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米国の歴史の概要 – 中央政府の形成

「あらゆる人々は、そして地球上のあらゆる人々の集団は、自治の権利を有する。」

 

州憲法
1787年、フィラデルフィアで開催された憲法制定会議で演説をするジョージ・ワシントン。(Virginia Museum of Fine Arts, Richmond. Gift of Edgar William and Bernice Chrysler Garbisch.)

1787年、フィラデルフィアで開催された憲法制定会議で演説をするジョージ・ワシントン。(Virginia Museum of Fine Arts, Richmond. Gift of Edgar William and Bernice Chrysler Garbisch.)

独立戦争の成功によって、米国民は、「独立宣言」に記されている理想に法律の形を与え、各州の憲法を通じて苦情に対処する機会を得た。1776年5月10日には、大陸会議がすでに、各植民地に対して、「それぞれの構成員の幸福と安全をもたらすために最も適した」新政府を形成することを勧告する決議を採択していた。当時、一部の州はすでに政府を形成しており、また独立宣言の起草後1年以内に、3州を除くすべての州が憲法を起草していた。

これらの新憲法は、民主主義思想の影響を示していた。いずれも植民地としての体験と英国の慣習という堅固な基盤の上に構築されたため、過去との劇的な断絶はなかった。しかし同時に、どの憲法にも、啓蒙主義の思想家が長年にわたって称賛してきた理想である共和主義の精神が息づいていた。

当然のことながら、州憲法の起草者の第1の目的は、「不可分の権利」を確保することだった。これらの権利の侵害が原因で、旧植民地は英国とのつながりを断つことになったのである。従って、どの州憲法も、権利章典の宣言で始まっていた。他州の憲法のモデルとなったバージニア州憲法には、主権在民と公職の交代と選挙の自由という原則の宣言とともに、適切な保釈金と人道的な懲罰、陪審による迅速な審理、報道と良心の自由、および多数派が政府を改革または変革する権利という基本的な自由が列挙されていた。

自由の内容を拡大し、言論、集会、および嘆願の自由を憲法に加えた州もあった。これらの州憲法には、武器を持つ権利、人身保護令状の権利、住居不可侵の権利、そして法の下での平等な保護を受ける権利などの規定が含まれていることが多かった。また、どの州憲法も、行政、立法、および司法の3部門から成る政府組織と、各部門間で相互に抑制と均衡が保たれる制度を定めていた。

ペンシルベニア州の憲法は、最も急進的だった。同州では、フィラデルフィアの職人、辺境地に住むスコットランド系アイルランド人、そしてドイツ語を話す農民たちが、支配権を握っていた。同州議会が採択した憲法は、すべての男性納税者とその息子に選挙権を与え、公職の交代(どんな人であっても、7年間のうち4年間を超えて代議員を務めることはできなかった)を義務づけ、一院制議会を設立した。

これらの州憲法には、特に近年の基準に比べると、一定の歴然たる限界があった。人々の自然権を保障するために設定されたこれらの憲法は、最も基本的な自然権である平等を、万人に確保してはいなかった。ペンシルベニアより南の植民地では、奴隷人口には、人間としての不可分の権利が与えられていなかった。女性には政治的権利がなかった。すべての男性に普通選挙権を与えるに至った州はひとつもなかった。納税者全員に選挙権を与えた州(ペンシルベニアに加えて、デラウェア、ノースカロライナ、ジョージア)でも、公職に就く者は、一定の広さの土地を所有していなければならなかった。

連合規約

英国との闘争によって、植民地の人々の姿勢は大きく変わっていた。各地の議会は、1754年に「オルバニー連合案」を拒絶し、自分たちが選出した機関も含め、どのような機関に対しても、自治の権利を多少とも引き渡すことを拒否していた。しかし、独立戦争の過程で、相互支援の効果が証明され、個々の権限を手放すことに対する不安が大幅に減少した。

1776年に、ジョン・ディッキンソンが、「連合と永続する団結の規約」を作成した。1777年11月に、大陸会議がこれを採択した。連合規約は、全州で批准され、1781年に発効した。新生国家としての脆弱さを反映して、連合規約は、極めて緩やかな連邦を規定するにとどまった。連邦政府には、関税設定、通商規制、および課税の権限が欠けていた。連邦政府には国際関係を規制する権限もほとんどなく、多くの州が独自に外国との交渉を始めていた。9州が独自の陸軍を持ち、海軍を持つ州もいくつかあった。この新国家には、信頼できる共通の通貨がなく、奇妙なほど雑多な貨幣と、驚くほど多様な州や国家の紙幣が使われ、そのどれもが急速に価値を落としていた。

独立戦争後の経済の困難により、変革を求める声が高まった。米英双方の軍に物資を供給していた商人や、英国の重商主義に参加して得ていた恩恵を失った商人にとって、独立戦争の終結は大きな打撃となった。各州は、米国製品を優遇する関税政策をとったが、州によってまちまちだったため、より強力な中央政府が統一された政策を適用することが求められた。

おそらく、独立戦争の後で、最も大きな被害を受けたのは、農民たちだった。農産物の供給が需要を上回り、不動産の差し押さえや債務不履行による禁固刑を免れるための強力な救済を求める、負債を抱えた農民を中心に、社会的動揺が広がった。裁判所には、支払いを求める債権者が起こした訴訟が殺到した。1786年の夏を通じて、いくつかの州では、人民会議や非公式の集会が開かれ、州行政の改革を要求した。

同年秋、マサチューセッツ州で、元陸軍大尉のダニエル・シェイズが指揮する農民の暴徒が、次回の州選挙まで各郡の裁判所が負債に関する判決を下せないようにするため、力に訴え始めた。1787年1月には、1200人の農民から成る寄せ集め部隊が、スプリングフィールドの連邦兵器庫に向かった。主に木の棒やくまでなどの「武器」を手にしたこの反乱軍は、小規模な州民兵軍に追い返された。続いて、ボストンからベンジャミン・リンカーン将軍の率いる援軍が到着し、残るシェイズ軍を撃退した。シェイズはバーモント州に逃亡した。州政府は反乱軍の14人を逮捕し、死刑を宣告したが、最終的には何人かを赦免し、残りは短い刑期で釈放した。この反乱が失敗に終わった後、新たに選出された議会は、過半数が反乱軍に同情し、債務免除の要求の一部を認めた。

国土拡大の問題

独立戦争の終結とともに、米国は再び、西部への拡大をめぐる古い未解決の問題に直面しなければならなかった。それは、土地や毛皮貿易、インディアン、開拓地、そして地方政府などが複雑にからむ問題だった。当時の国内で最も豊穣な土地に誘われて、開拓者たちはアパラチア山脈を越えて西部に流入した。1775年までには、水路に沿って遠方まで点在する前哨の地に、何万人もの入植者が住んでいた。山脈と、何百キロメートルもの距離によって、東部の政治的権力の中心から隔離された住民たちは独自の政府を設立した。東海岸すべての州からの入植者が、肥沃な川沿いの土地や広葉樹の森や、内地のなだらかな草原地帯へと入って行った。1790年までには、アパラチア山脈以西の地域の人口は、12万人をゆうに超えていた。

独立戦争以前に、いくつかの州は、アパラチア山脈以西の広大な、そしてしばしば重なり合う土地の所有権を主張していた。そうした請求権を持たない州にとっては、この豊かな領土の恩恵の配分は不公平なものだった。メリーランド州は、それらの州を代表して、西部の土地を共有財産と見なし、自由かつ独立した複数の政府に連合会議によって分割されるべきだとする決議案を提出した。この案は熱烈には歓迎されなかった。だが1780年に、まずニューヨーク州が請求権を放棄した。1784年には、最も広大な土地の所有権を主張していたバージニア州が、オハイオ川以北の土地をすべて手放した。その他の州もそれぞれ請求権を放棄し、オハイオ川以北およびアレゲーニー山脈以西のすべての土地が連合会議の所有となることが明らかになった。この何百万ヘクタールもの土地が共有地となったことは、国家意識と統一の最も具体的な証拠であり、国家の主権という概念にある程度の実質を与えるものだった。同時に、この広大な領土は、解決策を必要とする課題でもあった。

連合会議は、この新たな北西準州のために、限定的な自治制度を設立した。1787年の北西部条例で、当初この領地は、連合会議の任命する知事と複数の判事によって統治される単一の地区と規定された。この準州に、投票年齢に達した男性の自由民5000人が住むようになったときには、2院制の議会を設置し、自ら下院議員を選出できることになっていた。そしてその時点で、投票権のない代議員を連合会議に送ることができた。準州への定住が進めば、3州から5州が形成され、いずれかの州の自由民人口が6万人に達すると、その州は「あらゆる面で当初の諸州と同等の立場で」、連邦に参加することになっていた。この条例は、公民権と自由を保障し、教育を奨励し、奴隷制やその他の形態の強制労働を禁止した。

この新しい政策は、植民地は母国の利益のために存在し、政治的に従属的な存在であり、その住民は社会的に下位であるという、古来の概念を拒否するものだった。それに代わってこの政策は、植民地(準州)は国家の延長であり、特典ではなく権利として、あらゆる恩恵を平等に受ける資格がある、という原則を打ち立てた。

憲法制定会議

北西部条例が制定されたころには、米国の指導者たちは、すでに、連合規約に代わる、より強力な新憲法の草案の作成を始めていた。議長役を務めたジョージ・ワシントンは、米国の各州は「砂のロープ」でつながれているにすぎない、と記述したが、これは正しかった。メリーランド州とバージニア州の間で、ポトマック川の航行権をめぐって紛争が発生し、その結果1786年にメリーランド州アナポリス市で、5州の代表による会議が開かれた。代議員の1人だったニューヨーク州のアレグザンダー・ハミルトンは、通商は政治・経済の大きな課題と結びついていることを説き、他の代議員を納得させた。必要なのは連合自体を根本的に考え直すことだった。

アナポリス会議は、全州に対し、翌春フィラデルフィア市で開催される会議に各州が派遣する代表を指名するよう呼びかけた。大陸会議は、当初、いかにも大胆な手法に憤慨したが、ワシントンがこの計画を支持し、代議員の1人に選出されると、大陸会議も不本意ながら従った。その後、秋・冬を通じて、ロードアイランド州を除く全州で選挙が行われた。

1787年5月の連邦憲法制定会議には、そうそうたる著名人が集まった。各州議会は、植民地や州の政府、連合会議、裁判所、軍隊で豊富な経験を持つ指導者たちを派遣した。高潔な人格と、独立戦争での軍人としての指導力によって、最も優れた米国市民と見なされていたワシントンが、議長に選ばれた。

意欲的な出席者の中でも、とりわけ顕著な人物として、2人のペンシルベニア州民がいた。国家政府の必要性を強く認識していたグーバヌア・モリスと、国家政府の概念を根気よく推進したジェームズ・ウィルソンである。同州からは、公職者として、また科学者としての輝かしい業績の終盤を迎えつつあったベンジャミン・フランクリンも派遣された。バージニアからは、政治と歴史に造詣の深い、実務的な若い政治家、ジェームズ・マディソンが派遣された。彼は同僚から「勤勉と実践の精神により・・・どんな論点に関しても最も多くの知識を持つ男」と評され、後に「憲法の父」と呼ばれるようになった。

マサチューセッツ州は、能力と経験を備えた青年、ルーファス・キングとエルブリッジ・ゲリーを派遣した。コネティカット州の代表の1人は、靴職人から判事になったロジャー・シャーマンだった。この会議を提唱したアレグザンダー・ハミルトンが、ニューヨーク州の代議員となった。米国公使としてフランスに駐在していたトマス・ジェファソン、および同じく公使として英国にいたジョン・アダムズは、この会議を欠席した。55人の代議員の多くは若く、平均年齢は42歳だった。

連合会議は憲法制定会議に、連合規約の修正条項の草案作成の権限しか与えていなかった。だが、後にマディソンが記述したように、代議員たちは「祖国に対する勇敢な信頼をもって」、連合規約を完全に無視し、全く新しい形の政府構築へと突き進んだ。

彼らは、2つの異なる権限に折り合いをつけることが最優先で必要とされることを認識していた。すなわち、すでに13の半独立州が行使している地方政府の権限と、中央政府の権限の調整である。彼らは、新しい総合的かつ包括的な中央政府の機能と権限は慎重に定義され記述される一方、それ以外のすべての機能と権限は各州に帰属するものと理解される、という原則を採用した。しかし、中央政府は本当の力を持たなければならないことを認識していた代議員たちは、中央政府には、とりわけ貨幣鋳造、通商規制、宣戦布告、講和の権限が与えられるべきだという事実も、おおむね受容した。

討論と妥協

フィラデルフィアに集まった18世紀の政治家たちは、政治における力の均衡というモンテスキューの考え方を支持していた。この原則は、植民地の体験によって裏付けられ、また代議員のほとんどが親しんでいたジョン・ロックの著作によって強化されていた。こうした影響力は、政府には3つの同等かつ協調的な部門が確立されるべきだという確信につながった。立法、行政、司法の3部門は、誰かが支配権を握ることを決して許さないような形で、調和的に均衡させることになった。立法府は、植民地議会や英国議会のように2つの議院から成るべきだという点で、代議員たちの意見は一致していた。

以上の点については、制憲会議に総意があった。だが、激しい意見対立も持ち上がった。例えばニュージャージー州のような小規模な州の代表は、連合規約下のような州単位の代わりに、州人口に基づく代表権にすれば、小規模州の中央政府における影響力を減少してしまうとして、変更に反対した。

これに対してバージニア州など大規模な州の代表は、人口に比例する代表制を支持した。この討論は際限なく続くかと思われたが、ロジャー・シャーマンの提案が契機となって合意が達成された。シャーマン案は、議会の2議院のうち、下院では州人口に比例する代表制を採用し、上院では各州が同数の代表を持つ、というものだった。

こうして、大規模州対小規模州の対立は解消された。だが、その後も、ほぼあらゆる問題をめぐって新たな対立が発生し、新たな妥協案によってのみ解決が図られた。北部諸州は、各州の税負担分を決める際には奴隷を数に入れるが、下院の議席数を割り当てる際には奴隷を数えないことを望んだ。妥協案として、自由な州民の人数に、奴隷の人数の5分の3を加えた数に基づいて、徴税と下院議席数の割当を決めることが提案され、ほとんど異議なく採用された。

シャーマンやエルブリッジ・ゲリーなど一部の代議員は、シェイズの反乱の苦い体験の傷がうずいていたことから、大衆には自治に必要十分な知恵がないことを恐れ、連邦政府のどの部門も人民の直接選挙で選ばれないことを望んだ。一方、中央政府は可能な限り広範な人民の基盤を持つべきだ、と考える人々もいた。また、拡大する西部が州となる可能性を排除したい代議員もいれば、1787年の北西部条例で確立された平等の原則を支持する意見もあった。

紙幣、契約責任に関する法律、あるいは政治の世界から閉め出されていた女性の役割など、国家レベルの経済問題については、深刻な意見の相違はなかった。しかし、分野別の経済的利害を均衡させ、最高行政官の権限、任期、および選出をめぐる議論を決着させ、判事の長期在職権および設置される裁判所の種類に関する問題を解決する必要があった。

フィラデルフィアの暑い夏を通じて、憲法制定会議は苦労を重ね、ようやく憲法草案を作成した。この草案は、明確に定義され限定された範囲内で最高の権限を持つ、史上最も複雑な政府の構成を、簡潔な文書にまとめたものだった。この政府は、税を課し、融資を受け、均一の関税と物品税を確立し、貨幣を鋳造し、州間の通商を規制し、度量衡を設定し、特許や著作権を与え、郵便局を設置し、郵便道路を建設することに関して、完全な権限を有することになった。また、陸軍と海軍を編成・維持し、アメリカ先住民に関する業務を管理し、外交を行い、戦争を遂行する権限を与えられていた。外国人の帰化や公有地の管理に関する法律を可決することができ、既存の州と全く同等のものとして、新しい州を承認することができた。そして、これらの明確に定義された権限を行使するために必要かつ適切な法律をすべて可決する権限を持つことにより、連邦政府は、後の世代と大きく拡大した国民集団の要求にも応じることができるようになった。

権力の分割の原則は、すでにほとんどの州の憲法でかなり試されており、健全であることが証明されていた。そこで、制憲会議では、立法、行政、司法の3部門に分かれ、その相互が抑制し合う統治制度を確立した。かくして、議会が制定した法律は、大統領の承認を得るまでは、法として成立しないことになった。また大統領は、最も重要な任命とすべての条約を上院に提出し、その承認を得ることになった。議会は、大統領を弾劾し、解任できることになった。司法は、連邦法および合衆国憲法の下で発生したすべての訴訟を審理することになった。事実上、裁判所は、基本法と制定法の両方を解釈する権限を与えられた。しかし、司法の構成員は、大統領に指名され、上院の承認を受けて就任し、議会によって弾劾されることが可能だった。

軽率な憲法修正を防ぐために、憲法第5条の規定は、憲法修正案は、議会の両議院で3分の2の発議によるか、各州が憲法会議を開催し全州の3分の2が承認することによって提起されることを規定した。修正案は、全州の4分の3の州議会で批准されるか、または4分の3の州の議会で開かれた憲法会議で批准されるものとし、これら2つの採択方法のいずれをとるかは、連邦議会が提案することになっていた。

最後に、憲法制定会議は、新政府に与えられる権限をどのように執行するかという、最も重要な問題に取り組んだ。連合規約の下では、中央政府は条文の上では、多大な権限を持っていたが、各州がこれを無視したため、実質的には無力に等しかった。新政府を同様の運命から救うためには、どうすればよいのか。

当初、ほとんどの代議員は、ひとつの答えを出した。力の行使である。しかし、各州に対して力を行使すれば、連邦は破壊される、という認識がすぐに生まれた。政府は各州に対してではなく、各州内の人民に対して行動し、国内の個々の住民すべてに関する立法を行うべきだ、との決断が下された。憲法の基本原理として、制憲会議は、短いが極めて重要な2つの規定を採用した。すなわち―

連邦議会は次の権限を有する・・・この憲法によって合衆国政府・・・に対し与えられた・・・権限を行使するために、必要かつ適切なすべての法律を制定すること。(第1条第8節)

この憲法と、これに準拠して制定される合衆国の法律、および合衆国の権限をもってすでに締結された、あるいは将来締結される、すべての条約は、国の最高の法規である。これによって各州の裁判官は、各州憲法または州法の中に反対の規定がある場合でも、これに拘束される。(第6条)

かくして米国の法律は、米国の連邦裁判所で、その判事および連邦執行官を通じて執行可能となるとともに、州裁判所でも州の判事および司法官を通じて執行可能となった。

憲法を起草した人々の動機については、今日に至るまで議論が続いている。1913年に、歴史家のチャールズ・ベアードは、『経済学的憲法解釈(An Economic Interpretation of the Constitution)』で、建国の父たちは、台頭する商業資本主義の利害を代表しており、それには強力な中央政府が必要だった、と主張した。また、彼らの多くは価値の低下した公債を大量に保有していたため、個人的な利害も動機だったと、ベアードは考えた。しかし、憲法起草の中心的な存在だったジェームズ・マディソンは公債を保有しておらず、バージニア州の農園主だった。逆に、憲法反対派の中にも、多くの債券や証券を保有する人々がいた。経済的な利害は、論争の過程に影響を及ぼしたが、それは州や地方、イデオロギーに基づく利害も同じだった。起草者たちの理想主義も、同じく重要な役割を果たした。啓蒙主義の産物である建国の父たちは、個人の自由と公共の美徳を促進するような政府を目指した。合衆国憲法が体現する理想は、米国の国家としてのアイデンティティの重要な要素であり続けている。

憲法の批准と権利章典

1787年9月17日、16週間に及ぶ討議の末、完成した憲法に、出席した代議員42人中39人が署名した。フランクリンは、ワシントンのいすの背に描かれた、金色の輝く太陽が半分顔を出しているデザインを指して、次のように述べた。

私は、この会議の間に、何度も・・・議長の後ろのいすを見て、これが昇っているのか沈もうとしているのか判断しかねていた。しかし今、ようやく私は、これが沈んでいくのではなく、昇ろうとしている太陽であることを知って、嬉しく思う。

会議は終了し、代議員らは「町の酒場に席を移して、食事を共にし、真心を込めた別れの挨拶を交わした」 しかしまだ、より完璧な連合国家を目指す努力の重要な部分が残っていた。すなわち、憲法文書が発効するためには、各州の民選による憲法会議の合意が必要だった。

憲法制定会議は、憲法が発効するには、13州のうち9州による批准が必要だと定めた。1788年6月までに、必要とされる9州の批准が得られたが、バージニアとニューヨークという2つの大きな州がまだ批准していなかった。この2州の支持がなければ、憲法が守られることはあるまい、というのが大方の意見だった。多くの人々にとって、この憲法は危険に満ちているように見えた。この憲法によって設立される強力な中央政府が、圧制を行い、重税を課し、人民を戦争に引きずり込むことはないのだろうか―。

こうした問題に対する異なる意見が、2つの政党を生み出した。強力な中央政府を支持する連邦党と、各州による緩やかな連合を支持する反連邦党である。双方の熱気に満ちた主張が、新聞、議会、州会議などで発表された。

バージニア州では、反連邦党が、合衆国憲法の冒頭にある「われら合衆国の人民」という語句に異議を唱えて、提案されている新政府を攻撃した。彼らは、憲法に個々の州名を記さなければ、各州が独立した権利あるいは権限を保持することはできない、と主張した。バージニア州の反連邦党の主導者はパトリック・ヘンリーで、彼は新しい中央政府の権限を恐れた田舎の農民たちの声を代弁する存在となった。迷っていた代議員たちは、バージニア州会議が権利章典を提唱すべきだという提案によって納得し、反連邦党が連邦党に同調して、6月25日に憲法が批准された。

ニューヨーク州では、アレグザンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイ、ジェームズ・マディソンの3人が、『ザ・フェデラリスト(・ペーパーズ)』と呼ばれる一連の小論文で、憲法批准を推進した。ニューヨークの各紙に掲載されたこれらの小論文は、分離した行政・立法・司法の各部門が相互に均衡と抑制を維持する形の中央連邦政府という、今では古典的な主張を展開した。『ザ・フェデラリスト』はニューヨーク州の代議員たちに影響を与え、7月26日に憲法が批准された。

憲法反対派の懸念の原因は、強力な中央政府に対する反感だけではなかった。この憲法は、個人の権利と自由を十分に保護していないのではないかとの不安も、同様に多くの人々を懸念させた。1776年のバージニア州権利宣言を起草した、同州のジョージ・メーソンは、憲法制定会議に出席したが、個人の権利が列挙されていないという理由で、完成した憲法に署名をすることを拒否した代議員3人のうちの1人だった。メーソンは、ヘンリーと共に、バージニア州による合衆国憲法批准に反対する熱心な運動を展開した。実際、マサチューセッツ州をはじめとする5州が、そのような修正条項を直ちに付加することを条件に、合衆国憲法を批准していた。

1789年9月にニューヨーク市で第1回連邦議会が開催された時、個人の権利を保護する修正条項を要求する声は、ほぼ一色となっていた。連邦議会は迅速に、12項目のそうした修正条項を採択した。1791年12月までには、そのうちの10条項が、必要な数の州によって批准され、憲法に付加されることになった。これらの修正条項は「権利章典」と呼ばれ、その規定には、言論、出版、信教の自由、および平穏に集会し、抗議し、変化を要求する権利(修正第1条)、不当な捜索、財産の押収、および逮捕からの保護(修正第4条)、あらゆる刑事事件における適正な法手続き(修正第5条)、公正かつ迅速な裁判を受ける権利(修正第6条)、残酷で異常な刑罰からの保護(修正第8条)、そして、憲法に挙げられていない追加的な諸権利は人民が保有すること(修正第9条)などがある。

権利章典の採択以降、憲法に追加された修正条項は、17項目だけである。それらの修正条項には、連邦政府の構造や運営を改正するものもあったが、多くは、権利章典の前例を踏襲し、個人の権利や自由を拡大するものだった。

ワシントン大統領

連合会議が最後に行ったことのひとつは、初代大統領を選び、新政府発足の日を1789年3月4日とすることだった。新しい国家元首として誰もが挙げた名前は、ジョージ・ワシントンだった。ワシントンは、満場一致で大統領に選ばれ、1789年4月30日、就任に際して宣誓を行った。ワシントンは、大統領としての職務を忠実に果たし、全力を尽くして「合衆国の憲法を維持し、保護し、防衛する」ことを誓った。この言葉はその後、歴代のすべての大統領が用いている。

ワシントンが大統領に就任した時には、この新憲法は、伝統もなく、また組織的な世論の支持も得ていなかった。新政府は、自らの機構を創設し、それを支える課税の制度を法制化しなければならなかった。司法制度が確立されるまでは、法を執行することができなかった。陸軍の規模は小さく、海軍はもはや存在しなかった。

連邦議会は、直ちに国務省と財務省を設置し、トマス・ジェファソンとアレグザンダー・ハミルトンをそれぞれの長官とした。陸軍省と司法省も設置された。ワシントン大統領は、自分が信頼する人々の意見を聞いた上で決断を下すことを好んだため、連邦議会が設置するすべての省の長官から成り大統領に仕える閣僚が生まれた。同時に連邦議会は、連邦政府の司法制度として、長官1人と判事5人を持つ最高裁判所、3つの巡回裁判所、そして13の地方裁判所を設立した。

一方で、国土は成長を続け、欧州からの移民が増加していた。米国民は西部へと移動していた。ニューイングランドやペンシルベニア州の人々はオハイオ州へ、またバージニア州やカロライナの人々はケンタッキー州やテネシー州へと移住していた。豊かな農地を低価格で入手することができ、労働力の需要は大きかった。ニューヨーク州北部から、ペンシルベニア州、バージニア州に広がる肥沃な谷間の土地は、間もなく小麦の豊かな産地となった。

多くの品物は依然として自家製だったが、米国でも産業革命が始まろうとしていた。マサチューセッツ州とロードアイランド州は、重要な産業となる繊維業の基盤を築きつつあった。コネティカット州は、スズ(錫)製品や時計の製造を始めていた。ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニアの各州は、紙、ガラス、鉄を生産していた。海運業が大きく成長し、米国は、海運では、英国に次いで世界第2位となっていた。1790年以前にも、米国の船舶は毛皮を売るために中国へ行き、茶、香料、絹などを持ち帰っていた。

米国が成長を続けるこの重要な時期にあたり、ワシントン大統領の賢明な指導力は不可欠だった。ワシントンは、連邦政府を組織し、英国やスペインの領地だった土地の開拓に関する政策を策定し、北西部の辺境地帯を安定させ、バーモント(1791年)、ケンタッキー(1792年)、テネシー(1796年)の3つの新しい州の加盟を監督した。また初代大統領は辞任演説で、「国外の世界のいかなる部分とも永久的な同盟を結ぶことを避ける」よう、全国民に警告した。この忠告は、その後何世代にもわたって、諸外国に対する米国の態度に影響を与えることになった。

ハミルトン対ジェファソン

1790年代に、米国の最初の政党同士の間で対立が発生した。アレグザンダー・ハミルトンの率いる連邦党と、トマス・ジェファソンの率いる共和党(民主共和党ともいう)は、西洋世界で初めての政党だった。英国の下院、あるいは独立戦争前のアメリカの植民地に見られた緩やかな政治的なグループ作りとは違って、この両党は、ある程度一貫し、原則に基づいた政治綱領と、比較的安定した大衆的支持と、継続的な組織を持っていた。

連邦党は、商業・製造業が世界の前進の原動力であると考え、主としてこうした産業の利害を代表した。そして、これらの産業の推進は、健全な公的貸付と安定した通貨を確立することのできる強力な中央政府によってのみ可能になると考えた。彼らは、大衆の持つ潜在的な急進主義に対する不信をあらわにしていたにもかかわらず、労働者や職人にアピールすることができた。彼らの政治的な拠点はニューイングランドの諸州にあった。連邦党は、英国を、多くの点で米国が見習うべき模範と見なし、かつての母国との良好な関係を求めた。

アレグザンダー・ハミルトンは、公選職に就くだけの大衆的な人気を集めることはできなかったが、連邦党のイデオロギーと公共政策の生みの親として最も大きな存在だった。彼は、効率と秩序と組織の尊重を公的生活に持ち込んだ。「公的貸付に対する適切な支援」を求める下院の要請に対して、ハミルトンは、公共経済の原則だけでなく、効果的な政府の原則をも定め、促進した。彼は、工業の発展、商業活動、そして政府の運営のための貸付が米国には必要であり、その債務は、国民の完全な信頼と支持を得たものでなければならない、と指摘した。

国家連合時代の債務を無効としたいとか、あるいはその一部だけを支払いたいと望む人々が多かった。ハミルトンは、全額の支払いを主張するとともに、独立戦争中に発生した各州の未払い債務を連邦政府が引き受ける計画を提唱した。また彼は、合衆国銀行の設立法案を議会で通過させた。合衆国銀行は、英国銀行をモデルとしたもので、国家の中央金融機関として機能し、全米各地に支店を開いた。ハミルトンは、国立造幣局の設置を主唱し、また新興企業の一時的な保護は、競争力のある国家産業の発展を促進すると主張して、関税を支持した。連邦政府による貸付の基盤を固め、必要なだけの歳入を政府に与えるためのこうした諸措置は、商工業を奨励し、中央政府を強く支持する堅固な利益集団を生み出した。

トマス・ジェファソンの率いる共和党は、主に農業の利害と価値観を代表していた。彼らは、銀行家を信用せず、商工業を軽視し、自由と民主主義は、自給自足の農民から成る農村社会で最もよく普及すると考えていた。共和党は、強力な中央政府の必要性をほとんど感じなかった。むしろ中央政府は抑圧の潜在的な原因だとみなす傾向があった。従って彼らは、州権を支持した。共和党は、南部で最も強力だった。

ハミルトンは、より効率的な組織を大きな目標としたが、ジェファソンは、「私は活発な政府にとって友人ではない」と述べた。ハミルトンは、無政府状態を恐れ、秩序を基盤に物事を考えていた。ジェファソンは、圧制を恐れ、その思考は自由を基盤としていた。ハミルトンが英国を模範としたのに対し、フランス革命の初期にフランス公使を務めたジェファソンは、フランスの君主制の打倒を、啓蒙主義の自由主義的理想の正当性を証明するものと見なした。ハミルトンの本能的な保守主義に対して、ジェファソンは雄弁な民主的急進主義を提示した。

ジェファソンの国務長官就任後間もなく、この2人の初期の衝突が発生し、憲法の極めて重要な新解釈につながった。ハミルトンが国立銀行を設置する法案を提出したとき、ジェファソンは、州の権利を信じる人々を代表して、合衆国憲法は連邦政府に帰属する権限を明白に列挙し、その他のすべての権限を州権として留保しているではないか、と主張した。連邦政府が銀行設置の権限を持つことなど、憲法の中でどこにも記されていないではないか、と。 これに対してハミルトンは、必要な細目は山ほどあるため、膨大な権限のひとかたまりは、一般の条文に含めざるを得なかったのだ、と主張した。そうした条文のひとつが、具体的に付与されている他の権限を行使するために、議会に「必要かつ適切なあらゆる立法を行う」ための権限を与えているのだ、と。憲法は確かに、連邦政府に対し課税と徴税を行い、債務を支払い、借金をする権限を認めていた。すると国立銀行も、こうした機能の効率的な実施に大きく貢献することになるはず。従って連邦議会には、その包括的な権限の下で、そのような銀行を設置する資格がある、という主張だった。ワシントンと連邦議会は、こうしたハミルトンの意見を受け入れ、連邦政府の権限を広く解釈する重要な前例を作ったのである。

市民ジュネと外交政策

新政府の最初の仕事のひとつは、国内経済を強化し、国家財政を確かなものにすることだったが、米国は外交を無視することはできなかった。ワシントンの外交政策の基盤は、平和を維持し、米国に傷をいやす時間を与え、国家の統合という時間のかかる作業を継続することだった。しかし、欧州における出来事が、こうした目標を脅かした。多くの米国人は、フランス革命を、強い関心と同感を持ちながら見守った。1793年4月、フランスが英国とスペインに宣戦布告したこと、そして新しいフランス公使、エドモン・シャルル・ジュネ―通称「市民ジュネ」―が米国に赴任することが伝えられた。

フランス革命の結果、1793年1月にルイ16世が処刑されると、英国、スペイン、オランダが、フランスとの戦いに巻き込まれた。1778年の米仏同盟条約により、米国とフランスは永久的な同盟国となっており、米国には、フランスの西インド諸島防衛を援助する義務があった。しかしながら、軍事的・経済的に極めて弱体な国家だった米国は、欧州の強国を相手とする新たな戦いに加わる状況にはなかった。

1793年4月22日、米国は「戦っている諸国に対し友好的かつ中立的」であると宣言することによって、米国の独立を可能にした1778年の条約の規定を、ワシントン大統領は、事実上無効とした。米国に到着したジュネは、多くの市民に歓迎されたが、米国政府からは、形式的で冷たい扱いを受けた。これに怒ったジュネは、捕獲した英国船は私掠船(敵国の船舶を襲うことを委任された私有の軍艦)に転用しないとの約束を破った。さらにジュネは、自分の主張を、米国政府の頭越しに、直接米国民に訴える構えを見せた。その後間もなく、米国政府はフランス政府にジュネ公使の更迭を要求した。

ジュネ事件は米国とフランスの関係を緊張させたが、そのころは、米国と英国の関係も決して良好とは言えなかった。英軍が依然として西部各地の砦を占領しており、独立戦争中に英軍兵士が奪い去った財産は、返還も支払いもされておらず、フランスの港へ向かう米国船を英国海軍が捕獲していた。米英両国は戦争に向かって流されているように見えた。ワシントンは、初代最高裁長官ジョン・ジェイを、特使としてロンドンに派遣した。ジェイは、英軍兵士を西部の砦から撤退させるが、英国人が北西部でインディアンとの毛皮貿易を継続することを認める条約を交渉した。英国政府は、1793年と94年に捕獲した米国船と貨物の損害賠償金を支払うことに同意したが、将来の捕獲の可能性については確約しなかった。また、この条約は、英国が米国人船員を英国海軍に「強制徴募」している厄介な問題に対処しておらず、米国の西インド諸島との貿易を厳しく制限していた。そして中立国の船舶で敵国の港に向かう食糧、海軍軍需品、および軍用資材は禁制品であり押収の対象となる、という英国の見解を受け入れていた。

一方、米国の外交官チャールズ・ピンクニーは、スペインとの交渉で、より大きな成功を収めた。彼は1795年に、フロリダの境界を米国に有利に定め、ニューオーリンズ港へのアクセスを確保する重要な条約の交渉に当たったのである。しかし、ジョン・ジェイの英国との条約は、世界の超大国に相対した時、米国が依然として弱体であることを反映していた。この条約は極めて不評であり、はっきり支持を表明したのは、英国との文化的・経済的なつながりを重視する連邦党だけだった。ワシントンは、この条約を、入手可能な最良の取引であると考えて支持した。上院は、激しい討論の末に条約を承認した。

ジュネ仏公使の横柄な行動とジェイ特使の条約は、2つの大国の間に挟まれた弱小国が直面する困難と、連邦党と共和党の間の世界観の大きな違いを表していた。連邦党にとって、暴力と急進性を増すフランス革命を支持する共和党は危険な急進主義者(「ジャコバン派」)であり、共和党にとって、英国との友好を支持する者は、米国民の自然権を妨げる王政派だった。連邦党は、美徳と国家の発展を、商業に結び付けた。共和党は、広大な農業共和国となることが米国の運命である、と考えた。この対立する見解に基づく政争は、ますます激化していった。

アダムズとジェファソン

ワシントンは、国家元首を8年以上務めることを固辞し、1797年に引退した。バージニア州のトマス・ジェファソン(共和党)とジョン・アダムズ(連邦党)が後継の座を争い、アダムズが僅差で当選した。しかし、当初から、アダムズの率いる政党と政権は、アダムズ支持派と、ライバルであるハミルトンの支持派に二分されていた。

アダムズ新大統領は、深刻な国際問題に直面していた。ジェイが結んだ対英条約に憤慨したフランスは、禁制品に関する独自の定義を採用し、英国に向かう米国船を捕獲し始めた。1797年までに、フランスは米国船300隻を捕獲し、米国との外交関係を絶った。アダムズは、交渉のため3人の弁務官をパリに派遣したが、フランスの外相シャルル・モーリス・ド・タレーランの代理人たち(アダムズの連邦議会への報告書ではX、Y、Zと呼ばれている)は、米国がフランスに1200万ドルを融資し、フランス政府関係者に賄賂を渡せば交渉を開始する、と米国側に告げた。フランスに対する米国の敵意が急激に高まった。これは「XYZ事件」と呼ばれ、その結果として、米軍に入隊する兵士が増え、新生の米国海軍が強化された。

1799年、フランスとの一連の海戦が行われ、戦争は避けられないかに見えた。こうした危機に際して、アダムズ大統領は、戦争を望むハミルトンの意見を聞き入れずに、フランスとの交渉を再開した。権力の座に着いたばかりのナポレオンは、米国の代表を丁重に迎えた。1800年の協定交渉によって戦争の危機は収まり、この協定で米国は、1778年の米仏防衛同盟から正式に脱退した。しかし、フランスが、仏海軍の捕獲した米国船の損害賠償金2000万ドルの支払を拒否したことは、米国の弱い立場を反映していた。

フランスに対する敵意は、連邦議会による「外国人法」「動乱法」の可決につながり、この法律は、米国の市民の自由に多大な悪影響を及ぼした。市民権獲得の要件となる米国在住期間を5年から14年に延長した「帰化法」は、共和党支持派と見なされたアイルランド人およびフランス人移民を標的としたものだった。有効期間を2年に限定した外国人法は、戦時に外国人を追放または監禁する権限を大統領に与えた。動乱法は、大統領あるいは連邦議会に関して「虚偽の、中傷的な、そして悪意のある」内容を書いたり、話したり、出版したりすることを禁止した。同法により有罪となった人はごく少数だったが、市民の自由のために戦う殉教者と見なされ、共和党への支持を喚起した。

これらの諸法は、抵抗にあった。ジェファソンとマディソンは、1798年11月と12月に、ケンタッキーとバージニア両州で州決議の採択を発議した。これらの決議は、極端な州権を宣言したもので、州は連邦政府の法的措置に対し、自らの見解を「さしはさみ」、これらの措置を「無効化する」ことができる、と主張するものだった。この無効化の原則は、後に南部諸州が保護関税に反対する際に、そして、より深刻な例として、奴隷制の存続を支持する際に使われた。

1800年までには、米国民は変化を受け入れる用意ができていた。ワシントンとアダムズ両大統領の下で、連邦党は強力な政府を樹立していた。だが、米国の政府は人民の意志に対応しなければならないという原則に従わず、大きな集団を離反させるような政策を実施することもあった。その一例として、1798年には、家屋、土地、および奴隷に対する課税を制定し、全国の土地所有者に影響を及ぼした。

ジェファソンは、小規模農民や商店主やその他の労働者の大きな集団を味方につけ、激戦の末わずかの差で大統領選に勝利した。ジェファソンは、米国民の理想主義にアピールすることによって、多大な人気を得た。彼は、新首都ワシントンDCで行われた初めての大統領就任演説で、住民の秩序を維持する一方、国民が「その他の面では自らの勤労と改善の追求を自由に管理する」ような、「賢明かつ質素な政府」を約束した。

ホワイトハウスにおけるジェファソンの存在自体が、民主的な手続きを奨励した。彼は、大統領職に伴う華やかさと仰々しさの多くを避け、民主的な簡素さを説き、実行した。共和党のイデオロギーに沿って、ジェファソンは軍事支出を大きく削減した。また彼は、米国は抑圧されている人々の避難所であると考え、寛大な帰化法を確保した。ジェファソンの第2期目が終わる頃までには、先見の明のある財務長官アルバート・ギャラティンが、国家債務を5億6000万ドル以下まで減らしていた。広く人気を博したジェファソンは、容易に再選を果たした。

ルイジアナと英国

ジェファソン大統領の業績のひとつは、米国の面積を倍増させたことである。7年戦争の終わりに、フランスはミシシッピ川以西の領土をスペインに譲渡していた。オハイオ川およびミシシッピ川流域の米国製品を輸送するには、ミシシッピ川の河口に近いニューオーリンズ港へのアクセスが不可欠であった。ジェファソンの大統領就任後間もなく、フランスのナポレオンは、弱体なスペイン政府に、この広大なルイジアナ地方をフランスに返還することを強制した。この動きは、米国民を不安にさせると同時に憤慨させた。米国のすぐ西隣に巨大な植民地帝国を築こうとするフランスの計画は、米国の将来の発展を大きく脅かすものだった。ジェファソンは、フランスがルイジアナを所有したならば、「その瞬間から、われわれは英国および英国海軍と手を結ばなければならない」と断言した。

しかしフランスは、ハイチの奴隷の反乱によってハイチから追い出されると、ルイジアナに対する興味を失ってしまった。英国との戦争が再び迫っていることを認識したナポレオンは、ルイジアナを米国に売却することによって国庫を潤すとともに、ルイジアナを英国の手から遠ざける決断を下した。ナポレオンの提案によって、ジェファソンはジレンマに直面した。合衆国憲法では、領土買収の明確な権限が与えられていなかった。当初、ジェファソンは憲法修正を提案しようとしたが、そのために買収が遅れれば、ナポレオンの気が変わるかもしれなかった。領土買収の権限は条約締結の権限に内在している、との助言を受けて、ジェファソンは提案を取りやめ、「緩い解釈によって悪影響が出た場合は、わが国の良識がそれを是正するだろう」と述べた。

米国は、1803年に、1500万ドルで「ルイジアナ買収」を行った。この土地は、総面積260万平方キロメートルを超え、ニューオーリンズ港も含まれていた。米国が入手した豊かな平原、山地、森林、および河川系は、それから80年足らずのうちに、米国の中心地域となると同時に、世界の穀倉地帯となった。

第2期ジェファソン政権の始まった1805年に、ジェファソンは、英国とフランスの紛争に際しては、米国が中立を保つことを宣言した。英仏ともに、相手国への中立国からの海上輸送を制限しようとしたが、制海権を持っていた英国による輸送阻止と捕獲は、ナポレオンのフランスによる措置に比べ、はるかに深刻な脅威となった。英国海軍の司令官らは、日常的に米国船を捜索し、船舶と貨物を押収し、英国の臣民と見なされた船員を連れ去った。また、米国人船員を英国軍に強制徴募することも多かった。

ジェファソンが、英国の軍艦に米国の領海から退去することを命じる布告を出すと、英国はさらに多くの船員を強制徴募することでこれに応じた。そこでジェファソンは経済的圧力を使う決断を下した。1807年12月、連邦議会は禁輸法を可決し、すべての国際通商を禁止した。皮肉なことに、この法律は、連邦政府の権限を大幅に拡大する強力な警察権を必要とした。経済的には、この法律は悲惨な結果をもたらした。米国の輸出は、1年間でそれまでの5分の1に減少した。海運業界は、この措置によって、破滅に近い状況に追い込まれた。ニューイングランドやニューヨークで不満が増大した。農業も大きな打撃を受けた。南部と西部の農家が余剰の穀物、綿、肉、タバコを輸出できなくなり、価格が急落した。

禁輸措置は、英国の政策を変えさせることはできなかった。国内で不満の声が高まるにつれ、ジェファソンは、より穏便な措置を採用し、国内の海運業界をある程度なだめることができた。1809年初頭に、ジェファソンは、英国とフランスと両国の属領を除くすべての諸国との通商を許可する通商禁止法に署名した。

1809年に、ジェームズ・マディソンがジェファソンの後を継いで大統領に就任した。英国との関係は悪化し、両国は急速に戦争に向かっていた。大統領は、連邦議会に詳細な報告を提出し、英国が米国民を強制徴募した例を数千件挙げた。また、北西部では、入植者がインディアンに攻撃され、入植者たちは、カナダにいる英国人工作員がインディアンを扇動していると考えた。このため、多くの米国民は、カナダを征服して、北米における英国の影響力を払拭すると同時に、強制徴募や通商の抑圧に対する報復をすることを望んだ。1812年までには、戦争熱が支配的になっていた。6月18日、米国は英国に宣戦布告した。

1812年戦争

米国は、国内で意見が激しく対立したまま、戦争に突入した。南部と西部の人々は戦争を支持したが、ニューヨークとニューイングランドの人々は、通商を妨げる戦争に反対した。米国の軍隊は弱体だった。正規の兵士は7000人に満たず、沿岸地帯、カナダ国境付近や遠隔の内地に、広く分散して配置された。各州の民兵は、訓練もろくに受けておらず、規律にも欠けていた。

戦闘は、カナダ侵略から始まった。これは、タイミングも手際もよかったら、モントリオールに対する統一作戦となるはずだった。しかし軍事行動全体が失敗に終わり、デトロイトを英国軍に占領される結果となった。しかし米国海軍は、いくつかの成功は収めた。また、米国の私掠船が大挙して大西洋に集まり、1812年から13年にかけての秋・冬に英国船500隻を捕獲した。

1813年の作戦行動はエリー湖を中心に行われた。後に大統領となるウィリアム・ヘンリー・ハリソン将軍は、ケンタッキー州の民兵や志願兵、正規兵士から成る軍隊を率いて、デトロイトの奪還を目指した。9月12日、まだオハイオ州北部にいたハリソンに、オリバー・ハザード・ペリー提督がエリー湖で英国艦隊を壊滅させたとの知らせが届いた。ハリソンはデトロイトを占領し、カナダに攻め込み、撤退する英国軍と、英国軍に協力するインディアンたちを、テムズ川で破った。こうして、この地域全体が米国の支配下に入った。

その1年後、トマス・マクドナ提督が、ニューヨーク州北部のシャンプラン湖における英国艦隊との至近距離の砲撃戦で勝利を収めた。海軍の援護を失った英国の侵攻部隊1万人は、カナダから撤退した。しかし、英国艦隊は、「破壊し荒廃させよ」との指令の下で、なおも米国東海岸に対する攻撃を続けた。1814年8月24日夜、遠征軍が米国の民兵軍を大敗させ、ワシントンDCへ進軍して、首都を炎上させた。ジェームズ・マディソン大統領は、バージニア州へ避難した。

英米の交渉担当者は、ヨーロッパで協議を進めていたが、シャンプラン湖でのマクドナ提督の勝利を知らされた英国使節団は、敗北を認める決断を下した。英国は、主としてナポレオン戦争の重い負担による国庫の枯渇に直面していたため、英国の交渉担当者たちは1814年12月、ガン(ヘント)講和条約を受諾した。この条約は、戦闘の停止、占領地の返還、および国境紛争を解決する委員会の設置を規定したものだった。和平条約が締結されたことを知らない英米両軍は、1815年に入っても、ルイジアナ州ニューオーリンズ市付近で戦闘を続けた。アンドルー・ジャクソン将軍の率いる米国軍は、陸上戦におけるこの戦争で最大の勝利を収め、英国がカナダ国境以南の北米大陸で再び影響力を持つ望みを完全に絶ち切った。

英米両国が終戦交渉を行っている間に、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカット、バーモント、およびニューハンプシャーの各州議会が選出した連邦党の代議員たちが、コネティカット州ハートフォード市に集まり、「マディソン氏の戦争」への反対を表明した。ニューイングランド地方は、この戦いの期間を通じて、敵国との貿易を続けており、この通商によって繁栄していた地域もあった。しかし連邦党は、この戦争は経済を破壊している、と主張した。ハートフォードの会議では、連邦からの脱退の可能性も踏まえた上で、ニューイングランドの利益を保護する一連の憲法修正案が提出された。しかし結果的には、ニューオーリンズでの米国軍の大勝とともに戦争が終結したため、連邦党は、国に対する背信の烙印を押されることになり、その後もこの汚名から立ち直ることができなかった。

 

第2の大覚醒運動

18世紀末までは、教育のある米国民の多くは、伝統的なキリスト教信仰を公言しないようになっていた。19世紀前半には、当時の世俗主義への反動として、宗教の復活が西部へ向けて広がっていった。

この「第2の大覚醒運動」は、地域と宗教への献身の表現方法の違いによって異なる、いくつかの活動で構成されていた。ニューイングランド地方では、宗教への新たな関心が、社会運動の高まりにつながった。ニューヨーク州西部では、宗教復活の精神が、新たな宗派の誕生を促した。ケンタッキー、テネシー両州のアパラチア地方では、宗教復活によってメソジスト派とバプテスト派が強化され、野外伝道集会という新しい形の宗教表現が生まれた。

1730年代の大覚醒運動とは対照的に、東部での宗教復活は、ヒステリー状態や露骨な感情表現を伴わないことを特徴としていた。信仰を証言する人々の「敬意に満ちた沈黙」は、信仰を持たない人々に畏敬の念を起こさせた。ニューイングランドでの熱心な福音主義は、西部で福音を説くことを目的とする諸宗派間の伝道協会の形成につながった。これらの協会の会員は、伝道師としてだけでなく、教育者、市民団体の指導者、そして東部の都市文化の擁護者としての役割を果たした。出版・教育関係の協会が、キリスト教教育を促進した。中でも最も有名な協会のひとつが、1816年に設立された米国聖書協会である。宗教復活によって喚起された社会運動から、奴隷解放団体や禁酒促進協会が生まれ、刑務所改革、身体的、精神的な障害者に対するケアなどの活動が発生した。

オンタリオ湖からアディロンダック山脈にかけてのニューヨーク西部地域は、それまでにも多くの宗教復活の舞台となったため、「燃え尽くし地区」と呼ばれるようになっていた。ここでは、チャールズ・グランディソン・フィニーという弁護士が、宗教的な啓示を受けて福音を説き、有力な存在となっていた。フィニーの宗教復活活動は、綿密な計画と派手な演出と宣伝を特徴としていた。彼は、1820年代および30年代初頭を通じて、このニューヨーク西側の地域で説教を続けた後、1835年にオハイオ州のオバーリン大学の神学部教授となり、後には同大学の学長を務めた。

このほかにも、米国における重要な宗派のうちの2つ、モルモン教とセブンスデー・アドベンティスト派が、この地域で生まれた。

アパラチア地域での宗教復活は、前世紀の大覚醒運動と似た性質のものとなった。しかし、ここでは、遠くから集まってきて、現地で寝泊りしなければならない人々のために、数日間にわたって礼拝を行う野外伝道集会が、中心的な役割を果たした。人口の少ない土地に住む開拓者たちにとって、こうした野外集会は、辺境地域における孤独をいやす機会となった。数百人あるいは数千人の人々とともに宗教復活活動に参加することは、人々の気持ちを大きく高揚させ、こうした集会には、ダンス、歓呼、そして歌がつきものとなった。おそらく最大の野外集会とされる、1801年8月のケンタッキー州ケーンリッジ市の集会には、1万人から2万5000人が参加した。

宗教復活は、ケンタッキー、テネシー、およびオハイオ州南部に急速に広がり、メソジスト派とバプテスト派が最も大きく発展した。この両派は、いずれも辺境地域での成長に適した特徴を備えていた。メソジスト派は、辺境の僻地を訪れる巡回牧師を基盤とする、極めて効率的な組織を有していた。巡回牧師たちは、一般市民の出身であり、辺境地帯の開拓者たちと親しい関係を築くことができた。バプテスト派には、正式な教会組織はなく、農民出身の牧師たちは、神の「お召し」を受けて、聖書を学び、教会を設立し、その教会によって叙任された人々だった。これらの教会から、さらに牧師の候補者が生まれ、遠い開拓地へと広がっていった。こうしてバプテスト派は、国境地帯の各州および南部のほとんどの州で優勢となった。

第2の大覚醒運動は、米国の歴史に極めて重要な影響を及ぼした。植民地時代に有力だった英国教会、長老派、および会衆派に比して、バプテスト派とメソジスト派が信者を増やし、力をつけていった。米国のプロテスタント内部における変化は、拡張する国家の成長と多様性を反映するものだった。

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The Formation of a National Government

(The following article is taken from the U.S. Department of State publication Outline of U.S. History.)

“Every man, and every body of men on Earth, possesses the right of self‑government.”
‑ Drafter of the Declaration of Independence Thomas Jefferson, 1790

STATE CONSTITUTIONS

The success of the Revolution gave Americans the opportunity to give legal form to their ideals as expressed in the Declaration of Independence, and to remedy some of their grievances through state constitutions. As early as May 10, 1776, Congress had passed a resolution advising the colonies to form new governments “such as shall best conduce to the happiness and safety of their constituents.” Some of them had already done so, and within a year after the Declaration of Independence, all but three had drawn up constitutions.

The new constitutions showed the impact of democratic ideas. None made any drastic break with the past, since all were built on the solid foundation of colonial experience and English practice. But each was also animated by the spirit of republicanism, an ideal that had long been praised by Enlightenment philosophers.

Naturally, the first objective of the framers of the state constitutions was to secure those “unalienable rights” whose violation had caused the former colonies to repudiate their connection with Britain. Thus, each constitution began with a declaration or bill of rights. Virginia’s, which served as a model for all the others, included a declaration of principles: popular sovereignty, rotation in office, freedom of elections, and an enumeration of fundamental liberties: moderate bail and humane punishment, speedy trial by jury, freedom of the press and of conscience, and the right of the majority to reform or alter the government.

Other states enlarged the list of liberties to freedom of speech, of assembly, and of petition. Their constitutions frequently included such provisions as the right to bear arms, to a writ of habeas corpus, to inviolability of domicile, and to equal protection under the law. Moreover, all prescribed a three-branch structure of government – executive, legislative, and judiciary – each checked and balanced by the others. Pennsylvania’s constitution was the most radical. In that state, Philadelphia artisans, Scots-Irish frontiersmen, and German-speaking farmers had taken control. The provincial congress adopted a constitution that permitted every male taxpayer and his sons to vote, required rotation in office (no one could serve as a representative more than four years out of every seven), and set up a single-chamber legislature.

The state constitutions had some glaring limitations, particularly by more recent standards. Constitutions established to guarantee people their natural rights did not secure for everyone the most fundamental natural right – equality. The colonies south of Pennsylvania excluded their slave populations from their inalienable rights as human beings. Women had no political rights. No state went so far as to permit universal male suffrage, and even in those states that permitted all taxpayers to vote (Delaware, North Carolina, and Georgia, in addition to Pennsylvania), office-holders were required to own a certain amount of property.

THE ARTICLES OF CONFEDERATION

The struggle with England had done much to change colonial attitudes. Local assemblies had rejected the Albany Plan of Union in 1754, refusing to surrender even the smallest part of their autonomy to any other body, even one they themselves had elected. But in the course of the Revolution, mutual aid had proved effective, and the fear of relinquishing individual authority had lessened to a large degree.

John Dickinson produced the “Articles of Confederation and Perpetual Union” in 1776. The Continental Congress adopted them in November 1777, and they went into effect in 1781, having been ratified by all the states. Reflecting the fragility of a nascent sense of nationhood, the Articles provided only for a very loose union. The national government lacked the authority to set up tariffs, to regulate commerce, and to levy taxes. It possessed scant control of international relations: A number of states had begun their own negotiations with foreign countries. Nine states had their own armies, several their own navies. In the absence of a sound common currency, the new nation conducted its commerce with a curious hodgepodge of coins and a bewildering variety of state and national paper bills, all fast depreciating in value.

Economic difficulties after the war prompted calls for change. The end of the war had a severe effect on merchants who supplied the armies of both sides and who had lost the advantages deriving from participation in the British mercantile system. The states gave preference to American goods in their tariff policies, but these were inconsistent, leading to the demand for a stronger central government to implement a uniform policy.

Farmers probably suffered the most from economic difficulties following the Revolution. The supply of farm produce exceeded demand; unrest centered chiefly among farmer-debtors who wanted strong remedies to avoid foreclosure on their property and imprisonment for debt. Courts were clogged with suits for payment filed by their creditors. All through the summer of 1786, popular conventions and informal gatherings in several states demanded reform in the state administrations.

That autumn, mobs of farmers in Massachusetts under the leadership of a former army captain, Daniel Shays, began forcibly to prevent the county courts from sitting and passing further judgments for debt, pending the next state election. In January 1787 a ragtag army of 1,200 farmers moved toward the federal arsenal at Springfield. The rebels, armed chiefly with staves and pitchforks, were repulsed by a small state militia force; General Benjamin Lincoln then arrived with reinforcements from Boston and routed the remaining Shaysites, whose leader escaped to Vermont. The government captured 14 rebels and sentenced them to death, but ultimately pardoned some and let the others off with short prison terms. After the defeat of the rebellion, a newly elected legislature, whose majority sympathized with the rebels, met some of their demands for debt relief.

THE PROBLEM OF EXPANSION

With the end of the Revolution, the United States again had to face the old unsolved Western question, the problem of expansion, with its complications of land, fur trade, Indians, settlement, and local government. Lured by the richest land yet found in the country, pioneers poured over the Appalachian Mountains and beyond. By 1775 the far-flung outposts scattered along the waterways had tens of thousands of settlers. Separated by mountain ranges and hundreds of kilometers from the centers of political authority in the East, the inhabitants established their own governments. Settlers from all the Tidewater states pressed on into the fertile river valleys, hardwood forests, and rolling prairies of the interior. By 1790 the population of the trans-Appalachian region numbered well over 120,000.

Before the war, several colonies had laid extensive and often overlapping claims to land beyond the Appalachians. To those without such claims this rich territorial prize seemed unfairly apportioned. Maryland, speaking for the latter group, introduced a resolution that the western lands be considered common property to be parceled by the Congress into free and independent governments. This idea was not received enthusiastically. Nonetheless, in 1780 New York led the way by ceding its claims. In 1784 Virginia, which held the grandest claims, relinquished all land north of the Ohio River. Other states ceded their claims, and it became apparent that Congress would come into possession of all the lands north of the Ohio River and west of the Allegheny Mountains. This common possession of millions of hectares was the most tangible evidence yet of nationality and unity, and gave a certain substance to the idea of national sovereignty. At the same time, these vast territories were a problem that required solution.

The Confederation Congress established a system of limited self-government for this new national Northwest Territory. The Northwest Ordinance of 1787 provided for its organization, initially as a single district, ruled by a governor and judges appointed by the Congress. When this territory had 5,000 free male inhabitants of voting age, it was to be entitled to a legislature of two chambers, itself electing the lower house. In addition, it could at that time send a nonvoting delegate to Congress. Three to five states would be formed as the territory was settled. Whenever any one of them had 60,000 free inhabitants, it was to be admitted to the Union “on an equal footing with the original states in all respects.” The ordinance guaranteed civil rights and liberties, encouraged education, and prohibited slavery or other forms of involuntary servitude.

The new policy repudiated the time-honored concept that colonies existed for the benefit of the mother country, were politically subordinate, and peopled by social inferiors. Instead, it established the principle that colonies (“territories”) were an extension of the nation and entitled, not as a privilege but as a right, to all the benefits of equality.

CONSTITUTIONAL CONVENTION

By the time the Northwest Ordinance was enacted, American leaders were in the midst of drafting a new and stronger constitution to replace the Articles of Confederation. Their presiding officer, George Washington, had written accurately that the states were united only by a “rope of sand.” Disputes between Maryland and Virginia over navigation on the Potomac River led to a conference of representatives of five states at Annapolis, Maryland, in 1786. One of the delegates, Alexander Hamilton of New York, convinced his colleagues that commerce was bound up with large political and economic questions. What was required was a fundamental rethinking of the Confederation.

The Annapolis conference issued a call for all the states to appoint representatives to a convention to be held the following spring in Philadelphia. The Continental Congress was at first indignant over this bold step, but it acquiesced after Washington gave the project his backing and was elected a delegate. During the next fall and winter, elections were held in all states but Rhode Island.

A remarkable gathering of notables assembled at the Federal Convention in May 1787. The state legislatures sent leaders with experience in colonial and state governments, in Congress, on the bench, and in the army. Washington, regarded as the country’s first citizen because of his integrity and his military leadership during the Revolution, was chosen as presiding officer.

Prominent among the more active members were two Pennsylvanians: Gouverneur Morris, who clearly saw the need for national government, and James Wilson, who labored indefatigably for the national idea. Also elected by Pennsylvania was Benjamin Franklin, nearing the end of an extraordinary career of public service and scientific achievement. From Virginia came James Madison, a practical young statesman, a thorough student of politics and history, and, according to a colleague, “from a spirit of industry and application ... the best-informed man on any point in debate.” He would be recognized as the “Father of the Constitution.”

Massachusetts sent Rufus King and Elbridge Gerry, young men of ability and experience. Roger Sherman, shoemaker turned judge, was one of the representatives from Connecticut. From New York came Alexander Hamilton, who had proposed the meeting. Absent from the Convention were Thomas Jefferson, who was serving as minister representing the United States in France, and John Adams, serving in the same capacity in Great Britain. Youth predominated among the 55 delegates–the average age was 42.

Congress had authorized the Convention merely to draft amendments to the Articles of Confederation but, as Madison later wrote, the delegates, “with a manly confidence in their country,” simply threw the Articles aside and went ahead with the building of a wholly new form of government.

They recognized that the paramount need was to reconcile two different powers – the power of local control, which was already being exercised by the 13 semi-independent states, and the power of a central government. They adopted the principle that the functions and powers of the national government – being new, general, and inclusive – had to be carefully defined and stated, while all other functions and powers were to be understood as belonging to the states. But realizing that the central government had to have real power, the delegates also generally accepted the fact that the government should be authorized, among other things, to coin money, to regulate commerce, to declare war, and to make peace.

DEBATE AND COMPROMISE

The 18th-century statesmen who met in Philadelphia were adherents of Montesquieu’s concept of the balance of power in politics. This principle was supported by colonial experience and strengthened by the writings of John Locke, with which most of the delegates were familiar. These influences led to the conviction that three equal and coordinate branches of government should be established. Legislative, executive, and judicial powers were to be so harmoniously balanced that no one could ever gain control. The delegates agreed that the legislative branch, like the colonial legislatures and the British Parliament, should consist of two houses.

On these points there was unanimity within the assembly. But sharp differences also arose. Representatives of the small states – New Jersey, for instance – objected to changes that would reduce their influence in the national government by basing representation upon population rather than upon statehood, as was the case under the Articles of Confederation.

On the other hand, representatives of large states, like Virginia, argued for proportionate representation. This debate threatened to go on endlessly until Roger Sherman came forward with arguments for representation in proportion to the population of the states in one house of Congress, the House of Representatives, and equal representation in the other, the Senate.

The alignment of large against small states then dissolved. But almost every succeeding question raised new divisions, to be resolved only by new compromises. Northerners wanted slaves counted when determining each state’s tax share, but not in determining the number of seats a state would have in the House of Representatives. According to a compromise reached with little dissent, tax levies and House membership would be apportioned according to the number of free inhabitants plus three-fifths of the slaves.

Certain members, such as Sherman and Elbridge Gerry, still smarting from Shays’s Rebellion, feared that the mass of people lacked sufficient wisdom to govern themselves and thus wished no branch of the federal government to be elected directly by the people. Others thought the national government should be given as broad a popular base as possible. Some delegates wished to exclude the growing West from the opportunity of statehood; others championed the equality principle established in the Northwest Ordinance of 1787.

There was no serious difference on such national economic questions as paper money, laws concerning contract obligations, or the role of women, who were excluded from politics. But there was a need for balancing sectional economic interests; for settling arguments as to the powers, term, and selection of the chief executive; and for solving problems involving the tenure of judges and the kind of courts to be established.

Laboring through a hot Philadelphia summer, the convention finally achieved a draft incorporating in a brief document the organization of the most complex government yet devised – one that would be supreme within a clearly defined and limited sphere. It would have full power to levy taxes, borrow money, establish uniform duties and excise taxes, coin money, regulate interstate commerce, fix weights and measures, grant patents and copyrights, set up post offices, and build post roads. It also was authorized to raise and maintain an army and navy, manage Native-American affairs, conduct foreign policy, and wage war. It could pass laws for naturalizing foreigners and controlling public lands; it could admit new states on a basis of absolute equality with the old. The power to pass all necessary and proper laws for executing these clearly defined powers rendered the federal government able to meet the needs of later generations and of a greatly expanded body politic.

The principle of separation of powers had already been given a fair trial in most state constitutions and had proved sound. Accordingly, the convention set up a governmental system with separate legislative, executive, and judiciary branches – each checked by the others. Thus congressional enactments were not to become law until approved by the president. And the president was to submit the most important of his appointments and all his treaties to the Senate for confirmation. The president, in turn, could be impeached and removed by Congress. The judiciary was to hear all cases arising under federal laws and the Constitution; in effect, the courts were empowered to interpret both the fundamental and the statute law. But members of the judiciary, appointed by the president and confirmed by the Senate, could also be impeached by Congress.

To protect the Constitution from hasty alteration, Article V stipulated that amendments to the Constitution be proposed either by two‑thirds of both houses of Congress or by two-thirds of the states, meeting in convention. The proposals were to be ratified by one of two methods: either by the legislatures of three-fourths of the states, or by convention in three-fourths of the states, with the Congress proposing the method to be used.

Finally, the convention faced the most important problem of all: How should the powers given to the new government be enforced? Under the Articles of Confederation, the national government had possessed – on paper – significant powers, which, in practice, had come to naught, for the states paid no attention to them. What was to save the new government from the same fate?

At the outset, most delegates furnished a single answer – the use of force. But it was quickly seen that the application of force upon the states would destroy the Union. The decision was that the government should not act upon the states but upon the people within the states, and should legislate for and upon all the individual residents of the country. As the keystone of the Constitution, the convention adopted two brief but highly significant statements:

Congress shall have power ... to make all Laws which shall be necessary and
proper for carrying into Execution the ... Powers vested by this Constitution
in the Government of the United States. ...

(Article I, Section 7)

This Constitution, and the Laws of the United States which shall be made in
Pursuance thereof; and all Treaties made, or which shall be made, under the
Authority of the United States, shall be the supreme Law of the Land; and the
Judges in every State shall be bound thereby, any Thing in the Constitution or
Laws of any State to the Contrary notwithstanding.

(Article VI)

Thus the laws of the United States became enforceable in its own national courts, through its own judges and marshals, as well as in the state courts through the state judges and state law officers.

Debate continues to this day about the motives of those who wrote the Constitution. In 1913 historian Charles Beard, in An Economic Interpretation of the Constitution, argued that the Founding Fathers represented emerging commercial-capitalist interests that needed a strong national government. He also believed many may have been motivated by personal holdings of large amounts of depreciated government securities. However, James Madison, principal drafter of the Constitution, held no bonds and was a Virginia planter. Conversely, some opponents of the Constitution owned large amounts of bonds and securities. Economic interests influenced the course of the debate, but so did state, sectional, and ideological interests. Equally important was the idealism of the framers. Products of the Enlightenment, the Founding Fathers designed a government that they believed would promote individual liberty and public virtue. The ideals embodied in the U.S. Constitution remain an essential element of the American national identity.

RATIFICATION AND THE BILL OF RIGHTS

On September 17, 1787, after 16 weeks of deliberation, the finished Constitution was signed by 39 of the 42 delegates present. Franklin, pointing to the half‑sun painted in brilliant gold on the back of Washington’s chair, said:

I have often in the course of the session ... looked at that [chair] behind
the president, without being able to tell whether it was rising or setting;
but now, at length, I have the happiness to know that it is a rising, and
not a setting, sun.

The convention was over; the members “adjourned to the City Tavern, dined together, and took a cordial leave of each other.” Yet a crucial part of the struggle for a more perfect union remained to be faced. The consent of popularly elected state conventions was still required before the document could become effective.

The convention had decided that the Constitution would take effect upon ratification by conventions in nine of the 13 states. By June 1788 the required nine states had ratified the Constitution, but the large states of Virginia and New York had not. Most people felt that without their support the Constitution would never be honored. To many, the document seemed full of dangers: Would not the strong central government that it established tyrannize them, oppress them with heavy taxes, and drag them into wars?

Differing views on these questions brought into existence two parties, the Federalists, who favored a strong central government, and the Antifederalists, who preferred a loose association of separate states. Impassioned arguments on both sides were voiced by the press, the legislatures, and the state conventions.

In Virginia, the Antifederalists attacked the proposed new government by challenging the opening phrase of the Constitution: “We the People of the United States.” Without using the individual state names in the Constitution, the delegates argued, the states would not retain their separate rights or powers. Virginia Antifederalists were led by Patrick Henry, who became the chief spokesman for back-country farmers who feared the powers of the new central government. Wavering delegates were persuaded by a proposal that the Virginia convention recommend a bill of rights, and Antifederalists joined with the Federalists to ratify the Constitution on June 25.

In New York, Alexander Hamilton, John Jay, and James Madison pushed for the ratification of the Constitution in a series of essays known as The Federalist Papers. The essays, published in New York newspapers, provided a now-classic argument for a central federal government, with separate executive, legislative, and judicial branches that checked and balanced one another. With The Federalist Papers influencing the New York delegates, the Constitution was ratified on July 26.

Antipathy toward a strong central government was only one concern among those opposed to the Constitution; of equal concern to many was the fear that the Constitution did not protect individual rights and freedoms sufficiently. Virginian George Mason, author of Virginia’s Declaration of Rights of 1776, was one of three delegates to the Constitutional Convention who had refused to sign the final document because it did not enumerate individual rights. Together with Patrick Henry, he campaigned vigorously against ratification of the Constitution by Virginia. Indeed, five states, including Massachusetts, ratified the Constitution on the condition that such amendments be added immediately.

When the first Congress convened in New York City in September 1789, the calls for amendments protecting individual rights were virtually unanimous. Congress quickly adopted 12 such amendments; by December 1791, enough states had ratified 10 amendments to make them part of the Constitution. Collectively, they are known as the Bill of Rights. Among their provisions: freedom of speech, press, religion, and the right to assemble peacefully, protest, and demand changes (First Amendment); protection against unreasonable searches, seizures of property, and arrest (Fourth Amendment); due process of law in all criminal cases (Fifth Amendment); right to a fair and speedy trial (Sixth Amendment); protection against cruel and unusual punishment (Eighth Amendment); and provision that the people retain additional rights not listed in the Constitution (Ninth Amendment).

Since the adoption of the Bill of Rights, only 17 more amendments have been added to the Constitution. Although a number of the subsequent amendments revised the federal government’s structure and operations, most followed the precedent established by the Bill of Rights and expanded individual rights and freedoms.

PRESIDENT WASHINGTON

One of the last acts of the Congress of the Confederation was to arrange for the first presidential election, setting March 4, 1789, as the date that the new government would come into being. One name was on everyone’s lips for the new chief of state – George Washington. He was unanimously chosen president and took the oath of office at his inauguration on April 30, 1789. In words spoken by every president since, Washington pledged to execute the duties of the presidency faithfully and, to the best of his ability, to “preserve, protect, and defend the Constitution of the United States.”

When Washington took office, the new Constitution enjoyed neither tradition nor the full backing of organized public opinion. The new government had to create its own machinery and legislate a system of taxation that would support it. Until a judiciary could be established, laws could not be enforced. The army was small. The navy had ceased to exist.

Congress quickly created the departments of State and Treasury, with Thomas Jefferson and Alexander Hamilton as their respective secretaries. Departments of War and Justice were also created. Since Washington preferred to make decisions only after consulting those men whose judgment he valued, the American presidential Cabinet came into existence, consisting of the heads of all the departments that Congress might create. Simultaneously, Congress provided for a federal judiciary – a Supreme Court, with one chief justice and five associate justices, three circuit courts, and 13 district courts.

Meanwhile, the country was growing steadily and immigration from Europe was increasing. Americans were moving westward: New Englanders and Pennsylvanians into Ohio; Virginians and Carolinians into Kentucky and Tennessee. Good farms were to be had for small sums; labor was in strong demand. The rich valley stretches of upper New York, Pennsylvania, and Virginia soon became great wheat-growing areas.

Although many items were still homemade, the Industrial Revolution was dawning in the United States. Massachusetts and Rhode Island were laying the foundation of important textile industries; Connecticut was beginning to turn out tinware and clocks; New York, New Jersey, and Pennsylvania were producing paper, glass, and iron. Shipping had grown to such an extent that on the seas the United States was second only to Britain. Even before 1790, American ships were traveling to China to sell furs and bring back tea, spices, and silk.

At this critical juncture in the country’s growth, Washington’s wise leadership was crucial. He organized a national government, developed policies for settlement of territories previously held by Britain and Spain, stabilized the northwestern frontier, and oversaw the admission of three new states: Vermont (1791), Kentucky (1792), and Tennessee (1796). Finally, in his Farewell Address, he warned the nation to “steer clear of permanent alliances with any portion of the foreign world.” This advice influenced American attitudes toward the rest of the world for generations to come.

HAMILTON VS. JEFFERSON

A conflict took shape in the 1790s between America’s first political parties. Indeed, the Federalists, led by Alexander Hamilton, and the Republicans (also called Democratic-Republicans), led by Thomas Jefferson, were the first political parties in the Western world. Unlike loose political groupings in the British House of Commons or in the American colonies before the Revolution, both had reasonably consistent and principled platforms, relatively stable popular followings, and continuing organizations.

The Federalists in the main represented the interests of trade and manufacturing, which they saw as forces of progress in the world. They believed these could be advanced only by a strong central government capable of establishing sound public credit and a stable currency. Openly distrustful of the latent radicalism of the masses, they could nonetheless credibly appeal to workers and artisans. Their political stronghold was in the New England states. Seeing England as in many respects an example the United States should try to emulate, they favored good relations with their former mother country.

Although Alexander Hamilton was never able to muster the popular appeal to stand successfully for elective office, he was far and away the Federalists’ main generator of ideology and public policy. He brought to public life a love of efficiency, order, and organization. In response to the call of the House of Representatives for a plan for the “adequate support of public credit,” he laid down and supported principles not only of the public economy, but of effective government. Hamilton pointed out that the United States must have credit for industrial development, commercial activity, and the operations of government, and that its obligations must have the complete faith and support of the people.

There were many who wished to repudiate the Confederation’s national debt or pay only part of it. Hamilton insisted upon full payment and also upon a plan by which the federal government took over the unpaid debts of the states incurred during the Revolution. He also secured congressional legislation for a Bank of the United States. Modeled after the Bank of England, it acted as the nation’s central financial institution and operated branches in different parts of the country. Hamilton sponsored a national mint, and argued in favor of tariffs, saying that temporary protection of new firms could help foster the development of competitive national industries. These measures – placing the credit of the federal government on a firm foundation and giving it all the revenues it needed – encouraged commerce and industry, and created a solid phalanx of interests firmly behind the national government.

The Republicans, led by Thomas Jefferson, spoke primarily for agricultural interests and values. They distrusted bankers, cared little for commerce and manufacturing, and believed that freedom and democracy flourished best in a rural society composed of self-sufficient farmers. They felt little need for a strong central government; in fact, they tended to see it as a potential source of oppression. Thus they favored states’ rights. They were strongest in the South.

Hamilton’s great aim was more efficient organization, whereas Jefferson once said, “I am not a friend to a very energetic government.” Hamilton feared anarchy and thought in terms of order; Jefferson feared tyranny and thought in terms of freedom. Where Hamilton saw England as an example, Jefferson, who had been minister to France in the early stages of the French Revolution, looked to the overthrow of the French monarchy as vindication of the liberal ideals of the Enlightenment. Against Hamilton’s instinctive conservatism, he projected an eloquent democratic radicalism.

An early clash between them, which occurred shortly after Jefferson took office as secretary of state, led to a new and profoundly important interpretation of the Constitution. When Hamilton introduced his bill to establish a national bank, Jefferson, speaking for those who believed in states’ rights, argued that the Constitution expressly enumerated all the powers belonging to the federal government and reserved all other powers to the states. Nowhere was the federal government empowered to set up a bank.

Hamilton responded that because of the mass of necessary detail, a vast body of powers had to be implied by general clauses, and one of these authorized Congress to “make all laws which shall be necessary and proper” for carrying out other powers specifically granted. The Constitution authorized the national government to levy and collect taxes, pay debts, and borrow money. A national bank would materially help in performing these functions efficiently. Congress, therefore, was entitled, under its implied powers, to create such a bank. Washington and the Congress accepted Hamilton’s view – and set an important precedent for an expansive interpretation of the federal government’s authority.

CITIZEN GENET AND FOREIGN POLICY

Although one of the first tasks of the new government was to strengthen the domestic economy and make the nation financially secure, the United States could not ignore foreign affairs. The cornerstones of Washington’s foreign policy were to preserve peace, to give the country time to recover from its wounds, and to permit the slow work of national integration to continue. Events in Europe threatened these goals. Many Americans watched the French Revolution with keen interest and sympathy. In April 1793, news came that France had declared war on Great Britain and Spain, and that a new French envoy, Edmond Charles Genet – Citizen Genet – was coming to the United States.

When the revolution in France led to the execution of King Louis XVI in January 1793, Britain, Spain, and Holland became involved in war with France. According to the Franco-American Treaty of Alliance of 1778, the United States and France were perpetual allies, and the United States was obliged to help France defend the West Indies. However, the United States, militarily and economically a very weak country, was in no position to become involved in another war with major European powers.

On April 22, 1793, Washington effectively abrogated the terms of the 1778 treaty that had made American independence possible by proclaiming the United States to be “friendly and impartial toward the belligerent powers.” When Genet arrived, he was cheered by many citizens, but treated with cool formality by the government. Angered, he violated a promise not to outfit a captured British ship as a privateer (privately owned warships commissioned to prey on ships of enemy nations). Genet then threatened to take his cause directly to the American people, over the head of the government. Shortly afterward, the United States requested his recall by the French government.

The Genet incident strained American relations with France at a time when those with Great Britain were far from satisfactory. British troops still occupied forts in the West, property carried off by British soldiers during the Revolution had not been restored or paid for, and the British Navy was seizing American ships bound for French ports. The two countries seemed to be drifting toward war. Washington sent John Jay, first chief justice of the Supreme Court, to London as a special envoy. Jay negotiated a treaty that secured withdrawal of British soldiers from western forts but allowed the British to continue the fur trade with the Indians in the Northwest. London agreed to pay damages for American ships and cargoes seized in 1793 and 1794, but made no commitments on possible future seizures. Moreover, the treaty failed to address the festering issue of British “impressment” of American sailors into the Royal Navy, placed severe limitations on American trade with the West Indies, and accepted the British view that food and naval stores, as well as war materiel, were contraband subject to seizure if bound for enemy ports on neutral ships.

American diplomat Charles Pinckney was more successful in dealing with Spain. In 1795, he negotiated an important treaty settling the Florida border on American terms and giving Americans access to the port of New Orleans. All the same, the Jay Treaty with the British reflected a continuing American weakness vis-a-vis a world superpower. Deeply unpopular, it was vocally supported only by Federalists who valued cultural and economic ties with Britain. Washington backed it as the best bargain available, and, after a heated debate, the Senate approved it.

Citizen Genet’s antics and Jay’s Treaty demonstrated both the difficulties faced by a small weak nation caught between two great powers and the wide gap in outlook between Federalists and Republicans. To the Federalists, Republican backers of the increasingly violent and radical French Revolution were dangerous radicals (“Jacobins”); to the Republicans, advocates of amity with England were monarchists who would subvert the natural rights of Americans. The Federalists connected virtue and national development with commerce; the Republicans saw America’s destiny as that of a vast agrarian republic. The politics of their conflicting positions became increasingly vehement.

ADAMS AND JEFFERSON

Washington retired in 1797, firmly declining to serve for more than eight years as the nation’s head. Thomas Jefferson of Virginia (Republican) and John Adams (Federalist) vied to succeed him. Adams won a narrow election victory. From the beginning, however, he was at the head of a party and an administration divided between his backers and those of his rival, Hamilton.

Adams faced serious international difficulties. France, angered by Jay’s treaty with Britain, adopted its definition of contraband and began to seize American ships headed for Britain. By 1797 France had snatched 300 American ships and broken off diplomatic relations with the United States. When Adams sent three commissioners to Paris to negotiate, agents of Foreign Minister Charles Maurice de Talleyrand (whom Adams labeled X, Y, and Z in his report to Congress) informed the Americans that negotiations could only begin if the United States loaned France $12 million and bribed officials of the French government. American hostility to France rose to an excited pitch. The so-called XYZ Affair led to the enlistment of troops and the strengthening of the fledgling U.S. Navy.

In 1799, after a series of sea battles with the French, war seemed inevitable. In this crisis, Adams rejected the guidance of Hamilton, who wanted war, and reopened negotiations with France. Napoleon, who had just come to power, received them cordially. The danger of conflict subsided with the negotiation of the Convention of 1800, which formally released the United States from its 1778 defense alliance with France. However, reflecting American weakness, France refused to pay $20 million in compensation for American ships taken by the French Navy.

Hostility to France had led Congress to pass the Alien and Sedition Acts, which had severe repercussions for American civil liberties. The Naturalization Act, which changed the requirement for citizenship from five to 14 years, was targeted at Irish and French immigrants suspected of supporting the Republicans. The Alien Act, operative for two years only, gave the president the power to expel or imprison aliens in time of war. The Sedition Act proscribed writing, speaking, or publishing anything of “a false, scandalous, and malicious” nature against the president or Congress. The few convictions won under it created martyrs to the cause of civil liberties and aroused support for the Republicans.

The acts met with resistance. Jefferson and Madison sponsored the passage of the Kentucky and Virginia Resolutions by the legislatures of these two states in November and December 1798. Extreme declaration of states’ rights, the resolutions asserted that states could “interpose” their views on federal actions and “nullify” them. The doctrine of nullification would be used later for the Southern states’ resistance to protective tariffs, and, more ominously, slavery.

By 1800 the American people were ready for a change. Under Washington and Adams, the Federalists had established a strong government, but sometimes failing to honor the principle that the American government must be responsive to the will of the people, they had followed policies that alienated large groups. For example, in 1798 they had enacted a tax on houses, land, and slaves, affecting every property owner in the country.

Jefferson had steadily gathered behind him a great mass of small farmers, shopkeepers, and other workers. He won a close victory in a contested election. Jefferson enjoyed extraordinary favor because of his appeal to American idealism. In his inaugural address, the first such speech in the new capital of Washington, D.C., he promised “a wise and frugal government” that would preserve order among the inhabitants but leave people “otherwise free to regulate their own pursuits of industry, and improvement.”

Jefferson’s mere presence in the White House encouraged democratic procedures. He preached and practiced democratic simplicity, eschewing much of the pomp and ceremony of the presidency. In line with Republican ideology, he sharply cut military expenditures. Believing America to be a haven for the oppressed, he secured a liberal naturalization law. By the end of his second term, his far-sighted secretary of the treasury, Albert Gallatin, had reduced the national debt to less than $560 million. Widely popular, Jefferson won reelection as president easily.

LOUISIANA AND BRITAIN

One of Jefferson’s acts doubled the area of the country. At the end of the Seven Years’ War, France had ceded its territory west of the Mississippi River to Spain. Access to the port of New Orleans near its mouth was vital for the shipment of American products from the Ohio and Mississippi river valleys. Shortly after Jefferson became president, Napoleon forced a weak Spanish government to cede this great tract, the Louisiana Territory, back to France. The move filled Americans with apprehension and indignation. French plans for a huge colonial empire just west of the United States seriously threatened the future development of the United States. Jefferson asserted that if France took possession of Louisiana, “from that moment we must marry ourselves to the British fleet and nation.”

Napoleon, however, lost interest after the French were expelled from Haiti by a slave revolt. Knowing that another war with Great Britain was impending, he resolved to fill his treasury and put Louisiana beyond the reach of Britain by selling it to the United States. His offer presented Jefferson with a dilemma: The Constitution conferred no explicit power to purchase territory. At first the president wanted to propose an amendment, but delay might lead Napoleon to change his mind. Advised that the power to purchase territory was inherent in the power to make treaties, Jefferson relented, saying that “the good sense of our country will correct the evil of loose construction when it shall produce ill effects.”

The United States obtained the “Louisiana Purchase” for $15 million in 1803. It contained more than 2,600,000 square kilometers as well as the port of New Orleans. The nation had gained a sweep of rich plains, mountains, forests, and river systems that within 80 years would become its heartland – and a breadbasket for the world.

As Jefferson began his second term in 1805, he declared American neutrality in the struggle between Great Britain and France. Although both sides sought to restrict neutral shipping to the other, British control of the seas made its interdiction and seizure much more serious than any actions by Napoleonic France. British naval commanders routinely searched American ships, seized vessels and cargoes, and took off sailors believed to be British subjects. They also frequently impressed American seamen into their service.

When Jefferson issued a proclamation ordering British warships to leave U.S. territorial waters, the British reacted by impressing more sailors. Jefferson then decided to rely on economic pressure; in December 1807 Congress passed the Embargo Act, forbidding all foreign commerce. Ironically, the law required strong police authority that vastly increased the powers of the national government. Economically, it was disastrous. In a single year American exports fell to one-fifth of their former volume. Shipping interests were almost ruined by the measure; discontent rose in New England and New York. Agricultural interests suffered heavily also. Prices dropped drastically when the Southern and Western farmers could not export their surplus grain, cotton, meat, and tobacco.

The embargo failed to starve Great Britain into a change of policy. As the grumbling at home increased, Jefferson turned to a milder measure, which partially conciliated domestic shipping interests. In early 1809 he signed the Non-Intercourse Act permitting commerce with all countries except Britain or France and their dependencies.

James Madison succeeded Jefferson as president in 1809. Relations with Great Britain grew worse, and the two countries moved rapidly toward war. The president laid before Congress a detailed report, showing several thousand instances in which the British had impressed American citizens. In addition, northwestern settlers had suffered from attacks by Indians whom they believed had been incited by British agents in Canada. In turn, many Americans favored conquest of Canada and the elimination of British influence in North America, as well as vengeance for impressment and commercial repression. By 1812, war fervor was dominant. On June 18, the United States declared war on Britain.

THE WAR OF 1812

The nation went to war bitterly divided. While the South and West favored the conflict, New York and New England opposed it because it interfered with their commerce. The U.S. military was weak. The army had fewer than 7,000 regular soldiers, distributed in widely scattered posts along the coast, near the Canadian border, and in the remote interior. The state militias were poorly trained and undisciplined.

Hostilities began with an invasion of Canada, which, if properly timed and executed, would have brought united action against Montreal. Instead, the entire campaign miscarried and ended with the British occupation of Detroit. The U.S. Navy, however, scored successes. In addition, American privateers, swarming the Atlantic, captured 500 British vessels during the fall and winter months of 1812 and 1813.

The campaign of 1813 centered on Lake Erie. General William Henry Harrison – who would later become president – led an army of militia, volunteers, and regulars from Kentucky with the object of reconquering Detroit. On September 12, while he was still in upper Ohio, news reached him that Commodore Oliver Hazard Perry had annihilated the British fleet on Lake Erie. Harrison occupied Detroit and pushed into Canada, defeating the fleeing British and their Indian allies on the Thames River. The entire region now came under American control.

A year later Commodore Thomas Macdonough won a point-blank gun duel with a British flotilla on Lake Champlain in upper New York. Deprived of naval support, a British invasion force of 10,000 men retreated to Canada. Nevertheless, the British fleet harassed the Eastern seaboard with orders to “destroy and lay waste.” On the night of August 24, 1814, an expeditionary force routed American militia, marched to Washington, D.C., and left the city in flames. President James Madison fled to Virginia.

British and American negotiators conducted talks in Europe. The British envoys decided to concede, however, when they learned of Macdonough’s victory on Lake Champlain. Faced with the depletion of the British treasury due in large part to the heavy costs of the Napoleonic Wars, the negotiators for Great Britain accepted the Treaty of Ghent in December 1814. It provided for the cessation of hostilities, the restoration of conquests, and a commission to settle boundary disputes. Unaware that a peace treaty had been signed, the two sides continued fighting into 1815 near New Orleans, Louisiana. Led by General Andrew Jackson, the United States scored the greatest land victory of the war, ending for once and for all any British hopes of reestablishing continental influence south of the Canadian border.

While the British and Americans were negotiating a settlement, Federalist delegates selected by the legislatures of Massachusetts, Rhode Island, Connecticut, Vermont, and New Hampshire gathered in Hartford, Connecticut to express opposition to “Mr. Madison’s war.” New England had managed to trade with the enemy throughout the conflict, and some areas actually prospered from this commerce. Nevertheless, the Federalists claimed that the war was ruining the economy. With a possibility of secession from the Union in the background, the convention proposed a series of constitutional amendments that would protect New England interests. Instead, the end of the war, punctuated by the smashing victory at New Orleans, stamped the Federalists with a stigma of disloyalty from which they never recovered.