中でローマカトリック教徒の反共産主義者であった。その2年後に南北統一選挙が行われることになっていた。アイゼンハワーは、ベトナムが陥落すればビルマ、タイ、およびインドネシアも陥落すると説得され、1956年に統一選挙を拒否したゴーを支援し、実質的に南ベトナムを米国の保護国とした。
ケネディ大統領は、南ベトナムへの援助を増大し、少数の軍事顧問を派遣したが、南北ベトナム間の新たなゲリラ闘争が続いた。ゴー大統領の人気が下降し、軍事状況は悪化した。1963年後半、ケネディは秘密裏にクーデターを承認した。大統領の意図しなかった結果として、ゴー大統領と義弟のゴー・ジン・ヌーが殺害された。その3週間後、こうした不安定な状況の中で、ケネディ政権は終わりを迎えた。
第2期アイゼンハワー政権中に、宇宙が米ソ競争の場となった。ソ連は1957年に人工衛星スプートニク号を打ち上げ、米国より強力なロケットを作る能力があることを示した。米国は1958年に、米国初の人工衛星エクスプローラ1号を打ち上げた。しかし、ケネディの大統領就任から3カ月後に、ソ連は史上初の有人宇宙飛行を実現させた。これに対してケネディは、「60年代が終わる前に」人類を月に着陸させ地球に帰還させる、と誓った。1962年のマーキュリー計画で、ジョン・グレンが米国人宇宙飛行士として初めて地球周回軌道を飛行した。
ケネディの死後、リンドン・ジョンソン大統領は、きわめて積極的に宇宙計画を支援した。1960年代半ばに、米国の科学者は、2人乗りのジェミニ宇宙船を開発した。ジェミニは、1965年8月、当時としては最長の8日間の宇宙飛行を達成し、1966年11月には、初の自動制御による大気圏再突入を行うなど、いくつかの新記録を達成した。またジェミニは、初の有人宇宙船2台のドッキング、および米国初の宇宙遊泳も実現させた。
3人乗りのアポロ宇宙船はケネディ大統領の目標を達成し、米国の宇宙技術がソ連を超えたことを世界に示した。1969年7月20日、世界中の何億人もの人々がテレビで見守る中、ニール・アームストロングが、人類として初めて月面を歩いた。
その後もアポロ計画は続いたが、多くの米国民は、有人宇宙飛行の価値に疑問を感じ始めた。1970年代初めに、より重要な問題が出現するに伴い、米国は宇宙計画を縮小していった。アポロ計画の一部は中止され、宇宙ステーション「スカイラブ」は、提案されていた2基のうち1基しか建設されなかった。
ジョン・ケネディは、キューバ・ミサイル危機への対応によって世界的に信望を集め、国内でも多大な人気を得ていた。多くの人々が、1964年の大統領選ではケネディが余裕を持って再選されると予想した。しかし、1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問していたケネディ大統領は、オープン・カーで移動中に狙撃され、暗殺された。ケネディの死は、テレビ報道によってその影響が増幅され、18年前のルーズベルト大統領の死と同様、忘れられない衝撃的な出来事となった。
振り返ってみると、ケネディの評判は、政策実績よりも、彼の洗練されたスタイルと雄弁に語られる理想主義によるところが大きかったことは明らかである。ケネディは印象的な政策を掲げたが、彼が死亡した時点において、その多くは連邦議会で阻止されたままであった。ケネディが進歩的な変革の担い手と見なされるようになるのは、彼の後継者の政治的熟練と立法における勝利によるところが大きい。
テキサス州出身のリンドン・ジョンソンは、ケネディ政権で副大統領に就任する以前は、上院多数党院内総務を務めた有能な政治家であった。連邦議会で政治手腕を磨き、事を成し遂げる才能を培った彼は、目的を達成するために必要な、嘆願、巧言、そして威嚇の技術に秀でていた。ジョンソンは、おそらくケネディよりもさらに強いリベラル思想を持っていた。大統領として、彼は、貧困を撲滅し国民全員に富の恩恵を広めるために、自身の権限を行使することを望んだ。
ジョンソンは、ケネディの提出した立法議案を可決させる決意を持って就任した。当面の優先課題は、前大統領の減税法案と公民権保証法案であった。説得の手腕を駆使し、議員たちに、暗殺された前大統領への敬意を促した結果、就任1年目にして両法案の可決に成功した。この減税により経済が活性化された。1964年の公民権法は、その種の法律としては、「再建」時代(南北戦争後の再統合の時代)以来最も広範囲に及ぶ法律であった。
ジョンソンは、その他の問題にも取り組んだ。彼は、1964年の春、自身の社会経済プログラムを「偉大な社会」計画と呼ぶようになった。同年夏、貧困に喘ぐ若者を対象にした連邦雇用プログラムを可決させた。これはいわゆる「貧困撲滅運動」の第1段階であった。同年11月の大統領選で、ジョンソンは、保守派の共和党議員バリー・ゴールドウォーターに圧勝した。1964年の大統領選は、1938年以来初めてリベラル派の民主党が議会の主導権を手にしたという点で、重要な意味があった。これで共和党議員および保守派の南部民主党議員による反対を押し切って法案を可決することが可能となった。
貧困撲滅運動は、同政権の「偉大な社会」の中心的なプログラムとなった。1964年に設置された経済機会局は、貧困層に職業訓練を提供し、また住宅・健康・教育プログラムに関する発言の機会を与えることを目標とした「参加型民主主義」理念に基づいて多様な地域社会活動機関を設置した。
次の課題は医療問題であった。ジョンソンのリーダーシップの下で、高齢者を対象とした医療保険制度メディケア、および貧困層のための医療補助制度メディケイドが議会で承認された。
ジョンソンはまた、従来、州および地方の責任であった初等・中等教育に対して、連邦援助を増加させようと努力し、成果をあげた。このようにして成立した政策により、低所得層の子どもの数に基づき、それぞれの州に援助が提供された。この資金は公立・私立学校の児童・生徒の援助に使用することができた。
「偉大な社会」の推進者たちは、米国が、都市部の荒廃に象徴される「都市の危機」に直面していると確信し、貧困層に家賃助成を行う新しい住宅法を立案し、住宅・都市開発省が設立された。
他の法案も米国の生活のさまざまな側面に影響を及ぼした。芸術家や学者の活動を奨励する連邦補助が実施された。1966年9月には、2つの運輸関連法案が可決された。ひとつは、州・地方政府による安全計画の資金を提供し、もうひとつの法案は、自動車・タイヤの連邦安全基準を制定した。後者のプログラムは、若手急進派の活動家ラルフ・ネーダーの努力の成果であった。彼は、1965年の著書「Unsafe at Any Speed: The Designed-In Dangers of the American Automobile」(邦訳「どんなスピードでも自動車は危険だ」ダイヤモンド社)で、自動車メーカーはスタイルのために安全機能を犠牲にしており、工学上の欠陥が高速道路での死亡事故の原因であると主張した。
1965年に議会は、1924年に制定された、差別的な、出身国別移民割当を廃止した。これは、主として東南アジアおよび中南米からの新しい移民の波につながった。
「偉大な社会」計画によって、ニューディール政策以来、最も活発な立法活動が行われた。だが、支援の勢いは、1966年には早くも減速してしまった。ジョンソンのプログラムの中には、期待外れとなったものもあった。その多くは資金不足によるものであった。また、都市の危機は悪化したかのように見えた。しかし、「偉大な社会」計画による支出増によるものか、あるいは強力な経済急騰によるものかは不明であるものの、ジョンソン政権時代には貧困が少なくとも多少は減少した。
「偉大な社会」に対する不満は、ベトナム戦況に対する不満に比べれば小さなものであった。ゴー・ジン・ジェムに続く南ベトナムの独裁者たちは、国民を結集するという面では、ほとんど前任者をしのぐことができなかった。北ベトナムから送り込まれ、その指揮下にあった反乱分子であるベトコンが、田園地帯を占拠した。
共産主義者による南ベトナム侵攻を必死に食い止めようとしたジョンソンは、思い通りにベトナム戦争を遂行するようになった。北ベトナムの海軍が米駆逐艦2隻を攻撃したことを受け、1964年8月7日には、「米国軍部への武装攻撃を撃退し、さらなる攻撃を防止するために、必要なあらゆる対策を講じる」ことを大統領に許可する「トンキン湾決議」が議会で可決された。ジョンソンは、1964年11月の再選後、拡大政策を開始した。1965年の戦争開始時には2万5000人だった兵士が、1968年には、志願兵・徴兵者を合わせ50万人に増えた。爆撃作戦が、南北ベトナムに大被害をもたらした。
テレビは戦争の陰惨な場面を報道して批判的な見解を示し、戦争に対する支持を鈍らせた。この戦争をモラルに反すると考える米国民がいた一方で、大規模な軍事作戦が効を奏さないことに失望する人たちもいた。若者を中心とした大規模な反戦運動と、国民の不満の高まりに押され、ジョンソンは和平交渉を開始した。
1968年には、ベトナム戦争と社会的騒乱をめぐって、米国は動揺していた。そうした騒乱は、アフリカ系米国人の怒りを反映した都市部の暴動として現れた。1968年3月31日、ジョンソン大統領は2期目の再選を断念した。ちょうどその1週間後にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアがテネシー州メンフィスで狙撃され、死亡した。ジョン・ケネディの弟ロバート・ケネディが、民主党大統領候補指名を目指し、感情に訴える反戦運動を行っていたが、彼も6月に暗殺された。
イリノイ州シカゴで開催された民主党大会では、抗議集会の参加者たちが市街で警官隊と衝突した。内部で分裂した民主党は、かつてのリベラル派のヒーローであり、このころにはジョンソン忠誠派と見られていたヒューバート・ハンフリー副大統領を指名した。60年代の公民権政策に反対する白人層は、アラバマ州のジョージ・ウォレス州知事を第3党の候補者に立て、活発な選挙運動を行った。ウォレスは民主党員で、当時は従来民主党候補が勝利を収めていた、地元のアラバマ州、ミシシッピ州、アーカンソー州、ルイジアナ州、ジョージア州を獲得した。大統領選では、米国を戦争から救い出し、国内の「法と秩序」を改善する政策を掲げて立候補した、共和党候補のリチャード・ニクソンが、僅差で勝利した。
「栄誉ある平和」の実現を決意したニクソンは、米軍を徐々に撤退させ、南ベトナム軍が戦いを続行するための装備支援を倍加した。彼はまた米軍の強力な攻撃を命じた。この中で最も重要な意味を持ったのは、北ベトナム軍の南ベトナムへの補給線を断つことを目的とした、1970年のカンボジア侵攻であった。これに対して、米国内では再び抗議とデモが続いた。多くの大学で学生が街頭デモを展開した。オハイオ州のケント・ステート大学では、秩序を回復する目的で召集された州兵がパニック状態に陥り、学生4人を殺害した。
1972年秋には、ベトナムの米軍兵力は5万人以下となり、学生の間で大きな不満を起こした徴兵制は事実上廃止された。1973年に、ニクソン政権の国家安全保障問題担当補佐官ヘンリー・キッシンジャーが交渉した停戦協定が調印された。米軍は撤退したものの、この戦争は議会が南ベトナムへの援助を打ち切り、北ベトナムがベトナム全土を掌握した1975年の春まで続いた。
戦争はベトナムを荒廃させ、ベトナム人数百万人が重い傷害を負ったり殺されたりした。この戦争は、米国にも精神的なショックを与えた。米国は、1500億ドル以上を勝ち目のない戦いに費やし、5万8000人を上回る犠牲者を出した。米国人はもはや、広く受け入れられていた冷戦というコンセンサスによる結び付きを失い、さらなる外交上の紛糾を警戒するようになった。
しかし、ベトナム戦争が終結しつつある中で、ニクソン政権は共産主義大国とのより緊密な関係に向けて歴史的な1歩を踏み出した。最も劇的な動きは、中華人民共和国との新たな関係であった。毛沢東の勝利から20年間、米国は、台湾の国民党政府が中国すべてを代表すると主張してきた。1971年および1972年に、ニクソンは米国の立場を軟化させ、貿易規制を緩和し、また米国大統領として初めて中国を訪問した。この中国訪問中に調印された「上海コミュニケ」は、「中国はひとつであり、台湾は中国の一部である。この紛争に関しては、中国自身による平和的な解決が、米国の国益となる」という新しい米国の方針を打ち出した。
ソ連に対しては、ニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー国務長官と共にデタント(緊張緩和)と呼んだ政策を推進し、ここでも成功を収めた。ニクソンは数回にわたりソ連の指導者レオニード・ブレジネフ書記長と友好的な対談を開き、ミサイル保有制限、宇宙開発協力、および通商規制緩和に合意した。1972年には、核兵器増強および対弾道弾迎撃ミサイル・システムを制限する軍縮合意として、戦略兵器制限交渉(SALT)が妥結した。
ニクソンは、1960年の大統領選に敗北する以前は、アイゼンハワー政権下で副大統領を務め、米政治家の中でも、最もやり手の政治家と見られていた。彼は、財政責任に関しては共和党の価値観を支持していたが、政府の拡大した役割の必要性を受け入れ、福祉国家の基本的な枠組みには反対しなかった。ただ彼は、そうした制度の運用の改善を望んだ。原則的にはアフリカ系米国人の公民権に反対ではなかったが、公民権を扱う連邦政府の大規模な官僚機構には、警戒の目を向けていた。とはいえ、ニクソン政権は、南部の白人有権者の機嫌を伺いながらも、教育の人種分離廃止を実施するため、裁判所命令を精力的に執行した。
おそらく、ニクソンの最大の国内問題は経済であった。彼は、ジョンソン政権下のベトナム景気以降の景気低迷と、戦争の副産物として継続的に押し寄せるインフレの波を受け継いでいた。これに対処するため、ニクソンはまず、共和党大統領として初めて、経済を刺激する手段として赤字財政支出を是認し、次に、1971年には、保守派の長期的な信念に反して賃金と価格を統制する政策を導入した。短期的には、このような決断が経済を安定させ、1972年の再選に有利な条件を生んだ。ニクソンは、平和主義のジョージ・マクガバン民主党上院議員に圧勝した。
しかし、ニクソン大統領の2期目には、状況が急速に悪化し始めた。かなり早い時期に、ニクソン再選委員会が、民主党全国委員会の本部のあるウォーターゲート・ビルに不法侵入したという告発、そしてニクソンがその隠蔽に関与したという告発を受けた。以後、その在任期間中、ニクソンは特別検察官と議会委員会に悩まされた。
ニクソンの制御しきれない要因が経済政策を揺るがした。1973年に、イスラエル・エジプト・シリア間の戦争が原因で、サウジアラビアが、イスラエルの同盟国である米国への原油輸出を停止した。石油輸出国機構(OPEC)加盟国は、原油価格を4倍に吊り上げた。米国民は、石油流通の過剰規制が原因で悪化したとされる石油不足と、急激な価格の高騰に直面した。翌年、輸出停止が解除された後も、石油価格は高値が続き、米国の経済生活のあらゆる側面に影響を及ぼした。1974年には、インフレ率が12%に達して混乱を招き、失業率がさらに上昇した。1948年以来続いた米国の好景気は、徐々に停止していった。
犯罪率の上昇、麻薬使用の増加、そして性に対するより自由放任的な考えに直面する中、「法と秩序」の必要性を説くニクソンの弁舌は、多くの国民の共感を呼んだ。しかしそれは、ウォーターゲート侵入事件と経済問題に対する懸念を抑えるには十分ではなかった。ニクソンは、自身の政治支持基盤の活性化と拡大を図るため、デモ参加者を痛烈に非難し、歪められた報道をしたとしてマスコミを攻撃し、反対する者を沈黙させようとしたが、それをテレビで見た大勢の人に好ましくない印象を与え、彼自身が情緒不安定であると見なされた。ニクソンにとってさらに悪いことに、マスコミとリベラル派に対抗する率直な意見で知られたスピロ・アグニュー副大統領が、脱税の刑事責任を問われて「罪を容認」し、1973年に辞任を余儀なくされた。
ニクソンは、おそらくウォーターゲート侵入事件について事前には知らなかったと思われるが、これを隠蔽しようとして、国民を欺いた。彼の関与を示す証拠が増えていき、1974年7月27日、下院司法委員会は弾劾を勧告する可決をした。確実となった解任を目前にして、ニクソンは1974年8月9日に辞任した。
ニクソンの副大統領だったジェラルド・フォード(アグニューの後任者として就任)は、公務生活の大半を議会で過ごした気さくな人物であった。彼の最優先事項は、政府の信用回復であった。しかし、フォードは、ニクソンの起訴がもたらす騒動を回避する必要があると考え、前大統領に対して全面的な恩赦を与えた。この措置は、おそらく必要なことであったが、国民には不評であった。
公共政策では、フォードはニクソンの路線を継承した。経済問題は依然として深刻であり、インフレと失業が増加を続けた。フォードはまず、ハーバート・フーバーが1929年に行ったように、国民を安心させることに努めた。これが失敗すると、インフレ抑制対策を実施したが、失業率は8%以上に跳ね上がった。減税と失業手当ての引き上げは、多少の効果を上げたが、経済は依然として軟調であった。
外交政策面では、フォード大統領はニクソンのデタント路線を採用した。その主な例として、米国と西欧諸国が、ソ連による人権尊重の確約と引き換えに、東欧におけるソ連の主導権を事実上認めた、1975年のヘルシンキ条約が挙げられる。この合意は当面の重要性はなかったものの、長期的には、ソビエト帝国の維持を困難にした可能性がある。西側諸国は、定期的に「ヘルシンキ条約検討会議」を有効に活用し、東欧圏の共産主義政権による人権侵害に注意を促した。
元ジョージア州知事のジミー・カーターは、1976年に大統領選に勝利した。選挙運動中は、ワシントンの政治の部外者であることを強調し、国政に対する斬新なアプローチを約束したが、全国レベルでの経験不足から、カーターの政権運営はスタートから難航した。海軍将校であり、工学部出身であったカーターは、テクノクラート(技術官僚)と見られることが多かったが、米国民は、困難な時代をリードする明確なビジョンを持った指導者を求めていた。
経済問題では、カーターは当初、赤字財政政策を容認した。インフレは年率10%に上昇し、金融政策をつかさどる連邦準備制度委員会は、赤字を補うために、通貨供給を増加した。これに対して、カーターは予算を削減したが、この予算削減は、民主党の国内政策の要である社会保障制度に影響を及ぼした。1979年半ば、憤慨した金融界は、カーターに対し、ポール・ボルカーを連邦準備制度理事会議長に任命することを事実上強要した。ボルカーは、「インフレ・タカ派」であり、経済にマイナスの結果を招くことを承知で、価格上昇に歯止めをかけるため金利の引き上げを行った。
カーターはまた、効果的なエネルギー政策に関して議会の賛成を得られなかったことでも批判を受けた。輸入石油への依存削減を目指す「moral equivalent of war(戦争に代わる道徳的行為)」と呼ばれた包括的プログラムを提示したが、これは議会で阻止された。
カーターは自らをポピュリストと呼んだが、彼の政治的優先事項は明確ではなかった。政府の保護的な役割を支持する一方で、経済生活における政府の規制を排除するための、規制撤廃のプロセスを開始した。彼は、過去1世紀にわたる規制が、競争を制限し消費者コストを吊り上げたと主張し、原油、航空会社、鉄道、トラック運送業界の自由化を支持した。
カーターの政治的努力は、国民にも議会にも支持されなかった。任期終了時には、不支持率は77%にまで達し、国民は再び共和党に目を向けるようになっていた。
カーター大統領の外交政策の最大の功績は、アンワール・サダト政権下のエジプトと、メナヘム・ベギン政権下のイスラエルとの和平調停であった。カーターは、調停者として、また参加者としての役割を果たし、30年続いた戦争状態に終止符を打つよう、この2人の指導者を説得した。その結果として、1979年3月に平和条約がホワイトハウスで調印された。
また、長期化した感情的な議論の末、カーターは、2000年までにパナマ運河をパナマに返還する条約を上院に批准させた。またニクソンよりさらに前進し、中華人民共和国を正式に承認した。
しかし、カーターの対ソ連外交はあまり成功しなかった。彼は、デタント政策のピーク時に大統領に就任し、米国は「共産主義に対する過度の恐れ」を回避した、と宣言したにもかかわらず、「人権に対するわれわれのコミットメントは絶対的なものでなければならない」と強く主張して、ソ連政府の反感を買った。さらに核兵器の保有を制限することを求めたSALT II条約が調印されたが、米上院議員の多くは、この条約は不均等なものであると考え、これを批准しなかった。1979年には、ソ連のアフガニスタン侵攻によって、この条約は否決され、さらには1980年代の多額な防衛支出の下地となったカーター政権の軍備力増強につながった。
カーターの外交政策上、最も深刻な問題は、イランで起こった。シーア派イスラム指導者のルホラー・ホメイニ師の主導するイスラム原理主義革命が、腐敗していたが親米であった政権を倒した後、カーターは、国外退去したイラン国王が病気治療のため米国へ入国することを許可した。これに憤慨したイランの過激派は、イスラム政権の支持を受け、テヘランの米国大使館を占拠し、53人の米国人を1年間以上人質に取った。長期に及んだ人質事件は、最重要課題としてカーター大統領の任期最後の1年に暗い影を落とし、再選の可能性に大きなダメージを与えた。
Decades of Change - 1960-1980
“I have a dream that one day on the red hills of Georgia, sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.”
– Martin Luther King Jr., 1963
By 1960, the United States was on the verge of a major social change. American society had always been more open and fluid than that of the nations in most of the rest of the world. Still, it had been dominated primarily by old-stock, white males. During the 1960s, groups that previously had been submerged or subordinate began more forcefully and successfully to assert themselves: African Americans, Native Americans, women, the white ethnic offspring of the “new immigration,” and Latinos. Much of the support they received came from a young population larger than ever, making its way through a college and university system that was expanding at an unprecedented pace. Frequently embracing “countercultural” life styles and radical politics, many of the offspring of the World War II generation emerged as advocates of a new America characterized by a cultural and ethnic pluralism that their parents often viewed with unease.
THE CIVIL RIGHTS MOVEMENT, 1960-1980
The struggle of African Americans for equality reached its peak in the mid-1960s. After progressive victories in the 1950s, African Americans became even more committed to nonviolent direct action. Groups like the Southern Christian Leadership Conference (SCLC), made up of African-American clergy, and the Student Nonviolent Coordinating Committee (SNCC), composed of younger activists, sought reform through peaceful confrontation.
In 1960 African-American college students sat down at a segregated Woolworth’s lunch counter in North Carolina and refused to leave. Their sit-in captured media attention and led to similar demonstrations throughout the South. The next year, civil rights workers organized “freedom rides,” in which African Americans and whites boarded buses heading south toward segregated terminals, where confrontations might capture media attention and lead to change.
They also organized rallies, the largest of which was the “March on Washington” in 1963. More than 200,000 people gathered in the nation’s capital to demonstrate their commitment to equality for all. The high point of a day of songs and speeches came with the address of Martin Luther King Jr., who had emerged as the preeminent spokesman for civil rights. “I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood,” King proclaimed. Each time he used the refrain “I have a dream,” the crowd roared.
The level of progress initially achieved did not match the rhetoric of the civil rights movement. President Kennedy was initially reluctant to press white Southerners for support on civil rights because he needed their votes on other issues. Events, driven by African Americans themselves, forced his hand. When James Meredith was denied admission to the University of Mississippi in 1962 because of his race, Kennedy sent federal troops to uphold the law. After protests aimed at the desegregation of Birmingham, Alabama, prompted a violent response by the police, he sent Congress a new civil rights bill mandating the integration of public places. Not even the March on Washington, however, could extricate the measure from a congressional committee, where it was still bottled up when Kennedy was assassinated in 1963.
President Lyndon B. Johnson was more successful. Displaying negotiating skills he had so frequently employed during his years as Senate majority leader, Johnson persuaded the Senate to limit delaying tactics preventing a final vote on the sweeping Civil Rights Act of 1964, which outlawed discrimination in all public accommodations. The next year’s Voting Rights Act of 1965 authorized the federal government to register voters where local officials had prevented African Americans from doing so. By 1968 a million African Americans were registered in the deep South. Nationwide, the number of African-American elected officials increased substantially. In 1968, the Congress passed legislation banning discrimination in housing.
Once unleashed, however, the civil rights revolution produced leaders impatient with both the pace of change and the goal of channeling African Americans into mainstream white society. Malcolm X, an eloquent activist, was the most prominent figure arguing for African-American separation from the white race. Stokely Carmichael, a student leader, became similarly disillusioned by the notions of nonviolence and interracial cooperation. He popularized the slogan “black power,” to be achieved by “whatever means necessary,” in the words of Malcolm X.
Violence accompanied militant calls for reform. Riots broke out in several big cities in 1966 and 1967. In the spring of 1968, Martin Luther King Jr. fell before an assassin’s bullet. Several months later, Senator Robert Kennedy, a spokesman for the disadvantaged, an opponent of the Vietnam War, and the brother of the slain president, met the same fate. To many these two assassinations marked the end of an era of innocence and idealism. The growing militancy on the left, coupled with an inevitable conservative backlash, opened a rift in the nation’s psyche that took years to heal.
By then, however, a civil rights movement supported by court decisions, congressional enactments, and federal administrative regulations was irreversibly woven into the fabric of American life. The major issues were about implementation of equality and access, not about the legality of segregation or disenfranchisement. The arguments of the 1970s and thereafter were over matters such as busing children out of their neighborhoods to achieve racial balance in metropolitan schools or about the use of “affirmative action.” These policies and programs were viewed by some as active measures to ensure equal opportunity, as in education and employment, and by others as reverse discrimination.
The courts worked their way through these problems with decisions that were often inconsistent. In the meantime, the steady march of African Americans into the ranks of the middle class and once largely white suburbs quietly reflected a profound demographic change.
THE WOMEN’S MOVEMENT
During the 1950s and 1960s, increasing numbers of married women entered the labor force, but in 1963 the average working woman earned only 63 percent of what a man made. That year Betty Friedan published The Feminine Mystique, an explosive critique of middle-class living patterns that articulated a pervasive sense of discontent that Friedan contended was felt by many women. Arguing that women often had no outlets for expression other than “finding a husband and bearing children,” Friedan encouraged her readers to seek new roles and responsibilities and to find their own personal and professional identities, rather than have them defined by a male-dominated society.
The women’s movement of the 1960s and 1970s drew inspiration from the civil rights movement. It was made up mainly of members of the middle class, and thus partook of the spirit of rebellion that affected large segments of middle-class youth in the 1960s.
Reform legislation also prompted change. During debate on the 1964 Civil Rights bill, opponents hoped to defeat the entire measure by proposing an amendment to outlaw discrimination on the basis of gender as well as race. First the amendment, then the bill itself, passed, giving women a valuable legal tool.
In 1966, 28 professional women, including Friedan, established the National Organization for Women (NOW) “to take action to bring American women into full participation in the mainstream of American society now.” While NOW and similar feminist organizations boast of substantial memberships today, arguably they attained their greatest influence in the early 1970s, a time that also saw the journalist Gloria Steinem and several other women found Ms. magazine. They also spurred the formation of counter-feminist groups, often led by women, including most prominently the political activist Phyllis Schlafly. These groups typically argued for more “traditional” gender roles and opposed the proposed “Equal Rights” constitutional amendment.
Passed by Congress in 1972, that amendment declared in part, “Equality of rights under the law shall not be denied or abridged by the United States or by any State on account of sex.” Over the next several years, 35 of the necessary 38 states ratified it. The courts also moved to expand women’s rights. In 1973 the Supreme Court in Roe v. Wade sanctioned women’s right to obtain an abortion during the early months of pregnancy – seen as a significant victory for the women’s movement – but Roe also spurred the growth of an anti-abortion movement.
In the mid- to late-1970s, however, the women’s movement seemed to stagnate. It failed to broaden its appeal beyond the middle class. Divisions arose between moderate and radical feminists. Conservative opponents mounted a campaign against the Equal Rights Amendment, and it died in 1982 without gaining the approval of the 38 states needed for ratification.
THE LATINO MOVEMENT
In post-World War II America, Americans of Mexican and Puerto Rican descent had faced discrimination. New immigrants, coming from Cuba, Mexico, and Central America – often unskilled and unable to speak English – suffered from discrimination as well. Some Hispanics worked as farm laborers and at times were cruelly exploited while harvesting crops; others gravitated to the cities, where, like earlier immigrant groups, they encountered difficulties in their quest for a better life.
Chicanos, or Mexican-Americans, mobilized in organizations like the radical Asociación Nacional Mexico-Americana, yet did not become confrontational until the 1960s. Hoping that Lyndon Johnson’s poverty program would expand opportunities for them, they found that bureaucrats failed to respond to less vocal groups. The example of black activism in particular taught Hispanics the importance of pressure politics in a pluralistic society.
The National Labor Relations Act of 1935 had excluded agricultural workers from its guarantee of the right to organize and bargain collectively. But César Chávez, founder of the overwhelmingly Hispanic United Farm Workers, demonstrated that direct action could achieve employer recognition for his union. California grape growers agreed to bargain with the union after Chávez led a nationwide consumer boycott. Similar boycotts of lettuce and other products were also successful. Though farm interests continued to try to obstruct Chávez’s organization, the legal foundation had been laid for representation to secure higher wages and improved working conditions.
Hispanics became politically active as well. In 1961 Henry B. González won election to Congress from Texas. Three years later Eligio (“Kika”) de la Garza, another Texan, followed him, and Joseph Montoya of New Mexico went to the Senate. Both González and de la Garza later rose to positions of power as committee chairmen in the House. In the 1970s and 1980s, the pace of Hispanic political involvement increased. Several prominent Hispanics have served in the Bill Clinton and George W. Bush cabinets.
THE NATIVE-AMERICAN MOVEMENT
In the 1950s, Native Americans struggled with the government’s policy of moving them off reservations and into cities where they might assimilate into mainstream America. Many of the uprooted often had difficulties adjusting to urban life. In 1961, when the policy was discontinued, the U.S. Commission on Civil Rights noted that, for Native Americans, “poverty and deprivation are common.”
In the 1960s and 1970s, watching both the development of Third World nationalism and the progress of the civil rights movement, Native Americans became more aggressive in pressing for their own rights. A new generation of leaders went to court to protect what was left of tribal lands or to recover those which had been taken, often illegally, in previous times. In state after state, they challenged treaty violations, and in 1967 won the first of many victories guaranteeing long-abused land and water rights. The American Indian Movement (AIM), founded in 1968, helped channel government funds to Native-American-controlled organizations and assisted neglected Native Americans in the cities.
Confrontations became more common. In 1969 a landing party of 78 Native Americans seized Alcatraz Island in San Francisco Bay and held it until federal officials removed them in 1971. In 1973 AIM took over the South Dakota village of Wounded Knee, where soldiers in the late 19th century had massacred a Sioux encampment. Militants hoped to dramatize the poverty and alcoholism in the reservation surrounding the town. The episode ended after one Native American was killed and another wounded, with a government agreement to re-examine treaty rights.
Still, Native-American activism brought results. Other Americans became more aware of Native-American needs. Government officials responded with measures including the Education Assistance Act of 1975 and the 1996 Native-American Housing and Self-Determination Act. The Senate’s first Native-American member, Ben Nighthorse Campbell of Colorado, was elected in 1992.
THE COUNTERCULTURE
The agitation for equal opportunity sparked other forms of upheaval. Young people in particular rejected the stable patterns of middle-class life their parents had created in the decades after World War II. Some plunged into radical political activity; many more embraced new standards of dress and sexual behavior.
The visible signs of the counterculture spread through parts of American society in the late 1960s and early 1970s. Hair grew longer and beards became common. Blue jeans and tee shirts took the place of slacks, jackets, and ties. The use of illegal drugs increased. Rock and roll grew, proliferated, and transformed into many musical variations. The Beatles, the Rolling Stones, and other British groups took the country by storm. “Hard rock” grew popular, and songs with a political or social commentary, such as those by singer‑songwriter Bob Dylan, became common. The youth counterculture reached its apogee in August 1969 at Woodstock, a three‑day music festival in rural New York State attended by almost half-a-million persons. The festival, mythologized in films and record albums, gave its name to the era, the Woodstock Generation.
A parallel manifestation of the new sensibility of the young was the rise of the New Left, a group of young, college-age radicals. The New Leftists, who had close counterparts in Western Europe, were in many instances the children of the older generation of radicals. Nonetheless, they rejected old-style Marxist rhetoric. Instead, they depicted university students as themselves an oppressed class that possessed special insights into the struggle of other oppressed groups in American society.
New Leftists participated in the civil rights movement and the struggle against poverty. Their greatest success – and the one instance in which they developed a mass following – was in opposing the Vietnam War, an issue of emotional interest to their draft-age contemporaries. By the late 1970s, the student New Left had disappeared, but many of its activists made their way into mainstream politics.
ENVIRONMENTALISM
The energy and sensibility that fueled the civil rights movement, the counterculture, and the New Left also stimulated an environmental movement in the mid-1960s. Many were aroused by the publication in 1962 of Rachel Carson’s book Silent Spring, which alleged that chemical pesticides, particularly DDT, caused cancer, among other ills. Public concern about the environment continued to increase throughout the 1960s as many became aware of other pollutants surrounding them – automobile emissions, industrial wastes, oil spills – that threatened their health and the beauty of their surroundings. On April 22, 1970, schools and communities across the United States celebrated Earth Day for the first time. “Teach‑ins” educated Americans about the dangers of environmental pollution.
Few denied that pollution was a problem, but the proposed solutions involved expense and inconvenience. Many believed these would reduce the economic growth upon which many Americans’ standard of living depended. Nevertheless, in 1970, Congress amended the Clean Air Act of 1967 to develop uniform national air-quality standards. It also passed the Water Quality Improvement Act, which assigned to the polluter the responsibility of cleaning up off-shore oil spills. Also, in 1970, the Environmental Protection Agency (EPA) was created as an independent federal agency to spearhead the effort to bring abuses under control. During the next three decades, the EPA, bolstered by legislation that increased its authority, became one of the most active agencies in the government, issuing strong regulations covering air and water quality.
KENNEDY AND THE RESURGENCE OF BIG GOVERNMENT LIBERALISM
By 1960 government had become an increasingly powerful force in people’s lives. During the Great Depression of the 1930s, new executive agencies were created to deal with many aspects of American life. During World War II, the number of civilians employed by the federal government rose from one million to 3.8 million, then stabilized at 2.5 million in the 1950s. Federal expenditures, which had stood at $3,100-million in 1929, increased to $75,000-million in 1953 and passed $150,000-million in the 1960s.
Most Americans accepted government’s expanded role, even as they disagreed about how far that expansion should continue. Democrats generally wanted the government to ensure growth and stability. They wanted to extend federal benefits for education, health, and welfare. Many Republicans accepted a level of government responsibility, but hoped to cap spending and restore a larger measure of individual initiative. The presidential election of 1960 revealed a nation almost evenly divided between these visions.
John F. Kennedy, the Democratic victor by a narrow margin, was at 43 the youngest man ever to win the presidency. On television, in a series of debates with opponent Richard Nixon, he appeared able, articulate, and energetic. In the campaign, he spoke of moving aggressively into the new decade, for “the New Frontier is here whether we seek it or not.” In his first inaugural address, he concluded with an eloquent plea: “Ask not what your country can do for you – ask what you can do for your country.” Throughout his brief presidency, Kennedy’s special combination of grace, wit, and style – far more than his specific legislative agenda – sustained his popularity and influenced generations of politicians to come.
Kennedy wanted to exert strong leadership to extend economic benefits to all citizens, but a razor‑thin margin of victory limited his mandate. Even though the Democratic Party controlled both houses of Congress, conservative Southern Democrats often sided with the Republicans on issues involving the scope of governmental intervention in the economy. They resisted plans to increase federal aid to education, provide health insurance for the elderly, and create a new Department of Urban Affairs. And so, despite his lofty rhetoric, Kennedy’s policies were often limited and restrained.
One priority was to end the recession, in progress when Kennedy took office, and restore economic growth. But Kennedy lost the confidence of business leaders in 1962, when he succeeded in rolling back what the administration regarded as an excessive price increase in the steel industry. Though the president achieved his immediate goal, he alienated an important source of support. Persuaded by his economic advisers that a large tax cut would stimulate the economy, Kennedy backed a bill providing for one. Conservative opposition in Congress, however, appeared to destroy any hopes of passing a bill most congressmen thought would widen the budget deficit.
The overall legislative record of the Kennedy administration was meager. The president made some gestures toward civil rights leaders but did not embrace the goals of the civil rights movement until demonstrations led by Martin Luther King Jr. forced his hand in 1963. Like Truman before him, he could not secure congressional passage of federal aid to public education or for a medical care program limited to the elderly. He gained only a modest increase in the minimum wage. Still, he did secure funding for a space program, and established the Peace Corps to send men and women overseas to assist developing countries in meeting their own needs.
KENNEDY AND THE COLD WAR
President Kennedy came into office pledged to carry on the Cold War vigorously, but he also hoped for accommodation and was reluctant to commit American power. During his first year-and-a-half in office, he rejected American intervention after the CIA-guided Cuban exile invasion at the Bay of Pigs failed, effectively ceded the landlocked Southeast Asian nation of Laos to Communist control, and acquiesced in the building of the Berlin Wall. Kennedy’s decisions reinforced impressions of weakness that Soviet Premier Nikita Khrushchev had formed in their only personal meeting, a summit meeting at Vienna in June 1961.
It was against this backdrop that Kennedy faced the most serious event of the Cold War, the Cuban missile crisis.
In the fall of 1962, the administration learned that the Soviet Union was secretly installing offensive nuclear missiles in Cuba. After considering different options, Kennedy decided on a quarantine to prevent Soviet ships from bringing additional supplies to Cuba. He demanded publicly that the Soviets remove the weapons and warned that an attack from that island would bring retaliation against the USSR. After several days of tension, during which the world was closer than ever before to nuclear war, the Soviets agreed to remove the missiles. Critics charged that Kennedy had risked nuclear disaster when quiet diplomacy might have been effective. But most Americans and much of the non-Communist world applauded his decisiveness. The missile crisis made him for the first time the acknowledged leader of the democratic West.
In retrospect, the Cuban missile crisis marked a turning point in U.S.-Soviet relations. Both sides saw the need to defuse tensions that could lead to direct military conflict. The following year, the United States, the Soviet Union, and Great Britain signed a landmark Limited Test Ban Treaty prohibiting nuclear weapons tests in the atmosphere.
Indochina (Vietnam, Laos, Cambodia), a French possession before World War II, was still another Cold War battlefield. The French effort to reassert colonial control there was opposed by Ho Chi Minh, a Vietnamese Communist, whose Viet Minh movement engaged in a guerrilla war with the French army.
Both Truman and Eisenhower, eager to maintain French support for the policy of containment in Europe, provided France with economic aid that freed resources for the struggle in Vietnam. But the French suffered a decisive defeat in Dien Bien Phu in May
1954. At an international conference in Geneva, Laos and Cambodia were given their independence. Vietnam was divided, with Ho in power in the North and Ngo Dinh Diem, a Roman Catholic anti-Communist in a largely Buddhist population, heading the government in the South. Elections were to be held two years later to unify the country. Persuaded that the fall of Vietnam could lead to the fall of Burma, Thailand, and Indonesia, Eisenhower backed Diem’s refusal to hold elections in 1956 and effectively established South Vietnam as an American client state.
Kennedy increased assistance, and sent small numbers of military advisors, but a new guerrilla struggle between North and South continued. Diem’s unpopularity grew and the military situation worsened. In late 1963, Kennedy secretly assented to a coup d’etat. To the president’s surprise, Diem and his powerful brother-in-law, Ngo Dien Nu, were killed. It was at this uncertain juncture that Kennedy’s presidency ended three weeks later.
THE SPACE PROGRAM
During Eisenhower’s second term, outer space had become an arena for U.S.-Soviet competition. In 1957, the Soviet Union launched Sputnik – an artificial satellite – thereby demonstrating it could build more powerful rockets than the United States. The United States launched its first satellite, Explorer I, in 1958. But three months after Kennedy became president, the USSR put the first man in orbit. Kennedy responded by committing the United States to land a man on the moon and bring him back “before this decade is out.” With Project Mercury in 1962, John Glenn became the first U.S. astronaut to orbit the Earth.
After Kennedy’s death, President Lyndon Johnson enthusiastically supported the space program. In the mid-1960s, U.S. scientists developed the two-person Gemini spacecraft. Gemini achieved several firsts, including an eight‑day mission in August 1965 – the longest space flight at that time – and in November 1966, the first automatically controlled reentry into the Earth’s atmosphere. Gemini also accomplished the first manned linkup of two spacecraft in flight as well as the first U.S. walks in space.
The three-person Apollo spacecraft achieved Kennedy’s goal and demonstrated to the world that the United States had surpassed Soviet capabilities in space. On July 20, 1969, with hundreds of millions of television viewers watching around the world, Neil Armstrong became the first human to walk on the surface of the moon.
Other Apollo flights followed, but many Americans began to question the value of manned space flight. In the early 1970s, as other priorities became more pressing, the United States scaled down the space program. Some Apollo missions were scrapped; only one of two proposed Skylab space stations was built.
DEATH OF A PRESIDENT
John Kennedy had gained world prestige by his management of the Cuban missile crisis and had won great popularity at home. Many believed he would win re-election easily in 1964. But on November 22, 1963, he was assassinated while riding in an open car during a visit to Dallas, Texas. His death, amplified by television coverage, was a traumatic event, just as Roosevelt’s had been 18 years earlier.
In retrospect, it is clear that Kennedy’s reputation stems more from his style and eloquently stated ideals than from the implementation of his policies. He had laid out an impressive agenda but at his death much remained blocked in Congress. It was largely because of the political skill and legislative victories of his successor that Kennedy would be seen as a force for progressive change.
LYNDON JOHNSON AND THE GREAT SOCIETY
Lyndon Johnson, a Texan who was majority leader in the Senate before becoming Kennedy’s vice president, was a masterful politician. He had been schooled in Congress, where he developed an extraordinary ability to get things done. He excelled at pleading, cajoling, or threatening as necessary to achieve his ends. His liberal idealism was probably deeper than Kennedy’s. As president, he wanted to use his power aggressively to eliminate poverty and spread the benefits of prosperity to all.
Johnson took office determined to secure the passage of Kennedy’s legislative agenda. His immediate priorities were his predecessor’s bills to reduce taxes and guarantee civil rights. Using his skills of persuasion and calling on the legislators’ respect for the slain president, Johnson succeeded in gaining passage of both during his first year in office. The tax cuts stimulated the economy. The Civil Rights Act of 1964 was the most far-reaching such legislation since Reconstruction.
Johnson addressed other issues as well. By the spring of 1964, he had begun to use the name “Great Society” to describe his socio-economic program. That summer he secured passage of a federal jobs program for impoverished young people. It was the first step in what he called the “War on Poverty.” In the presidential election that November, he won a landslide victory over conservative Republican Barry Goldwater. Significantly, the 1964 election gave liberal Democrats firm control of Congress for the first time since 1938. This would enable them to pass legislation over the combined opposition of Republicans and conservative Southern Democrats.
The War on Poverty became the centerpiece of the administration’s Great Society program. The Office of Economic Opportunity, established in 1964, provided training for the poor and established various community-action agencies, guided by an ethic of “participatory democracy” that aimed to give the poor themselves a voice in housing, health, and education programs.
Medical care came next. Under Johnson’s leadership, Congress enacted Medicare, a health insurance program for the elderly, and Medicaid, a program providing health-care assistance for the poor.
Johnson succeeded in the effort to provide more federal aid for elementary and secondary schooling, traditionally a state and local function. The measure that was enacted gave money to the states based on the number of their children from low‑income families. Funds could be used to assist public- and private-school children alike.
Convinced the United States confronted an “urban crisis” characterized by declining inner cities, the Great Society architects devised a new housing act that provided rent supplements for the poor and established a Department of Housing and Urban Development.
Other legislation had an impact on many aspects of American life. Federal assistance went to artists and scholars to encourage their work. In September 1966, Johnson signed into law two transportation bills. The first provided funds to state and local governments for developing safety programs, while the other set up federal safety standards for cars and tires. The latter program reflected the efforts of a crusading young radical, Ralph Nader. In his 1965 book, Unsafe at Any Speed: The Designed‑In Dangers of the American Automobile, Nader argued that automobile manufacturers were sacrificing safety features for style, and charged that faulty engineering contributed to highway fatalities.
In 1965, Congress abolished the discriminatory 1924 national-origin immigration quotas. This triggered a new wave of immigration, much of it from South and East Asia and Latin America.
The Great Society was the largest burst of legislative activity since the New Deal. But support weakened as early as 1966. Some of Johnson’s programs did not live up to expectations; many went underfunded. The urban crisis seemed, if anything, to worsen. Still, whether because of the Great Society spending or because of a strong economic upsurge, poverty did decline at least marginally during the Johnson administration.
THE WAR IN VIETNAM
Dissatisfaction with the Great Society came to be more than matched by unhappiness with the situation in Vietnam. A series of South Vietnamese strong men proved little more successful than Diem in mobilizing their country. The Viet Cong, insurgents supplied and coordinated from North Vietnam, gained ground in the countryside.
Determined to halt Communist advances in South Vietnam, Johnson made the Vietnam War his own. After a North Vietnamese naval attack on two American destroyers, Johnson won from Congress on August 7, 1964, passage of the Gulf of Tonkin Resolution, which allowed the president to “take all necessary measures to repel any armed attack against the forces of the United States and to prevent further aggression.” After his re-election in November 1964, he embarked on a policy of escalation. From 25,000 troops at the start of 1965, the number of soldiers – both volunteers and draftees – rose to 500,000 by 1968. A bombing campaign wrought havoc in both North and South Vietnam.
Grisly television coverage with a critical edge dampened support for the war. Some Americans thought it immoral; others watched in dismay as the massive military campaign seemed to be ineffective. Large protests, especially among the young, and a mounting general public dissatisfaction pressured Johnson to begin negotiating for peace.
THE ELECTION OF 1968
By 1968 the country was in turmoil over both the Vietnam War and civil disorder, expressed in urban riots that reflected African-American anger. On March 31, 1968, the president renounced any intention of seeking another term. Just a week later, Martin Luther King Jr. was shot and killed in Memphis, Tennessee. John Kennedy’s younger brother, Robert, made an emotional anti-war campaign for the Democratic nomination, only to be assassinated in June.
At the Democratic National Convention in Chicago, Illinois, protesters fought street battles with police. A divided Democratic Party nominated Vice President Hubert Humphrey, once the hero of the liberals but now seen as a Johnson loyalist. White opposition to the civil rights measures of the 1960s galvanized the third-party candidacy of Alabama Governor George Wallace, a Democrat who captured his home state, Mississippi, and Arkansas, Louisiana, and Georgia, states typically carried in that era by the Democratic nominee. Republican Richard Nixon, who ran on a plan to extricate the United States from the war and to increase “law and order” at home, scored a narrow victory.
NIXON, VIETNAM, AND THE COLD WAR
Determined to achieve “peace with honor,” Nixon slowly withdrew American troops while redoubling efforts to equip the South Vietnamese army to carry on the fight. He also ordered strong American offensive actions. The most important of these was an invasion of Cambodia in 1970 to cut off North Vietnamese supply lines to South Vietnam. This led to another round of protests and demonstrations. Students in many universities took to the streets. At Kent State in Ohio, the national guard troops who had been called in to restore order panicked and killed four students.
By the fall of 1972, however, troop strength in Vietnam was below 50,000 and the military draft, which had caused so much campus discontent, was all but dead. A cease-fire, negotiated for the United States by Nixon’s national security adviser, Henry Kissinger, was signed in 1973. Although American troops departed, the war lingered on into the spring of 1975, when Congress cut off assistance to South Vietnam and North Vietnam consolidated its control over the entire country.
The war left Vietnam devastated, with millions maimed or killed. It also left the United States traumatized. The nation had spent over $150,000-million in a losing effort that cost more than 58,000 American lives. Americans were no longer united by a widely held Cold War consensus, and became wary of further foreign entanglements.
Yet as Vietnam wound down, the Nixon administration took historic steps toward closer ties with the major Communist powers. The most dramatic move was a new relationship with the People’s Republic of China. In the two decades since Mao Zedong’s victory, the United States had argued that the Nationalist government on Taiwan represented all of China. In 1971 and 1972, Nixon softened the American stance, eased trading restrictions, and became the first U.S. president ever to visit Beijing. The “Shanghai Communique” signed during that visit established a new U.S. policy: that there was one China, that Taiwan was a part of China, and that a peaceful settlement of the dispute of the question by the Chinese themselves was a U.S. interest.
With the Soviet Union, Nixon was equally successful in pursuing the policy he and his Secretary of State Henry Kissinger called détente. He held several cordial meetings with Soviet leader Leonid Brezhnev in which they agreed to limit stockpiles of missiles, cooperate in space, and ease trading restrictions. The Strategic Arms Limitation Talks (SALT) culminated in 1972 in an arms control agreement limiting the growth of nuclear arsenals and restricting anti-ballistic missile systems.
NIXON’S ACCOMPLISHMENTS AND DEFEATS
Vice president under Eisenhower before his unsuccessful run for the presidency in 1960, Nixon was seen as among the shrewdest of American politicians. Although Nixon subscribed to the Republican value of fiscal responsibility, he accepted a need for government’s expanded role and did not oppose the basic contours of the welfare state. He simply wanted to manage its programs better. Not opposed to African-American civil rights on principle, he was wary of large federal civil rights bureaucracies. Nonetheless, his administration vigorously enforced court orders on school desegregation even as it courted Southern white voters.
Perhaps his biggest domestic problem was the economy. He inherited both a slowdown from its Vietnam peak under Johnson, and a continuing inflationary surge that had been a by-product of the war. He dealt with the first by becoming the first Republican president to endorse deficit spending as a way to stimulate the economy; the second by imposing wage and price controls, a policy in which the Right had no long-term faith, in 1971. In the short run, these decisions stabilized the economy and established favorable conditions for Nixon’s re-election in 1972. He won an overwhelming victory over peace-minded Democratic Senator George McGovern.
Things began to sour very quickly into the president’s second term. Very early on, he faced charges that his re-election committee had managed a break-in at the Watergate building headquarters of the Democratic National Committee and that he had participated in a cover-up. Special prosecutors and congressional committees dogged his presidency thereafter.
Factors beyond Nixon’s control undermined his economic policies. In 1973 the war between Israel and Egypt and Syria prompted Saudi Arabia to embargo oil shipments to Israel’s ally, the United States. Other member nations of the Organization of the Petroleum Exporting Countries (OPEC) quadrupled their prices. Americans faced both shortages, exacerbated in the view of many by over-regulation of distribution, and rapidly rising prices. Even when the embargo ended the next year, prices remained high and affected all areas of American economic life: In 1974, inflation reached 12 percent, causing disruptions that led to even higher unemployment rates. The unprecedented economic boom America had enjoyed since 1948 was grinding to a halt.
Nixon’s rhetoric about the need for “law and order” in the face of rising crime rates, increased drug use, and more permissive views about sex resonated with more Americans than not. But this concern was insufficient to quell concerns about the Watergate break-in and the economy. Seeking to energize and enlarge his own political constituency, Nixon lashed out at demonstrators, attacked the press for distorted coverage, and sought to silence his opponents. Instead, he left an unfavorable impression with many who saw him on television and perceived him as unstable. Adding to Nixon’s troubles, Vice President Spiro Agnew, his outspoken point man against the media and liberals, was forced to resign in 1973, pleading “no contest” to a criminal charge of tax evasion.
Nixon probably had not known in advance of the Watergate burglary, but he had tried to cover it up, and had lied to the American people about it. Evidence of his involvement mounted. On July 27, 1974, the House Judiciary Committee voted to recommend his impeachment. Facing certain ouster from office, he resigned on August 9, 1974.
THE FORD INTERLUDE
Nixon’s vice president, Gerald Ford (appointed to replace Agnew), was an unpretentious man who had spent most of his public life in Congress. His first priority was to restore trust in the government. However, feeling it necessary to head off the spectacle of a possible prosecution of Nixon, he issued a blanket pardon to his predecessor. Although it was perhaps necessary, the move was nonetheless unpopular.
In public policy, Ford followed the course Nixon had set. Economic problems remained serious, as inflation and unemployment continued to rise. Ford first tried to reassure the public, much as Herbert Hoover had done in 1929. When that failed, he imposed measures to curb inflation, which sent unemployment above 8 percent. A tax cut, coupled with higher unemployment benefits, helped a bit but the economy remained weak.
In foreign policy, Ford adopted Nixon’s strategy of detente. Perhaps its major manifestation was the Helsinki Accords of 1975, in which the United States and Western European nations effectively recognized Soviet hegemony in Eastern Europe in return for Soviet affirmation of human rights. The agreement had little immediate significance, but over the long run may have made maintenance of the Soviet empire more difficult. Western nations effectively used periodic “Helsinki review meetings” to call attention to various abuses of human rights by Communist regimes of the Eastern bloc.
THE CARTER YEARS
Jimmy Carter, former Democratic governor of Georgia, won the presidency in 1976. Portraying himself during the campaign as an outsider to Washington politics, he promised a fresh approach to governing, but his lack of experience at the national level complicated his tenure from the start. A naval officer and engineer by training, he often appeared to be a technocrat, when Americans wanted someone more visionary to lead them through troubled times.
In economic affairs, Carter at first permitted a policy of deficit spending. Inflation rose to 10 percent a year when the Federal Reserve Board, responsible for setting monetary policy, increased the money supply to cover deficits. Carter responded by cutting the budget, but cuts affected social programs at the heart of Democratic domestic policy. In mid-1979, anger in the financial community practically forced him to appoint Paul Volcker as chairman of the Federal Reserve. Volcker was an “inflation hawk” who increased interest rates in an attempt to halt price increases, at the cost of negative consequences for the economy.
Carter also faced criticism for his failure to secure passage of an effective energy policy. He presented a comprehensive program, aimed at reducing dependence on foreign oil, that he called the “moral equivalent of war.” Opponents thwarted it in Congress.
Though Carter called himself a populist, his political priorities were never wholly clear. He endorsed government’s protective role, but then began the process of deregulation, the removal of governmental controls in economic life. Arguing that some restrictions over the course of the past century limited competition and increased consumer costs, he favored decontrol in the oil, airline, railroad, and trucking industries.
Carter’s political efforts failed to gain either public or congressional support. By the end of his term, his disapproval rating reached 77 percent, and Americans began to look toward the Republican Party again.
Carter’s greatest foreign policy accomplishment was the negotiation of a peace settlement between Egypt, under President Anwar al-Sadat, and Israel, under Prime Minister Menachem Begin. Acting as both mediator and participant, he persuaded the two leaders to end a 30-year state of war. The subsequent peace treaty was signed at the White House in March 1979.
After protracted and often emotional debate, Carter also secured Senate ratification of treaties ceding the Panama Canal to Panama by the year 2000. Going a step farther than Nixon, he extended formal diplomatic recognition to the People’s Republic of China.
But Carter enjoyed less success with the Soviet Union. Though he assumed office with detente at high tide and declared that the United States had escaped its “inordinate fear of Communism,” his insistence that “our commitment to human rights must be absolute” antagonized the Soviet government. A SALT II agreement further limiting nuclear stockpiles was signed, but not ratified by the U.S. Senate, many of whose members felt the treaty was unbalanced. The 1979 Soviet invasion of Afghanistan killed the treaty and triggered a Carter defense build‑up that paved the way for the huge expenditures of the 1980s.
Carter’s most serious foreign policy challenge came in Iran. After an Islamic fundamentalist revolution led by Shiite Muslim leader Ayatollah Ruhollah Khomeini replaced a corrupt but friendly regime, Carter admitted the deposed shah to the United States for medical treatment. Angry Iranian militants, supported by the Islamic regime, seized the American embassy in Tehran and held 53 American hostages for more than a year. The long-running hostage crisis dominated the final year of his presidency and greatly damaged his chances for re-election.