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米国の歴史の概要 – 地域間の対立

「家が内輪で分かれ争うなら、その家は立ち行かないであろう。この国は、半ば奴隷、半ば自由の状態で、永続することはできないと私は信じる
 
2つのアメリカ
1860年代初頭、ジョージア州サバンナ近郊で綿花を収穫する奴隷家族 (© Bettmann/CORBIS)

1860年代初頭、ジョージア州サバンナ近郊で綿花を収穫する奴隷家族 (© Bettmann/CORBIS)

米国を訪れた外国人で、フランスの作家であり政治理論家であるアレクシス・ド・トクビルほど、訪米の足跡と観察に関して、後世に長く受け継がれる記録を残した人物はいない。彼の著書「Democracy in America(米国における民主主義)」(邦訳「アメリカのデモクラシー」)は、1835年に初版が出版され、今もなお、米国の社会的および政治的慣習に関する最も明快かつ洞察に富んだ分析のひとつとされている。トクビルは、観察者として極めて洞察力が鋭いため、米国の批判をせずにはいられなかったが、その意見は基本的には肯定的なものであった。彼は著書の中で、「民主主義の政府は、政治的権利の概念を、最も底辺の市民のレベルにまでもたらす」とし、「これは、富の分配が、財産という概念をすべての国民の手の届く範囲にもたらすことと同様である」と記している。このような記述の一方でトクビルは、工場制度の発達に伴い、産業労働者と新たに生まれるビジネス・エリートとの間に亀裂が生じる恐れのある状況の下で、こうした大まかな平等が存続できるか、との危惧を持った数多い思想家の1人であった。

他の旅行者たちも、この国の成長と活力に驚嘆した。この国で彼らが目にしたのは、「あらゆるところに見られる、農業、商業、および大規模な公共事業の繁栄と急速な進歩の全く疑う余地のない証」であった。しかしながら、米国の試みに対する楽観的な見方は、決して普遍的なものではなかった。そうした懐疑論者の1人として挙げられるのは、英国の小説家チャールズ・ディケンズである。1841年から1842年にかけて初めて米国を訪れた彼は、手紙の中で次のように記している。「これは、私が視察の目的としていた共和国ではない」そして次のように続けている。「これは私の想像した共和国ではない。・・・この国の若さと力を考えれば考えるほど、多くの点で、この国がますます不十分でつまらないものに、私の目には映る。この国が誇ってきたすべてのものは、国民の教育、そして貧しい子どもたちの保護を例外として、私がこの国に期待していた水準には程遠い」

同様の考えを持っていたのは、ディケンズのみではなかった。19世紀の米国は、その歴史を通じて常にそうであったように、期待と強い関心を呼び起こしたが、多くの場合、こうした感情は、すぐに、より世俗的でより複雑な現実と矛盾するものとなった。この若い国家の広さと多様性が、容易な一般化を許さず、矛盾を招いていた。米国は自由を愛すると同時に奴隷を有する社会であり、未開拓の広大なフロンティアを持つ国であり、成長を続ける商業と産業化の上に建設された都市を抱える社会であった。

約束の土地

1850年までに、米国の領地は森林、平原、そして山脈を越えて拡張していた。その広大な境界の中には、2300万人に上る人々が、31の州から成る連邦に居住していた。東部では工業が繁栄し、中西部および南部では農業が栄えていた。1849年以降は、カリフォルニアの金鉱から、その貴重な金が交易のルートに流入した。

ニューイングランドおよび大西洋岸中部の諸州は、製造業、商業、および金融の中心であり、これらの地域の主要生産物は、繊維、木材、衣類、機械、皮革、および毛織物製品であった。海運業は繁栄を極めており、米国旗を掲げた船舶が海上を行きかい、あらゆる国々の製品を流通させていた。

大西洋からミシシッピ川以西に及ぶ南部は、農業を中心とした経済を特徴としていた。バージニア、メリーランド、およびノースカロライナの各州では、タバコが重要な産品であり、サウスカロライナ州では、米が豊富に生産されていた。ルイジアナ州の気候と土壌は、砂糖の栽培に適していた。しかしながら、次第に綿花が主要産品となり、南部の象徴とされるようになった。1850年までには、米国南部は世界の綿花の80%以上を生産していた。そうした農産物の栽培はすべて奴隷労働によって行われていた。

中西部は広大な平原を有し、人口も急速に増加して、繁栄していた。ヨーロッパおよび米国内の初期の入植地は、この地域の小麦と肉製品を求めていた。マコーミック刈取り機(穀物を刈り取り収穫する機械)を中心とする、省力化のための機械の導入によって、穀物生産が空前の増加を遂げ、米国の小麦収穫高は、1850年の3500万ヘクトリットルから、1860年には6100万ヘクトリットルにまで増加した。そして、その半分以上は中西部で栽培されたものであった。

経済の繁栄の刺激剤となった重要な要因は、輸送機関の大幅な改善であった。1850年から1857年にかけて、それまで壁となっていたアパラチア山脈が5本の鉄道幹線によって貫かれ、中西部と北東部が結ばれた。こうした連絡幹線は、経済的な利害関係を生み出し、それによって、1861年から1865年にかけて、連邦の政治的な連合を支える基礎が築かれることになる。一方、南部は後れを取っていた。ミシシッピ川下流地域と大西洋沿岸南部とを、山脈を通って直接つなぐ鉄道が完成したのは、1850年代末になってからのことであった。

奴隷制と地域対立

北部と南部の間の地域差および経済的格差をさらに広げた非常に重要なひとつの問題が、奴隷制であった。多くの南部人は、北部の実業家たちが綿花の売買によって莫大な利益を得ていることに憤りを感じ、南部の後進性の原因を北部における権力の増大にあるとした。他方、北部人の多くは、南部がその経済にとって不可欠としている「独特な制度」、すなわち奴隷制が、同地域の財政・産業上の相対的な後進性に大きく寄与していると主張した。

1819年のミズーリ協定以降、地域間の境界線は、奴隷制の問題をめぐって着実に明確なものになっていた。北部では、奴隷制の完全廃止の気運が一層高まった。南部人は、一般的に奴隷制に対する罪悪感が極めて低く、この制度を懸命に擁護した。一部の沿岸地域では、奴隷制は、1850年までにすでに200年以上続いており、その地域の経済基盤に不可欠な要素となっていた。

1860年の国勢調査によると、15の奴隷州において、1230万人の総人口に対し、奴隷の数は400万人近くであったが、奴隷を所有する南部の白人はごく少数にすぎなかった。およそ150万の白人家庭のうち、奴隷所有者は38万5000人ほどであり、こうした奴隷所有者の50%は、所有する奴隷の数が5人以下であった。農家から農園主へと定義が変わる基準の奴隷数とされる20人以上を所有していたのは、12%であった。そして、南部の社会で最下層とされた「貧しい白人」も含む、南部白人家庭の4分の3は、奴隷を所有していなかった。

農園主が奴隷を所有しようとすることは容易に理解できる。しかしながら、自由民や貧しい白人たちも同様に奴隷制を支持した。彼らは、黒人たちが解放された場合に、経済的に自分たちと競合するようになること、そしてより高い地位を要求することを恐れていた。南部の白人は、単に経済的必要性だけでなく、白人優位への感情的な固執から、奴隷制を擁護したのである。

台頭する北部の見解と相対していく中で、南部の政治指導層、専門職者、および聖職者の多くは、もはや奴隷制について謝罪することはせず、むしろそれを擁護していた。南部の評論家たちが、資本と労働との関係は、北部の賃金制度の下でよりも、奴隷制の下でのほうがより人道的であると主張したことは、こうした傾向の一例を示すものである。

1830年以前は、奴隷の監督をその所有者または主人が個人的に行うという旧来の家長体制が、プランテーション管理において依然として特徴的であった。しかしながら、低南部地方において、大規模綿花栽培が導入されるとともに、奴隷の主人は次第に自ら直接奴隷を監督することはなくなり、監視専門の雇用人が奴隷に最大の労働力を強いる責任を負うようになっていった。こうした環境の中で、奴隷制は、奴隷を殴ったり、奴隷の夫婦や親子を別々に売って家族を引き裂いたりすることが日常的に行われる、残忍な強制的制度となったのである。しかしながら、状況によっては、はるかに穏やかな例も見られた。

しかし結果的に、奴隷制に対する最も鋭い批判は、個々の主人や監視人の行為に向けられたものではなかった。奴隷制廃止論者が指摘するのは、アフリカ系アメリカ人を制度的に家畜のように扱うことで、奴隷制は、すべての人間の自由に対する不可分の権利を侵害するものであるという点であった。

奴隷制廃止論者

全国的な政治の場において、南部人は主に、綿花と奴隷制という体制によってもたらされる利益を守り、拡大しようとしていた。そして、綿花の単作が土地を荒廃させ土壌の枯渇を早めたため、新たな肥沃な土地の必要性が高まり、領地の拡大を求めるようになった。加えて、新たに領地を増やすことは、新たな自由州が認められることへの均衡策として奴隷州を増やす土台ともなった。奴隷制に反対する北部人たちは、こうした南部人の視点を、奴隷制支持勢力の拡大を謀るものであると捉えていた。こうして、1830年代に、南北の対立は激しさを増していったのである。

米国独立革命の支流として位置付けられる初期の奴隷制反対運動は、1808年に議会が対アフリカ奴隷貿易を廃止したことにより、その最後の勝利を勝ち取った。その後の反対運動は、主としてクエーカー派によるものであったが、それは穏やかな、しかし効果の上がらない活動の繰り返しとなっていた。その一方で、綿繰り機とミシシッピ川デルタ地域に至る西方への拡大によって、奴隷の需要は高まっていった。

1830年代初期に始まった奴隷制廃止運動は、闘争的かつ強硬に奴隷制の即時廃止を主張するものであった。こうしたアプローチの中で、マサチューセッツ州出身の若い指導者、ウィリアム・ロイド・ギャリソンが出現した。彼は、殉教者のヒロイズムを煽動家の改革の熱情と結び付けた。1831年1月1日、ギャリソンは自らの機関紙「ザ・リベレーター」を創刊した。この中で彼は以下のように宣言している。「私は、奴隷である人々の即時解放のために強力に戦っていくつもりである。・・・この問題について考える、話す、あるいは書くに当たり、私は穏健に行おうとは思わない。・・・私は真剣である。あいまいな態度は取らない。容赦はしない。1インチたりとも後へは引かない。私の意見は必ずや聞き入れられるであろう」

ギャリソンの煽情的な手段は、長年にわたり、変えることができないと多くの人々が考えるようになっていた制度の罪悪を、北部人に気付かせることになった。彼は、奴隷制の最も忌まわしい面に大衆の注意を向け、奴隷所有者を、拷問者であり人命の密売人であるとして激しく非難することに努めた。彼は、奴隷の主人に対しては、いかなる権利も認めず、いかなる妥協も許さず、そして目的の遂行についていかなる遅延も許さなかった。こうした法をものともしない彼のやり方を支持することに対して消極的な他の奴隷制廃止論者は、法に則った平和的な方法で改革を遂行すべきであるとの姿勢をとった。一方ギャリソンは、逃亡奴隷として北部人に衝撃をもたらした、フレデリック・ダグラスという強力な声を味方につけた。また、セオドア・ドワイト・ウェルドをはじめとする多くの廃止論者は、闘争的熱意を持って、オールド・ノースウェスト地域の諸州で奴隷制反対運動を推進した。

こうした運動のひとつが、奴隷の逃亡を助け、北部や国境を越えたカナダの安全な避難所に送る活動であった。この「アンダーグラウンド・レイルロード(地下鉄道)」は、入念に張り巡らされた秘密ルートとして、1830年代に北部全域で確立された。オハイオ州だけを見ても、1830年から1860年にかけて、4万人に上る奴隷が自由の地に助け出された。各地の奴隷制反対組織の数は急速に増加し、1838年までにおよそ1350に達し、メンバー数もおそらく25万人に上った。

こうした状況にもかかわらず、多くの北部人は、奴隷制廃止運動からは一歩離れた立場を取るか、あるいはこの運動に積極的に反対した。一例を挙げると、1837年にイリノイ州アルトンで、暴徒が奴隷制反対を唱える編集者エライジャ・P・ラブジョイを襲い殺害する事件が起きた。しかしながら、南部における言論の自由に対する抑圧は、奴隷制廃止論者が、奴隷制の問題を白人市民の自由という大義と結びつける要因となっていた。1835年、サウスカロライナ州チャールストンの郵便局で、怒った暴徒が奴隷制廃止に関連する印刷物を破棄した。郵政長官が、廃止論者の印刷物の配達を強要しないと表明したことから、議会で激しい論争が起こり、議会には、奴隷制反対の行動を起こすことを求める奴隷制廃止論者からの請願が殺到した。1836年、下院は、こうした請願を自動的に棚上げし、これらを無効にすることを可決した。1830年に下院議員に当選したジョン・クインシー・アダムズ元大統領は、このいわゆる言論統制法を憲法第1条修正法違反であるとして戦い、ついに1844年、その撤回を勝ち取った。

テキサスとメキシコ戦争

1820年代を通じて、米国人はテキサスの広大な領地で、しばしばメキシコ政府からの土地払い下げを受け、入植していった。しかしながら、その数の多さにメキシコ政府当局は警戒心を抱き、1830年、それ以降の移民を禁止した。1834年、アントニオ・L・デ・サンタ・アナ将軍がメキシコで独裁政権を樹立し、翌年テキサスの米国人による反乱が勃発した。1836年初め、サンタ・アナはアラモの攻囲に成功し米国人による反乱を抑えたものの、その1カ月後にテキサスの米国人は、サム・ヒューストンの指揮の下、サン・ハシントの戦いでメキシコ軍を打ち破り、サンタアナを捕虜にした。こうしてテキサスの独立が確保されたのである。

その後ほぼ10年間、テキサスは独立共和国としての立場を維持していた。その主たる理由は、巨大な奴隷州としてテキサスが新たに併合されれば、不安定さを増していた米国内の政治勢力の均衡を崩す可能性があったためである。1845年、西方拡大という綱領を掲げてかろうじて当選したジェームズ・K・ポーク大統領は、テキサス共和国を連邦に併合した。ポークのこの行動は、より大きな構想の糸口となった。テキサスは、メキシコとの国境をリオ・グランデ川であると主張し、これに対しメキシコは、国境ははるかに北のヌエセス川であると反論した。こうした中、入植者がニューメキシコとカリフォルニアの領地に殺到していた。多くの米国人が、太平洋に至るまで西進することが米国の「明白な運命」であると主張した。

ニューメキシコとカリフォルニアの領地をメキシコから購入しようという米国の試みは失敗に終わった。1846年、リオ・グランデ川沿いの地域でメキシコ軍と米国軍が衝突し、米国は宣戦を布告した。米国軍はニューメキシコの、人口が希薄な土地を占領した後、カリフォルニアの入植者たちによる反乱を支援した。ザカリー・テイラー率いる米国軍はメキシコに侵攻し、モンテレーとブエナビスタで勝利を収めたものの、メキシコ側を交渉のテーブルに着かせることはできなかった。1847年3月、ウィンフィールド・スコットが指揮する米国陸軍は、メキシコ東海岸のベラクルス近郊に上陸し、メキシコシティへ進軍した。米国はグアダルーペ・ヒダルゴ条約(グアダルーペ・イダルゴ条約)の締結を命じ、それにより、メキシコは、後に米国の南西部地域とカリフォルニアとなる領地を1500万ドルで割譲することとなった。

この戦争は、後に南北戦争で両軍の指揮をとることになる米国の将校たちの訓練の場でもあった。それとともにこの戦争は、政治的分裂をもたらした。ポークは、英国との対立も同時に抱え、そうした中で太平洋岸北西部北緯49度までの米国による統治権を英国に認めさせていたが、主にホイッグ党の奴隷制反対派は、ポークの拡張政策を奴隷制支持の策略であるとして攻撃した。

メキシコ戦争の終結を受けて、米国は、現在のニューメキシコ、ネバダ、カリフォルニア、ユタの各州、アリゾナ州の大半、およびコロラドとワイオミング両州の一部を含む、136万平方キロメートルの広大な新しい領地を獲得した。そして同時に、米国は当時の国内政治において最も危険な火種をはらんだ問題に再び直面することとなったのである。すなわち、新しく獲得した領地は奴隷州となるか、あるいは自由州となるか、という問題である。

1850年の妥協

1845年までは、奴隷制は、すでに実施されている地域に限定されるものと捉えられていた。1820年のミズーリ協定によって、奴隷制には地理的制限が設けられており、それを越えることはあり得なかった。しかし、新たに加えられた領地は、奴隷制を再び拡大させる可能性をもたらした。

拡大が認められなければ、奴隷制は最終的に衰退し終焉を迎える、と多くの北部人は信じていた。新たな奴隷州の追加に対する反対を正当化するために、北部人はワシントンとジェファーソンの演説や、奴隷制の北西部への拡大を禁ずる1787年の条例を示した。すでに奴隷制を認めていたテキサスは、必然的に奴隷州として連邦に加入した。しかしながら、カリフォルニア、ニューメキシコ、およびユタの領地は、奴隷制を持たず、これらの地においては、奴隷制を取り入れるべきか否かについて、当初から激しい意見の対立があった。

南部人は、メキシコから割譲された土地はすべて奴隷所有者に解放されるべきであると主張した。これに対し、奴隷制に反対する北部人は、新たに加入した地域はいずれも奴隷制を取り入れるべきではないと要求した。こうした中で、穏健派グループのひとつが、ミズーリ協定の境界線を太平洋岸にまで延長し、それより北の州を自由州とし、南の州を奴隷州とすることを提案した。さらに別のグループは、この問題については「住民主権主義」に従うことを提案した。すなわち、政府は入植者に対し、個人の判断で、奴隷を伴っても伴わなくても新しい領土に入植できることを認めるべきであるとしたのである。そしてこれらの土地が州として組織される時点で、住民自身が決定できることとした。

奴隷制廃止論者の活動が活発に行われる一方で、ほとんどの北部人は、南部における奴隷制の存在にあえて異議を唱えることには消極的であった。しかしながら、奴隷制の拡大には、多くが反対した。1848年、30万人近い成人男子が、「奴隷制を制限し、限られた地域にとどめ、阻止する」ことが最善の方策であるとの主張を掲げて新たに設立された自由土地党の候補者に投票した。しかし、メキシコとの戦争直後の時期にあって、住民主権主義も、相当の説得力を持つようになっていた。

1848年1月、カリフォルニアで金が発見されたことによって、この地域へ入植者がなだれ込んだ。その数は、1849年1年間のみで8万人を超えた。議会は、組織的な政府を作るために、この新しい地域の立場を早急に決定する必要があった。過去の危機的状況において2度妥協策を提案したことのある、ケンタッキー州出身の著名な上院議員ヘンリー・クレーは、複雑かつ周到に均衡のとられた方策を提案した。彼の長年のライバルであったマサチューセッツ州選出のダニエル・ウェブスターはこの提案を支持した。また、住民主権を先頭に立って擁護していたイリノイ州選出の民主党上院議員スティーブン・A・ダグラスが、この提案の議会通過に大きく貢献した。

1850年の妥協では、次の各事項が提起されている。(1)カリフォルニアは自由州として連邦に加入する。 (2)それ以外のメキシコから割譲された領土については、これをニューメキシコおよびユタの2つの準州に分け、奴隷制については触れない。 (3)テキサスがニューメキシコの一部を要求している件については、1000万ドルの支払いを条件に認める。(4)逃亡奴隷を逮捕し、主人の下に送り返すことを定めた新たな法案(逃亡奴隷取締法)を可決する。(5)コロンビア特別区における奴隷売買(奴隷制そのものではない)を禁止する。

この妥協によって、米国は安堵のため息をついた。そしてその後3年間は、この妥協によってほとんどすべての紛争が解決したかに見えた。しかしながら、新たな逃亡奴隷取締法は、すぐに緊張を生んだ。この法律は多くの北部人の怒りを呼び、彼らは奴隷の捕獲に関わることを拒否した。北部人の中には、この法律の施行を積極的かつ暴力的に妨害する者もいた。そして、「アンダーグラウンド・レイルロード」の活動がそれまで以上に効果的に、そして大胆に行われるようになったのである。

分断された国家

1850年代になると、奴隷制に関する論争によって、それまで合衆国を結び付けていた政治的結束が分断された。この論争は国内2大政党であるホイッグ党と民主党にも影響を及ぼし、前者は崩壊し、後者は分裂して再び元の状態に戻ることができなかった。さらにこうした状況の中で生まれた大統領たちは自らの政党の優柔不断さをそのまま映し出し、決断力の弱さを露呈した弱体な存在であった。そして奴隷制の論争は、ついに最高裁判所の信用にまで傷をつけることになった。

奴隷制廃止論者の道徳的熱情は、着実に高まっていった。1852年、ハリエット・ビーチャー・ストウが、逃亡奴隷取締法の可決に対する怒りから創作した小説、「アンクル・トムの小屋」を出版し、この小説は、出版後1年で30万部以上が売れた。その需要に追いつくため、昼夜を通じてこの本の印刷が行われた。「アンクル・トムの小屋」は、感情的であり、ステレオタイプに満ちているものの、奴隷制の残酷さを、説得力のある力強さで描くと同時に、自由社会と奴隷社会の基本的な対立を提示するものであった。不公平に対する憤りと非情な搾取にさらされた無力な人々に対する哀れみ、という基本的な人間の感情に訴えることによって、この小説は、奴隷制反対という大義への熱意を広く呼び起こした。

1854年、準州における奴隷制をめぐって論争に再び火がつき、対立はより激しいものとなった。現在のカンザスおよびネブラスカ両州を成す地域では、急速に入植が進んでおり、準州政府、ひいては州政府の設立を要求する圧力が高まっていた。

1820年のミズーリ協定に定められたところに従って、この地域全体が奴隷制を禁止していた。これに対して、ミズーリ州で支配的立場にあった奴隷所有者らは、カンザスを奴隷禁止地区とすれば、ミズーリは3つの自由土地(イリノイ、アイオワおよびカンザス)と隣接することになり、自らも自由州にならざるを得ない可能性があることから、それに反対した。南部人の支持を得た同州の議会代表団は、この地域の組織化に向けたあらゆる活動を妨害した。

この時期、スティーブン・A・ダグラスは、自由土地の支持者の怒りを買っていた。ダグラスは、ユタとニューメキシコに対して奴隷制の問題を住民自身の判断に委ねた1850年の妥協は、ミズーリ協定に代わるものであると主張した。彼の提案は、カンザスおよびネブラスカの2つの準州に対して行われ、この2つの領地への入植者が奴隷を連れてくることを認め、最終的にこれら入植者が、連邦加入に際して、自由州として加入するか奴隷州として加入するかを決定する、としたものであった。

ダグラスの提案に反対する者は、彼が1856年の大統領選挙で当選するために南部の機嫌を取ろうとしているとして、これを非難した。これを機に、下火になっていた自由土地支持の活動が、これまでにない勢いで再び活発化し始めた。しかしながら、ダグラスのこの提案は、1854年5月、カンザス・ネブラスカ法としてフランクリン・ピアス大統領の署名を得るべく議会で可決された。南部の熱狂者は、大砲を撃ってこの法律の制定を祝った。ところが、その後ダグラスがシカゴを訪れ自らの擁護のために演説をした際には、港に浮かぶ船舶が船上に半旗を掲げ、教会は1時間にわたり鐘を鳴らし続け、1万人に上る群集が彼の演説が聞こえなくなるほど大声でヤジを飛ばした。

時流に適合したとは言えないダグラスのこの施策は、直ちに重大な事態をもたらした。奴隷制拡大問題について日和見の態度をとっていたホイッグ党は、衰退し消滅した。そして、その代わりに強力な新しい組織、共和党が出現した。共和党は、奴隷制をすべての領地で廃止することをその主要な要求としていた。1856年、共和党は、極西部地方への遠征によって評判を得ていたジョン・フレモントを大統領候補に指名した。フレモントは大統領選に敗れたものの、新党は北部の多くで圧勝した。サーモン・P・チェースおよびウィリアム・スワードといった自由土地党の指導者らが、かつてないほどの影響力を行使した。そして彼らと共に登場したのが、長身でやせたイリノイ州の弁護士、エイブラハム・リンカーンであった。

こうした中で、南部の奴隷所有者と奴隷制反対派の入植者たちがカンザスに続々と移住し、ついに武力による争いが生ずるようになった。程なくこの準州は「流血のカンザス」と呼ばれるようになった。そして、最高裁判所がその悪名高い1857年のドレッド・スコット事件の判決を下したことで、事態はさらに悪い方向へ進んでいったのである。

スコットは、ミズーリ州の奴隷であったが、20年も前に主人に連れられ、イリノイ州およびウィスコンシン準州に移住した。このいずれの土地でも奴隷制は禁止されていた。その後ミズーリに戻り、そこでの生活に不満を抱いたスコットは、自由地に居住していたことを理由に、解放を求めて訴えを起こした。当時、南部出身者が優勢を占めていた最高裁判所で、判事の過半数が下した判決は、スコットは合衆国市民ではないために訴訟を行うことはできない、奴隷州(ミズーリ)の住民たることで、彼の身分には自由州(イリノイ)の法律は何の影響をももたらさない、そして、奴隷所有者は、自らの「財産」を連邦内のいずれの領地へも持参する権利を有する、というものだった。これによって連邦議会は、奴隷制の拡大を制限する術を失ったのである。そしてこの主張により、奴隷制に関する先の協定は無効となり、さらに新たな協定を作成することもできなくなった。

ドレッド・スコット事件の判決は、北部各地で激しい反発を招いた。最高裁判所が、これほど痛烈に非難されたのは前代未聞の出来事であった。一方、南部の民主党支持者にとっては、連邦内のあらゆる準州において、奴隷制に関する自分たちの正当性が司法によって認められたことになり、大きな勝利となった。

リンカーン、ダグラス、およびブラウン

エイブラハム・リンカーンは長い間、奴隷制を悪と見なしてきた。1854年にはすでに、広く知られたスピーチにおいて、国家が制定する法律はすべて、奴隷制を制限し最終的には廃止するという原則に基づいて作成されるべきであると宣言している。彼はまた、西部準州における奴隷制は、その住民だけでなく合衆国全体の問題であるとして、住民主権主義は誤りであると主張した。

1858年、リンカーンは、イリノイ州の連邦上院議員選挙に、スティーブン・A・ダグラスの対抗馬として立候補した。6月17日、この選挙運動における最初の演説の冒頭で、リンカーンはそれ以降7年間の米国史を特徴付けることになった基本方針を次のように表明している。

家が内輪で分かれ争うなら、その家は立ち行かつことも能わないであろう。この国は、半ば奴隷、半ば自由の状態で、永続することはできないと私は信じる。私は連邦が解消することは望まない– 家が倒れることは望まない — しかし、私は連邦が分裂を止めることを期待している。

リンカーンとダグラスは、その後1858年中に7回の討論演説を行った。「小さな巨人」と呼ばれたダグラス上院議員は、素晴らしい演説家としての名声を得ていたが、ダグラスの住民主権主義に雄弁に反論するリンカーンを相手に苦戦を強いられた。最終的にはダグラスが僅差で選挙戦を制したものの、リンカーンはこの選挙で全国的な著名人としての名声を得ることとなった。

このころまでには、状況は制御の効かない状態となっていた。1859年10月16日の夜、その3年前にカンザスで奴隷制を支持する5人の入植者を捕らえ殺害した狂信的奴隷制反対論者であるジョン・ブラウンが、信奉者の一団を率い、(現在のウェストバージニア州にある)ハーパーズフェリーの連邦兵器庫を襲った。ブラウンの目的は、武器を奪い、それによって奴隷たちによる蜂起を指揮することであった。2日間に及ぶ交戦の後、ブラウンと生き残った同士たちは、ロバート・E・リー大佐率いる合衆国海兵隊によって逮捕された。

ブラウンによる襲撃は、多くの南部人が恐れていた最悪の事態を裏づけるものであった。一方、奴隷制反対の活動家は、総じてブラウンを、重要な大義のための殉教者と見なしていた。バージニア州はブラウンを、陰謀罪、反逆罪、および殺人罪の容疑で裁判にかけ、1859年12月2日、絞首刑に処した。当初、大半の北部人はブラウンを非難したものの、自分は神の手中の道具であるというブラウンの言葉を受け入れる者が増えていった。

1860年の選挙

1860年、共和党はエイブラハム・リンカーンを大統領候補に指名した。共和党は綱領として、奴隷制のこれ以上の拡大を認めないことを宣言し、工業保護のための関税を約束するとともに、西部開拓に尽力する入植者に対して無料で自作農場を委譲することを認める法律の制定を公約した。南部の民主党支持者は、ドレッド・スコット事件の影響の残る中で、ダグラスの住民主権主義を受け入れることに難色を示しており、党から分裂して、ケンタッキー州出身の副大統領、ジョン・C・ブレッキンリッジを大統領候補者に指名した。そして、スティーブン・A・ダグラスが北部民主党の指名を受けた。さらに、境界州に根強く残っていたホイッグ党員が立憲連合党を結成し、テネシー州のジョン・C・ベルを指名した。

リンカーンとダグラスは北部で、ブレッキンリッジとベルは南部で戦う形となった。リンカーンが得た一般投票の得票率はわずか39%であったが、180票の選挙人投票で過半数を獲得、18の自由州すべてで勝利した。ベルはテネシー、ケンタッキー、およびバージニアで勝利し、ブレッキンリッジは、ダグラスが勝ったミズーリを除く他の奴隷州を手中にした。選挙結果は振るわなかったが、ダグラスは一般投票でリンカーンに次ぐ得票率を得た。

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Sectional Conflict

(The following article is taken from the U.S. Department of State publication Outline of U.S. History.)

“A house divided against itself cannot stand. I believe this government cannot endure permanently half‑slave and half‑free.”
– Senatorial candidate Abraham Lincoln, 1858

TWO AMERICAS

No visitor to the United States left a more enduring record of his travels and observations than the French writer and political theorist Alexis de Tocqueville, whose Democracy in America, first published in 1835, remains one of the most trenchant and insightful analyses of American social and political practices. Tocqueville was far too shrewd an observer to be uncritical about the United States, but his verdict was fundamentally positive. “The government of a democracy brings the notion of political rights to the level of the humblest citizens,” he wrote, “just as the dissemination of wealth brings the notion of property within the reach of all men.” Nonetheless, Tocqueville was only one in the first of a long line of thinkers to worry whether such rough equality could survive in the face of a growing factory system that threatened to create divisions between industrial workers and a new business elite.

Other travelers marveled at the growth and vitality of the country, where they could see “everywhere the most unequivocal proofs of prosperity and rapid progress in agriculture, commerce, and great public works.” But such optimistic views of the American experiment were by no means universal. One skeptic was the English novelist Charles Dickens, who first visited the United States in 1841-42. “This is not the Republic I came to see,” he wrote in a letter. “This is not the Republic of my imagination. ... The more I think of its youth and strength, the poorer and more trifling in a thousand respects, it appears in my eyes. In everything of which it has made a boast – excepting its education of the people, and its care for poor children – it sinks immeasurably below the level I had placed it upon.”

Dickens was not alone. America in the 19th century, as throughout its history, generated expectations and passions that often conflicted with a reality at once more mundane and more complex. The young nation’s size and diversity defied easy generalization and invited contradiction: America was both a freedom-loving and slave-holding society, a nation of expansive and primitive frontiers, a society with cities built on growing commerce and industrialization.

LANDS OF PROMISE

By 1850 the national territory stretched over forest, plain, and mountain. Within its far‑flung limits dwelt 23 million people in a Union comprising 31 states. In the East, industry boomed. In the Midwest and the South, agriculture flourished. After 1849 the gold mines of California poured their precious ore into the channels of trade.

New England and the Middle Atlantic states were the main centers of manufacturing, commerce, and finance. Principal products of these areas were textiles, lumber, clothing, machinery, leather, and woolen goods. The maritime trade had reached the height of its prosperity; vessels flying the American flag plied the oceans, distributing wares of all nations.

The South, from the Atlantic to the Mississippi River and beyond, featured an economy centered on agriculture. Tobacco was important in Virginia, Maryland, and North Carolina. In South Carolina, rice was an abundant crop. The climate and soil of Louisiana encouraged the cultivation of sugar. But cotton eventually became the dominant commodity and the one with which the South was identified. By 1850 the American South grew more than 80 percent of the world’s cotton. Slaves cultivated all these crops.

The Midwest, with its boundless prairies and swiftly growing population, flourished. Europe and the older settled parts of America demanded its wheat and meat products. The introduction of labor-saving implements – notably the McCormick reaper (a machine to cut and harvest grain) – made possible an unparalleled increase in grain production. The nation’s wheat crops swelled from some 35 million hectoliters in 1850 to nearly 61 million in 1860, more than half grown in the Midwest.

An important stimulus to the country’s prosperity was the great improvement in transportation facilities; from 1850 to 1857 the Appalachian Mountain barrier was pierced by five railway trunk lines linking the Midwest and the Northeast. These links established the economic interests that would undergird the political alliance of the Union from 1861 to 1865. The South lagged behind. It was not until the late 1850s that a continuous line ran through the mountains connecting the lower Mississippi River area with the southern Atlantic seaboard.

SLAVERY AND SECTIONALISM

One overriding issue exacerbated the regional and economic differences between North and South: slavery. Resenting the large profits amassed by Northern businessmen from marketing the cotton crop, many Southerners attributed the backwardness of their own section to Northern aggrandizement. Many Northerners, on the other hand, declared that slavery – the “peculiar institution” that the South regarded as essential to its economy – was largely responsible for the region’s relative financial and industrial backwardness.

As far back as the Missouri Compromise in 1819, sectional lines had been steadily hardening on the slavery question. In the North, sentiment for outright abolition grew increasingly powerful. Southerners in general felt little guilt about slavery and defended it vehemently. In some seaboard areas, slavery by 1850 was well over 200 years old; it was an integral part of the basic economy of the region.

Although the 1860 census showed that there were nearly four million slaves out of a total population of 12.3 million in the 15 slave states, only a minority of Southern whites owned slaves. There were some 385,000 slave owners out of about 1.5 million white families. Fifty percent of these slave owners owned no more than five slaves. Twelve percent owned 20 or more slaves, the number defined as turning a farmer into a planter. Three-quarters of Southern white families, including the “poor whites,” those on the lowest rung of Southern society, owned no slaves.

It is easy to understand the interest of the planters in slave holding. But the yeomen and poor whites supported the institution of slavery as well. They feared that, if freed, blacks would compete with them economically and challenge their higher social status. Southern whites defended slavery not simply on the basis of economic necessity but out of a visceral dedication to white supremacy.

As they fought the weight of Northern opinion, political leaders of the South, the professional classes, and most of the clergy now no longer apologized for slavery but championed it. Southern publicists insisted, for example, that the relationship between capital and labor was more humane under the slavery system than under the wage system of the North.

Before 1830 the old patriarchal system of plantation government, with its personal supervision of the slaves by their owners or masters, was still characteristic. Gradually, however, with the introduction of large-scale cotton production in the lower South, the master gradually ceased to exercise close personal supervision over his slaves, and employed professional overseers charged with exacting from slaves a maximum amount of work. In such circumstances, slavery could become a system of brutality and coercion in which beatings and the breakup of families through the sale of individuals were commonplace. In other settings, however, it could be much milder.

In the end, however, the most trenchant criticism of slavery was not the behavior of individual masters and overseers. Systematically treating African-American laborers as if they were domestic animals, slavery, the abolitionists pointed out, violated every human being’s inalienable right to be free.

THE ABOLITIONISTS

In national politics, Southerners chiefly sought protection and enlargement of the interests represented by the cotton/slavery system. They sought territorial expansion because the wastefulness of cultivating a single crop, cotton, rapidly exhausted the soil, increasing the need for new fertile lands. Moreover, new territory would establish a basis for additional slave states to offset the admission of new free states. Antislavery Northerners saw in the Southern view a conspiracy for proslavery aggrandizement. In the 1830s their opposition became fierce.

An earlier antislavery movement, an offshoot of the American Revolution, had won its last victory in 1808 when Congress abolished the slave trade with Africa. Thereafter, opposition came largely from the Quakers, who kept up a mild but ineffectual protest. Meanwhile, the cotton gin and westward expansion into the Mississippi delta region created an increasing demand for slaves.

The abolitionist movement that emerged in the early 1830s was combative, uncompromising, and insistent upon an immediate end to slavery. This approach found a leader in William Lloyd Garrison, a young man from Massachusetts, who combined the heroism of a martyr with the crusading zeal of a demagogue. On January 1, 1831, Garrison produced the first issue of his newspaper, The Liberator, which bore the announcement: “I shall strenuously contend for the immediate enfranchisement of our slave population. ... On this subject, I do not wish to think, or speak, or write, with moderation. ... I am in earnest – I will not equivocate – I will not excuse – I will not retreat a single inch – AND I WILL BE HEARD.”

Garrison’s sensational methods awakened Northerners to the evil in an institution many had long come to regard as unchangeable. He sought to hold up to public gaze the most repulsive aspects of slavery and to castigate slave holders as torturers and traffickers in human life. He recognized no rights of the masters, acknowledged no compromise, tolerated no delay. Other abolitionists, unwilling to subscribe to his law-defying tactics, held that reform should be accomplished by legal and peaceful means. Garrison was joined by another powerful voice, that of Frederick Douglass, an escaped slave who galvanized Northern audiences. Theodore Dwight Weld and many other abolitionists crusaded against slavery in the states of the old Northwest Territory with evangelical zeal.

One activity of the movement involved helping slaves escape to safe refuges in the North or over the border into Canada. The “Underground Railroad,” an elaborate network of secret routes, was firmly established in the 1830s in all parts of the North. In Ohio alone, from 1830 to 1860, as many as 40,000 fugitive slaves were helped to freedom. The number of local antislavery societies increased at such a rate that by 1838 there were about 1,350 with a membership of perhaps 250,000.

Most Northerners nonetheless either held themselves aloof from the abolitionist movement or actively opposed it. In 1837, for example, a mob attacked and killed the antislavery editor Elijah P. Lovejoy in Alton, Illinois. Still, Southern repression of free speech allowed the abolitionists to link the slavery issue with the cause of civil liberties for whites. In 1835 an angry mob destroyed abolitionist literature in the Charleston, South Carolina, post office. When the postmaster-general stated he would not enforce delivery of abolitionist material, bitter debates ensued in Congress. Abolitionists flooded Congress with petitions calling for action against slavery. In 1836 the House voted to table such petitions automatically, thus effectively killing them. Former President John Quincy Adams, elected to the House of Representatives in 1830, fought this so‑called gag rule as a violation of the First Amendment, finally winning its repeal in 1844.

TEXAS AND WAR WITH MEXICO

Throughout the 1820s, Americans settled in the vast territory of Texas, often with land grants from the Mexican government. However, their numbers soon alarmed the authorities, who prohibited further immigration in 1830. In 1834 General Antonio López de Santa Anna established a dictatorship in Mexico, and the following year Texans revolted. Santa Anna defeated the American rebels at the celebrated siege of the Alamo in early 1836, but Texans under Sam Houston destroyed the Mexican Army and captured Santa Anna a month later at the Battle of San Jacinto, ensuring Texan independence.

For almost a decade, Texas remained an independent republic, largely because its annexation as a huge new slave state would disrupt the increasingly precarious balance of political power in the United States. In 1845, President James K. Polk, narrowly elected on a platform of westward expansion, brought the Republic of Texas into the Union. Polk’s move was the first gambit in a larger design. Texas claimed that its border with Mexico was the Rio Grande; Mexico argued that the border stood far to the north along the Nueces River. Meanwhile, settlers were flooding into the territories of New Mexico and California. Many Americans claimed that the United States had a “manifest destiny” to expand westward to the Pacific Ocean.

U.S. attempts to purchase from Mexico the New Mexico and California territories failed. In 1846, after a clash of Mexican and U.S. troops along the Rio Grande, the United States declared war. American troops occupied the lightly populated territory of New Mexico, then supported a revolt of settlers in California. A U.S. force under Zachary Taylor invaded Mexico, winning victories at Monterrey and Buena Vista, but failing to bring the Mexicans to the negotiating table. In March 1847, a U.S. Army commanded by Winfield Scott landed near Veracruz on Mexico’s east coast, and fought its way to Mexico City. The United States dictated the Treaty of Guadalupe Hidalgo in which Mexico ceded what would become the American Southwest region and California for $15 million.

The war was a training ground for American officers who would later fight on both sides in the Civil War. It was also politically divisive. Polk, in a simultaneous facedown with Great Britain, had achieved British recognition of American sovereignty in the Pacific Northwest to the 49th parallel. Still, antislavery forces, mainly among the Whigs, attacked Polk’s expansion as a proslavery plot.

With the conclusion of the Mexican War, the United States gained a vast new territory of 1.36 million square kilometers encompassing the present-day states of New Mexico, Nevada, California, Utah, most of Arizona, and portions of Colorado and Wyoming. The nation also faced a revival of the most explosive question in American politics of the time: Would the new territories be slave or free?

THE COMPROMISE OF 1850

Until 1845, it had seemed likely that slavery would be confined to the areas where it already existed. It had been given limits by the Missouri Compromise in 1820 and had no opportunity to overstep them. The new territories made renewed expansion of slavery a real likelihood.

Many Northerners believed that if not allowed to spread, slavery would ultimately decline and die. To justify their opposition to adding new slave states, they pointed to the statements of Washington and Jefferson, and to the Ordinance of 1787, which forbade the extension of slavery into the Northwest. Texas, which already permitted slavery, naturally entered the Union as a slave state. But the California, New Mexico, and Utah territories did not have slavery. From the beginning, there were strongly conflicting opinions on whether they should.

Southerners urged that all the lands acquired from Mexico should be thrown open to slave holders. Antislavery Northerners demanded that all the new regions be closed to slavery. One group of moderates suggested that the Missouri Compromise line be extended to the Pacific with free states north of it and slave states to the south. Another group proposed that the question be left to “popular sovereignty.” The government should permit settlers to enter the new territory with or without slaves as they pleased. When the time came to organize the region into states, the people themselves could decide.

Despite the vitality of the abolitionist movement, most Northerners were unwilling to challenge the existence of slavery in the South. Many, however, were against its expansion. In 1848 nearly 300,000 men voted for the candidates of a new Free Soil Party, which declared that the best policy was “to limit, localize, and discourage slavery.” In the immediate aftermath of the war with Mexico, however, popular sovereignty had considerable appeal.

In January 1848 the discovery of gold in California precipitated a headlong rush of settlers, more than 80,000 in the single year of 1849. Congress had to determine the status of this new region quickly in order to establish an organized government. The venerable Kentucky Senator Henry Clay, who twice before in times of crisis had come forward with compromise arrangements, advanced a complicated and carefully balanced plan. His old Massachusetts rival, Daniel Webster, supported it. Illinois Democratic Senator Stephen A. Douglas, the leading advocate of popular sovereignty, did much of the work in guiding it through Congress.

The Compromise of 1850 contained the following provisions: (1) California was admitted to the Union as a free state; (2) the remainder of the Mexican cession was divided into the two territories of New Mexico and Utah and organized without mention of slavery; (3) the claim of Texas to a portion of New Mexico was satisfied by a payment of $10 million; (4) new legislation (the Fugitive Slave Act) was passed to apprehend runaway slaves and return them to their masters; and (5) the buying and selling of slaves (but not slavery) was abolished in the District of Columbia.

The country breathed a sigh of relief. For the next three years, the compromise seemed to settle nearly all differences. The new Fugitive Slave Law, however, was an immediate source of tension. It deeply offended many Northerners, who refused to have any part in catching slaves. Some actively and violently obstructed its enforcement. The Underground Railroad became more efficient and daring than ever.

A DIVIDED NATION

During the 1850s, the issue of slavery severed the political bonds that had held the United States together. It ate away at the country’s two great political parties, the Whigs and the Democrats, destroying the first and irrevocably dividing the second. It produced weak presidents whose irresolution mirrored that of their parties. It eventually discredited even the Supreme Court.

The moral fervor of abolitionist feeling grew steadily. In 1852, Harriet Beecher Stowe published Uncle Tom’s Cabin, a novel provoked by the passage of the Fugitive Slave Law. More than 300,000 copies were sold the first year. Presses ran day and night to keep up with the demand. Although sentimental and full of stereotypes, Uncle Tom’s Cabin portrayed with undeniable force the cruelty of slavery and posited a fundamental conflict between free and slave societies. It inspired widespread enthusiasm for the antislavery cause, appealing as it did to basic human emotions – indignation at injustice and pity for the helpless individuals exposed to ruthless exploitation.

In 1854 the issue of slavery in the territories was renewed and the quarrel became more bitter. The region that now comprises Kansas and Nebraska was being rapidly settled, increasing pressure for the establishment of territorial, and eventually, state governments.

Under terms of the Missouri Compromise of 1820, the entire region was closed to slavery. Dominant slave-holding elements in Missouri objected to letting Kansas become a free territory, for their state would then have three free-soil neighbors (Illinois, Iowa, and Kansas) and might be forced to become a free state as well. Their congressional delegation, backed by Southerners, blocked all efforts to organize the region.

At this point, Stephen A. Douglas enraged all free-soil supporters. Douglas argued that the Compromise of 1850, having left Utah and New Mexico free to resolve the slavery issue for themselves, superseded the Missouri Compromise. His plan called for two territories, Kansas and Nebraska. It permitted settlers to carry slaves into them and eventually to determine whether they should enter the Union as free or slave states.

Douglas’s opponents accused him of currying favor with the South in order to gain the presidency in 1856. The free-soil movement, which had seemed to be in decline, reemerged with greater momentum than ever. Yet in May 1854, Douglas’s plan, in the form of the Kansas-Nebraska Act, passed Congress to be signed by President Franklin Pierce. Southern enthusiasts celebrated with cannon fire. But when Douglas subsequently visited Chicago to speak in his own defense, the ships in the harbor lowered their flags to half-mast, the church bells tolled for an hour, and a crowd of 10,000 hooted so loudly that he could not make himself heard.

The immediate results of Douglas’s ill-starred measure were momentous. The Whig Party, which had straddled the question of slavery expansion, sank to its death, and in its stead a powerful new organization arose, the Republican Party, whose primary demand was that slavery be excluded from all the territories. In 1856, it nominated John Fremont, whose expeditions into the Far West had won him renown. Fremont lost the election, but the new party swept a great part of the North. Such free-soil leaders as Salmon P. Chase and William Seward exerted greater influence than ever. Along with them appeared a tall, lanky Illinois attorney, Abraham Lincoln.

Meanwhile, the flow of both Southern slave holders and antislavery families into Kansas resulted in armed conflict. Soon the territory was being called “bleeding Kansas.” The Supreme Court made things worse with its infamous 1857 Dred Scott decision.

Scott was a Missouri slave who, some 20 years earlier, had been taken by his master to live in Illinois and the Wisconsin Territory; in both places, slavery was banned. Returning to Missouri and becoming discontented with his life there, Scott sued for liberation on the ground of his residence on free soil. A majority of the Supreme Court – dominated by Southerners – decided that Scott lacked standing in court because he was not a citizen; that the laws of a free state (Illinois) had no effect on his status because he was the resident of a slave state (Missouri); and that slave holders had the right to take their “property” anywhere in the federal territories. Thus, Congress could not restrict the expansion of slavery. This last assertion invalidated former compromises on slavery and made new ones impossible to craft.

The Dred Scott decision stirred fierce resentment throughout the North. Never before had the Court been so bitterly condemned. For Southern Democrats, the decision was a great victory, since it gave judicial sanction to their justification of slavery throughout the territories.

LINCOLN, DOUGLAS, AND BROWN

Abraham Lincoln had long regarded slavery as an evil. As early as 1854 in a widely publicized speech, he declared that all national legislation should be framed on the principle that slavery was to be restricted and eventually abolished. He contended also that the principle of popular sovereignty was false, for slavery in the western territories was the concern not only of the local inhabitants but of the United States as a whole.

In 1858 Lincoln opposed Stephen A. Douglas for election to the U.S. Senate from Illinois. In the first paragraph of his opening campaign speech, on June 17, Lincoln struck the keynote of American history for the seven years to follow:

A house divided against itself cannot stand. I believe this government
cannot endure permanently half-slave and half-free. I do not expect the
Union to be dissolved – I do not expect the house to fall – but I do
expect it will cease to be divided.

Lincoln and Douglas engaged in a series of seven debates in the ensuing months of 1858. Senator Douglas, known as the “Little Giant,” had an enviable reputation as an orator, but he met his match in Lincoln, who eloquently challenged Douglas’s concept of popular sovereignty. In the end, Douglas won the election by a small margin, but Lincoln had achieved stature as a national figure.

By then events were spinning out of control. On the night of October 16, 1859, John Brown, an antislavery fanatic who had captured and killed five proslavery settlers in Kansas three years before, led a band of followers in an attack on the federal arsenal at Harper’s Ferry (in what is now West Virginia). Brown’s goal was to use the weapons seized to lead a slave uprising. After two days of fighting, Brown and his surviving men were taken prisoner by a force of U.S. Marines commanded by Colonel Robert E. Lee.

Brown’s attempt confirmed the worst fears of many Southerners. Antislavery activists, on the other hand, generally hailed Brown as a martyr to a great cause. Virginia put Brown on trial for conspiracy, treason, and murder. On December 2, 1859, he was hanged. Although most Northerners had initially condemned him, increasing numbers were coming to accept his view that he had been an instrument in the hand of God.

THE 1860 ELECTION

In 1860 the Republican Party nominated Abraham Lincoln as its candidate for president. The Republican platform declared that slavery could spread no farther, promised a tariff for the protection of industry, and pledged the enactment of a law granting free homesteads to settlers who would help in the opening of the West. Southern Democrats, unwilling in the wake of the Dred Scott case to accept Douglas’s popular sovereignty, split from the party and nominated Vice President John C. Breckenridge of Kentucky for president. Stephen A. Douglas was the nominee of northern Democrats. Diehard Whigs from the border states, formed into the Constitutional Union Party, nominated John C. Bell of Tennessee.

Lincoln and Douglas competed in the North, Breckenridge and Bell in the South. Lincoln won only 39 percent of the popular vote, but had a clear majority of 180 electoral votes, carrying all 18 free states. Bell won Tennessee, Kentucky, and Virginia; Breckenridge took the other slave states except for Missouri, which was won by Douglas. Despite his poor showing, Douglas trailed only Lincoln in the popular vote.