国務省出版物
米国の歴史の概要 – 独立への道
18世紀を通じて、北米の英国植民地は成熟し、必然的に顕著な独自性を築いていった。これらの植民地は、経済力と文化水準を大きく高め、事実上そのすべてが長年にわたる自治の歴史を持っていた。1760年代には、植民地の人口は合計150万人を超え、1700年当時に比べると6倍に増えていた。しかし、英国とアメリカの明白な決別が始まるのは、バージニアのジェームズタウン植民地設立から150年以上後の、1763年になってからのことだった。
フレンチ・インディアン戦争の後、英国政府は、いっそう中央集権的な支配を強め、帝国全体の経費を、より公平に分散させ、そしてフランス系カナダ人と北米インディアンの利害を考慮するような、新たな帝国の仕組みの必要性を感じていた。一方、長年にわたり高度の独立に慣れていた植民地は、自由の抑制ではなく、自由の拡大を期待していた。また、フランスの脅威がなくなったため、植民地側は、英国の強力な存在は必要でなくなると感じていた。大西洋の向こう側をほとんど理解していなかった英国の政府と議会は、自治に熟達し干渉を嫌う入植者たちと対立することになる。
カナダとオハイオバレーを機構としてまとめあげるには、フランス人とインディアンの住民を疎外しないような政策が必要だった。この点で、英国政府と植民地の利害は根本的に対立した。人口が急増し、定住するための新たな土地を必要としていた植民地側は、西のミシシッピ川まで境界線を拡大する権利を主張した。
一方、インディアンとの一連の戦争を恐れた英国政府は、もっと漸進的に土地を開拓するべきだと考えた。また、入植者の移動を制限することは、新しい植民地が形成される前に、既存の植民地に対する英国王の支配を確保する1つの手段でもあった。1763年の「国王布告」により、アレゲーニー山脈からフロリダ、ミシシッピ川、ケベックの間にまたがる西部のすべての領土が、アメリカ先住民のために確保された。これによって英国政府は、13の植民地による西部領土の所有請求を無効とし、西方への拡張を阻止しようとしたのである。この措置が、効果的に執行されることは一度もなかったが、入植者にとっては、西部の土地を占有し定住する基本的権利を無視した、高圧的な対応にほかならなかった。
これよりさらに深刻な影響を及ぼしたのは、英国の新たな歳入政策であった。英国政府は、拡大する帝国を支えるため、もっと多くの資金を必要とすると同時に、国内では納税者の不満の増大に直面していた。植民地が自らの防衛の費用を負担することは、十分に妥当であると思われた。それは、植民地の自治を犠牲にして、英国議会が新たに税金を徴収することを意味した。
その第一歩として、1733年の糖蜜法に代わって、1764年に砂糖法が制定された。糖蜜法は、英国以外の地域からのラムおよび糖蜜の輸入に、法外な禁止的高関税をかける法律であった。これに代わる砂糖法は、外国製ラムの輸入を違法とし、あらゆる地域から入る糖蜜に控えめな関税を課し、またワイン、絹、コーヒーなど多くのぜいたく品に課税することを定めていた。糖蜜の関税を引き下げれば、ニューイングランドのラム蒸留所へ、オランダ領とフランス領西インド諸島から糖蜜を密輸しようとする意欲をそぐだろう、という期待からだった。英国政府は糖蜜法を精力的に執行した。税関吏は、職務の効果を上げることを命じられた。アメリカ海域を航行する英国の軍艦は密輸業者を捕獲するよう指示され、英国の役人は、「家宅捜索令状」によって、疑わしい施設を捜索することができた。
砂糖法が課した関税と、その執行のための措置は、いずれもニューイングランドの商人たちを大仰天させた。彼らは、たとえ少額であっても関税を払えば、事業に壊滅的な影響が及ぶ、と主張した。商人、議会、そして町民会が、この法律に抗議した。植民地の弁護士は、「代表なき課税」に対して抗議し、このスローガンは、多くのアメリカ人に、母国によって抑圧されているという実感を与えた。
その後、1764年に、英国議会は「今後、国王陛下の植民地で発行される紙の信用証券を法貨とすることを禁じるため」に、通貨法を制定した。植民地は貿易赤字地域であり、常に通貨が不足していたため、この措置によって植民地の経済にさらに深刻な負担がかかった。植民地にとっては同様に好ましくないものが、1765年の軍隊宿営法だった。同法は、各植民地に対して、英国軍に食糧と宿舎を提供することを義務付けていた。
最も大規模な組織的抵抗を引き起こしたのは、「印紙税法」と呼ばれる税法であった。これは、新聞や印刷広告、パンフレット、認可状、賃貸契約書、およびその他の法律文書に、収入印紙を貼付することを義務付けるものだった。その収益はアメリカの税関吏が徴収し、植民地の「防衛、保護、および安全保障」のために使われるものとされた。
あらゆる事業を行う人々に等しく適用された印紙税法は、アメリカ北部、南部、東部、西部を通じて、ジャーナリスト、弁護士、聖職者、商人、事業家など、最も力がありかつ雄弁なグループの敵意をかきたてた。有力な商人たちは、組織的に抵抗するため、輸入拒否団体を結成した。
1765年夏には、有力者たちが自ら「自由の子」という秘密組織を結成し、しばしば暴力的手段まで使って印紙税法に抗議したため、英国との貿易が急速に減少した。マサチューセッツからサウスカロライナまで、各地で暴徒が、不運な税関吏を辞職に追い込み、憎むべき印紙を破棄した。戦闘的な抵抗が印紙税法を、事実上無効にした。
5月に、バージニア植民地議会は、パトリック・ヘンリー議員に率いられ、「代表なき課税」は植民地の自由を脅かすものだと非難する、一連の決議を可決した。これらの決議は、英国人としての権利を享受するバージニアの住民は、自らの代表によってのみ課税されることができる、と主張するものだった。マサチューセッツ植民地議会は、1765年10月に、英国政府と英国議会に救済を求めることを検討するために、ニューヨークで「印紙税法会議」を開催し、すべての植民地に対し代議員を送るよう呼びかけた。植民地の意志を結集するこの機会に、9植民地から27人の代議員が集まった。同会議はさまざまに論議を尽くした末、「それぞれの議会によらない限り、税金が合憲的に課されたことはなく、課されることもない」と明言し、印紙税法は「入植者の権利と自由を明らかに損なう傾向」を持つとする、一連の決議を採択した。
かくして、代表権の問題が中心的な争点となった。植民地の人々は、自分たちが実際に英国下院議員を選出しない限り、英国議会には彼らの代表が存在しない、と考えた。しかし、この考え方は、「事実上の代表」という英国の原則と対立するものだった。この原則によると、英国議会の議員は、たとえ選挙基盤が、特定の地区の一握りの土地所有者で構成されるにすぎないとしても、国全体と帝国全体の利害を代表していた。この考え方は、英国のすべての臣民が、英国議会の議員を選出した土地所有者たちと同じ利害を共有しているという前提に立っていた。
アメリカ側の指導者たちは、植民地が法律関係を持つ相手は英国王だけである、と主張した。海の向こうに植民地を設立することに同意したのは英国王であり、植民地に政府を与えたのも国王であった。彼らは、国王は英国王であると同時に植民地の王でもある、と主張する一方で、植民地の議会が英国の法律を可決する権利を持たないのと同様に、英国議会にも植民地の法律を可決する権利はない、と主張した。しかしながら、この闘争はむしろ、英国王ジョージ3世と英国議会の双方を相手にした闘いだった。英国王室と提携した党派がおおむね議会を支配し、強力な君主を目指す国王の決意を反映していた。
英国議会は、植民地側の主張を退けた。しかしながら、植民地側によるボイコットの影響を感じていた英国の商人たちが、印紙税法の廃止運動をてこ入れした。1766年に、議会が譲歩して、印紙税法を廃止し、砂糖法を修正した。しかし、その後、植民地に対する中央統制の支持者たちをなだめるために、英国議会は「宣言法」を可決した。これは、議会が「いかなる場合においても」植民地を拘束する法律を制定する権限を認める法律だった。植民地の人々は、迫る危機から一時的な猶予を得たにすぎなかった。
1767年にとられた一連の追加措置は、あらゆる不和の火種を、またしてもかきたてた。英国内では、重税に対する不満が相次いで高まったため、大蔵大臣チャールズ・タウンゼンドが、新たな財政計画を試みた。アメリカとの貿易に対する関税の徴収を効率化して英国の税金を引き下げることを意図して、タウンゼンド蔵相は、税関の管理を厳しくし、植民地が英国から輸入する紙、ガラス、鉛、および茶に対して関税をかけた。この「タウンゼンド諸法」は、印紙税法のような内国税は違法だが、植民地が輸入する製品に対する課税は合法であるという考え方を前提としていた。 タウンゼンド諸法は、歳入を増やして、その一部を植民地の役人の支援と、アメリカにおける英国軍維持に充てることが目的だった。これに対して、フィラデルフィアの弁護士ジョン・ディッキンソンは、「あるペンシルベニア農民の書簡」の中で、英国議会には、帝国の通商を管理する権利はあるが、植民地に対して、内国税であれ対外税であれ、関税を課す権利はない、と主張した。
タウンゼンド諸法による関税の制定に引き続いて起きた騒動は、印紙税法が起こした騒動ほど暴力的ではなかったが、特に東海岸の各都市を中心に、強力な反対運動が起きた。商人は再び輸入拒否協定を結び、植民地の住民は地元の製品で我慢した。例えば、自家製の手織りの服を身に着け、紅茶に代わる飲み物を見つけた。また、自家製の紙を使い、家にペンキを塗らずにすませた。ボストンでは、この新たな規制の執行が暴動を誘発した。関税を徴収しようとした税関吏が大衆に襲われ、手荒な扱いを受けた。この違法行為から税関吏たちを保護するため、英国軍の2個連隊が派遣された。
ボストンにおける英国軍の存在は、いわば騒乱への招待状と言ってもよかった。1770年3月5日、住民と英軍兵士の敵対関係は、暴力を再燃させた。英軍兵士に雪玉を投げるという、悪意のない行動から始まった事件が暴徒による攻撃へとエスカレートし、誰かが発砲命令を出した。騒ぎが治まったときには、3人のボストン市民が雪の中で死亡していた。この事件は「ボストン大虐殺」と名付けられ、英国の冷酷さと圧制の証拠として、劇的に伝えられた。
こうした反対を受けて、英国議会は1770年に戦略的撤退の道を選択し、紅茶以外のすべての製品に対するタウンゼンド関税を撤廃した。紅茶は、植民地ではぜいたく品であり、消費者はごく少数の人々に限られていた。この英国議会の行動は、概して植民地側が大きな譲歩を勝ち取ったしるしと見なされ、英国に対する反対運動はおおむね中止された。植民地では、「英国産紅茶」の輸入禁止措置が続いたが、厳密に守られることはなかった。植民地の繁栄は続いており、植民地の指導者たちの大半は、将来については成り行きに任せる腹積もりだった。
3年間にわたる平穏の時期を通じて、比較的少数の急進派の人々が、論争を維持しようと精力的に活動した。彼らは、税金を納めることは、英国議会が植民地に対する支配権を持つという原則を認めることだ、と主張した。彼らは、将来、いつ何時、議会による支配の原則が適用され、植民地のあらゆる自由が大きな打撃を受けないとも限らないと恐れた。
急進派の最も有力な指導者は、マサチューセッツのサミュエル・アダムズだった。彼は、独立という唯一の目標のために、疲れを知らぬ闘いを続けた。アダムズは、1743年にハーバード・カレッジを卒業した直後から、煙突検査官、収税官、町民会の議長など、何らかの形で公務に携わっていた。事業は失敗ばかりだったが、政治に関しては明敏かつ有能で、ニューイングランドの町民会を舞台に活躍していた。
アダムズは、社会的、政治的に優位にある者に対する畏怖から人々を解放し、人々に自らの力と重要性を認識させることによって、行動を起こすことを促そうとした。そのために彼は、新聞で記事を発表したり、町民会で演説したりして、植民地の人々の民主主義的衝動に訴えるような決議を推進した。
1772年にアダムズは、ボストン町民会を促して、植民地の住民の権利と苦情を述べるための「連絡委員会」を設置させた。同委員会は、税関収入から裁判官の給料を支払うという、英国の決定に反対した。裁判官の収入が議会に依存しなくなり、従って議会に対する説明責任を持たなくなれば、「専制的な形の行政」の出現につながることを恐れたためである。委員会は、この問題について他の町民会にも連絡し、英国への回答を起草するよう要請した。事実上すべての植民地に連絡委員会が設置され、そこから効果的な革命組織の基盤が成長した。しかし、依然としてアダムズには、革命に火を付ける燃料が不足していた。
しかし、1773年に英国は、アダムズとその仲間に、格好の火種となる争点を提供した。強力な貿易会社である東インド会社が、財政の危機的な窮迫に直面し、英国政府に嘆願した結果、植民地へのすべての紅茶輸出の独占権を与えられた。また英国政府は、東インド会社が、植民地の卸売業者を通さず、直接、小売業者に製品を提供することを認めた。そのころには、アメリカで消費される紅茶のほとんどは、非合法的に、無関税で輸入されていた。東インド会社は、通常の価格を大幅に下回る価格で、自社の代理店を通じて紅茶を販売することによって、密輸による利益をなくし、植民地の独立商人の存在を危機に陥れた。植民地の貿易業者は、紅茶貿易の損失だけでなく、独占貿易に対する怒りから、独立を扇動する急進派と連帯した。
大西洋岸の各港湾で、東インド会社の代理業者は辞職を余儀なくされた。新たに入荷した紅茶は、英国に返品されるか、倉庫に保管された。しかし、ボストンでは、代理業者が植民地の住民に対抗し、英国王の命を受けた総督の支援の下で、植民地の反対を押し切って入荷品を陸揚げする準備をした。1773年12月16日の夜、サミュエル・アダムズの率いる男達の一団が、モホーク・インディアンに変装して、ボストン港に停泊していた英国船3隻に乗り込み、紅茶の船荷を海中に投げ捨てた。彼らは、同胞には原則を貫く意志がないのではないかと疑い、いったん積荷が陸揚げされれば、実際に植民地の住民がその紅茶を買い、税金を払うだろうと心配したのである。
危機は英国との対決に発展した。東インド会社は、英国議会の法律を執行していた。ボストンにおける茶の投棄が処罰されなければ、英国議会は、植民地に支配を及ぼしていないことを、全世界に向けて認めることになる。英国における公式な見解は、ほぼ例外なく、ボストン茶会事件を破壊行為として糾弾し、植民地の反乱分子を大人しくさせるための法的措置をとることを支持した。
これに対応して、英国議会は、植民地の人々が「懲罰法」あるいは「絶えがたい法律」と呼んだ新たな諸法を制定した。まず、「ボストン港法案」によって、ボストン茶会事件で投棄された紅茶の代金が弁償されるまでボストン港を閉鎖した。この措置は、ボストンの町にとって、存亡の危機となった。海へのアクセスを断たれることは、経済的な破滅を意味したからである。このほかにも、自治の権限を制限し、総督の同意なしに町民会を開催することを禁止する法律などが制定された。軍隊宿営法は、地元の当局が、英国軍のために適切な宿泊所を確保し、必要ならば個人の住宅を提供することを義務付けた。英国議会は、これらの法律によって、マサチューセッツを屈服させ孤立させようとしたが、その意図に反して、他の植民地は、結束してマサチューセッツを支援した。ほぼ同時に可決されたケベック法は、ケベック州の境界を南へオハイオ川まで拡大した。同法は、それまでのフランスの慣行に従い、陪審によらない裁判審理を規定し、代議制議会を設置せず、またカトリック教会に半国教的な地位を与えた。西部の土地に対する従来の勅許による請求権を無視したこの法律は、北部および北西部への植民地拡張を阻害しかねなかった。また、ローマ・カトリック教を認めたことは、すべての植民地で優勢なプロテスタントの各宗派の人々を激怒させた。ケベック法は、懲罰的な措置として可決されたわけではなかったが、植民地の人々は、これを「懲罰法」と結びつけ、これらの法律を合わせて「5つの耐えがたい諸法」と呼んだ。
バージニア植民地議会の提案により、1774年9月5日、各植民地の代表が、「植民地の不幸な現状について協議するため」、フィラデルフィアに集まった。第1回大陸会議として知られることになるこの会議への代表は、各地の議会または人民による大会で選出された。ジョージアだけが代表を派遣しなかったが、計55人の代表が集まった。この数字は意見が割れるほど十分に大きく、効率的な討論と行動を可能にするには不十分だった。会議では、植民地間の意見の対立が、代表者たちにとってジレンマそのものとなった。英国政府に譲歩を促すためには、すべての植民地が一致団結していることを外見上は示さなければならなかった。しかし同時に、より穏健なアメリカ人を警戒させるような、急進主義や独立精神を誇示することは、一切避けなければならなかった。
慎重な基調演説に続いて、「懲罰諸法」に従うべきではないという「決意」が表明され、最終的には、植民地の住民の「生命、自由、財産」の権利と、そして各地の議会の「課税と内政に関するあらゆる課題」を解決する権利を確約する、一連の決議が採択された。しかしながら、この会議で取られた最も重要な措置は、対英不買同盟を再び確立する「大陸提携(アソシェーション)」の結成であった。同提携は、通関申請を検査し、協定に違反した商人の名前を発表し、その輸入品を押収し、また質素、節約、勤勉を奨励する、各種の委員会から成る制度を創設した。
「大陸提携」は、直ちに植民地内で指導権を発揮し、英国政府の権限の名残に終止符を打つため、各地で新たな地方組織を設立した。独立推進派の指導者に率いられた「提携」は、あまり裕福ではない層だけでなく、多くの専門職(特に弁護士)、南部植民地の農園主の大部分、そして多数の商人から支持を集めた。彼らは、躊躇する者を威嚇して大衆運動に参加させ、敵対する者を罰した。そして、軍事物資の収集と兵士の動員を開始し、世論の改革熱を煽った。
英国によるアメリカの権利侵害に反対する者の多くは、話し合いと譲歩が適切な解決法だと考えていた。このグループには、英国政府に任命された公職者、クエーカー教徒など、非暴力主義の宗派の信者、多くの商人(特に中部植民地の商人)、そして南部植民地で不満を持つ一部の農民や辺境の入植者などがいた。
英国王が、こうした穏健派と同盟し、時宜を得た譲歩によって彼らの地位を強化していれば、革命派の敵対的な前進は困難になっていたかもしれない。しかし、ジョージ3世には、譲歩する意志はなかった。1774年9月、彼は、フィラデルフィアのクエーカー教徒による嘆願をあざけり、「いま、さい(采)は投げられた。植民地には屈服か勝利のいずれかしか道はない」と書いた。この行為は、懲罰諸法以降のすう勢にがく然として恐怖を感じていた親英国派を孤立させた。
ボストンでは、政治活動が、ほとんど貿易を押しのける情勢となっていた。ボストンの英国軍駐屯地の司令官は、人当たりの良い英国紳士で、アメリカ生まれの妻を持つ、トーマス・ゲージ将軍だった。植民地でのゲージの主な任務は、懲罰諸法を執行することだった。32キロメートル離れたコンコードで、マサチューセッツ住民が弾薬と軍需品を蓄えている、との情報を得たゲージは、これを没収するため、強力な特殊部隊を派遣した。
1晩の行進のあと、英国軍は1775年4月19日に、レキシントンの村に到着し、早朝のもやの中に、77人のミニットマンの不気味な一団がいるのを目にした。ミニットマンとは、1分(ミニット)で戦う準備ができるというところからそう呼ばれた民兵のことである。ミニットマンの意図は、無言の抗議をすることだったが、英国軍の指揮官ジョン・ピトケアン海兵隊少佐は「謀反人ども、散れ! 犬ども、立ち去れ!」と叫んだ。ミニットマンの指揮官ジョン・パーカー大尉は、部下に、発砲されるまでは先に撃ってはならない、と命じた。ミニットマンが退却を始めたとき、誰かが発砲し、これに応じて英国軍がミニットマンに向かって発砲した。続いて英軍は銃剣を掲げて突撃し、この戦闘でミニットマン側に8人の死者と10人の負傷者が出た。しばしば引用される、19世紀の詩人ラルフ・ウォルドー・エマーソンの詩の一節によれば、これは「世界中に響きわたる銃声」だった。
英国軍は、さらにコンコードへと突き進んだ。コンコードの住民は武器弾薬のほとんどを他へ移してしまっていたが、特殊部隊は残っていた武器をすべて破壊した。その間、田園地帯のアメリカ軍が動員され、ボストンへ戻る長い道のりの途中の英国軍に、各地で攻撃をしかけた。「ミドルセックスのすべての村と農場」から集まった民兵が、道沿いの石垣や丘や住宅の陰から、英軍兵士の真っ赤な上着を目標に攻撃した。ゲージの率いる兵士たちが、疲れ果ててやっとの思いでボストンに戻ってきた時には、250人が戦死または負傷していた。アメリカ側は93人を失った。
同年5月10日に、ペンシルベニアのフィラデルフィアで第2回大陸会議が開催された。この会議で、開戦が可決され、植民地の民兵が大陸軍に編入された。6月15日に大陸会議は、バージニアのジョージ・ワシントン大佐を最高司令官に任命した。それから2日もたたない内に、ボストンから少し外れたバンカーヒルで、アメリカ軍は多くの死傷者を出した。大陸会議は、アメリカの遠征軍に、北へ進攻し、秋までにカナダに入れと命じた。遠征軍はモントリオールを占拠したが、冬のケベック攻撃に失敗し、最終的にはニューヨークまで退却した。
こうした武力衝突が発生していたにもかかわらず、大陸会議の代表の多くは、依然として、英国からの完全分離という考え方を拒否していた。同会議は7月に、何らかの合意に達することができるまで、これ以上の敵対行為を防止することを国王に懇願する、「オリーブの枝請願」を採択した。しかし、ジョージ国王はこれを拒否した。それどころか、1775年8月23日には、植民地が反乱状態にあることを表明する布告を発行した。
英国は、南部の各植民地は本国に対する忠誠を維持するものと予想していた。ひとつには、南部の植民地が奴隷制に依存していたからである。南部の人々の多くは、本国に対する反乱が奴隷の蜂起を誘発することを恐れていた。1775年11月、バージニアの総督、ダンモア卿は、そうした恐怖に乗じて、英国のために戦おうとする奴隷には自由を与えることを約束した。しかし、これは逆効果となり、これがなければ親英国派のままだったはずの多くのバージニア住民を、反乱側に追いやることになった。
また、ノースカロライナのジョサイア・マーティン総督は、ノースカロライナ住民に、英国への忠誠を維持するよう促した。1500人の男性がマーティンの要請に応えたが、彼らは、援軍の英国軍兵士が到着する前に、革命軍に敗れた。
英国の戦艦隊は、さらに東海岸を下ってサウスカロライナのチャールストンに到着し、1776年6月初めに、市街地へ向けて砲撃を開始した。しかし、サウスカロライナ側には応戦するための準備期間があったため、6月末までに英国軍を撃退した。英国軍はその後2年間以上、南部に戻ってくることはなかった。
1774年に英国からアメリカに渡ってきた急進派の政治理論学者で著述家のトーマス・ペインが、1776年1月、「コモン・センス(常識)」と題した50ページの小冊子を出版した。この本は、3カ月足らずで10万冊を売り上げた。ペインは、世襲君主制という概念に攻撃を加え、「これまでに存在した、王冠をかぶったすべての暴君」よりも、1人の正直な人間の方が社会にとって価値がある、ときっぱり述べた。ペインは、専制的な国王と疲弊した政府に対して服従を続けるのか、それとも自己充足的な独立した共和国としての自由と幸福を得るのか、という選択肢を提示した。「コモン・センス」は、各植民地で読まれ、分離の決断を結晶化させることに貢献した。
しかしながら、正式な独立宣言の承認を各植民地から取りつける仕事が残っていた。6月7日、バージニアのリチャード・ヘンリー・リーが第2回大陸会議で、「これらの連合植民地は、自由で独立した国家であり、また当然の権利としてそうあるべきである……」と宣言する決議を提出した。直ちに、バージニアのトーマス・ジェファソンを長とする5人委員会が指名され、採決のために文書の草案を作成することになった。
1776年7月4日、主にジェファソンの執筆による「独立宣言」が採択された。これは、新たな国家の誕生を宣言するだけでなく、後に全世界で強力な活動力となる人間の自由の哲学を打ち出したものだった。独立宣言は、フランスおよび英国の啓蒙主義の政治哲学を基盤としていたが、特に大きな影響を与えたのは、ジョン・ロックの「統治二論」である。ロックは、英国人の伝統的権利の概念をとりあげ、それを全人類の自然権として普遍化した。おなじみの独立宣言の冒頭の1節は、統治に関するロックの社会契約論を反映している。
「我々は、以下の真実を自明なものと見なす。すなわち、すべての人間は平等に創られ、その創造主によって、生命、自由、そして幸福の追求を含む、奪うことのできない一定の権利を与えられている―。これらの権利を確保するために、人々の間に政府が設けられ、その正当な権限は被統治者の同意に由来する―。いかなる形態の政府であれ、これらの目的にとって破壊的となるときには、それを改変ないし廃止し、最も人民の安全と幸福をもたらすのにふさわしいと思われる諸原則に基盤を置き、またそのような形で権限を組織するような、新しい政府を設立することが、人民の権利である―」
ジェファソンは、ロックの諸原則を直接、植民地の状況に当てはめた。アメリカの独立のために戦うことは、「我々の政体と相容れず、われわれの法律によって認められていない法域に、我々を従わせるために他人と結託してきた」国王による政府に代わって、人民の同意に基づく政府を求めて戦うことだった。生命、自由、および幸福の追求という自然権を確保することができるのは、人民の同意に基づく政府だけだ、というのである。かくして、アメリカの独立のために戦うことは、ほかでもない、自らの自然権のために戦うことだったのである。
米国は、独立を宣言した後、何カ月にもわたり、手ひどい挫折を味わったが、執念と忍耐が、最後には報われた。1776年8月、ニューヨークのロングアイランドの戦いを通じて、ワシントンは体勢を維持できなくなり、ブルックリンからマンハッタンの岸へ、小さな船で巧みに退却した。英国のウィリアム・ハウ将軍は、2度も躊躇した末、アメリカ軍の脱出を許した。しかし11月までに、ハウ将軍は、マンハッタン島のワシントン砦を占拠していた。ニューヨーク市は、戦争が終わるまで、英国軍の支配下に置かれることになる。
その12月、ワシントン率いる軍隊は、補給も約束された物資も増援も到着せず、崩壊寸前の状態にあった。しかし、ハウは、春まで戦闘の再開を待つ決断を下し、再びアメリカ軍を壊滅させる機会を逸してしまった。1776年12月25日、クリスマスの日に、ワシントンの率いる兵士たちは、ニュージャージーのトレントンの北でデラウェア川を渡った。翌26日早朝、彼の軍勢は英国軍の駐屯地を急襲し、900人以上を捕虜とした。1週間後の1777年1月3日、ワシントンはプリンストンで英国軍を襲い、それまで英国軍が占領していた領土の大半を取り戻した。トレントンとプリンストンにおける勝利は、衰えていたアメリカ軍の士気を回復させた。
しかし、1777年9月には、ハウ将軍がペンシルベニアのブランディワインでアメリカ軍を破り、フィラデルフィアを占領した。このため、大陸会議は避難を余儀なくされた。ワシントンは、1777年から1778年にかけての冬、ペンシルベニアのバレー・フォージで、食糧・衣料・物資の不足するなか、厳寒に耐えなければならなかった。農民や商人は、大陸会議および各州の発行する、怪しげな紙幣よりも、英国の金銀と、商品を交換した。
ワシントンの大陸軍にとっては、バレー・フォージは最悪の落ち目の時期だった。しかし、それ以外は1777年が戦争の転換点となった。カナダから南下した英国軍のジョン・バーゴイン将軍は、シャンプラン湖とハドソン川を経由して、ニューヨークとニューイングランドへ進攻しようとした。しかし、あまりの重装備だったため、森林と沼地の中での前進は困難をきわめた。8月6日、ニューヨークのオリスカニーで、バーゴイン指揮下の親英国派とアメリカ先住民から成る一団が、機動力と経験に富むアメリカ軍に遭遇し、前進を阻まれた。その数日後には、ひどく不足していた物資を求めて前進していたバーゴインの他の部隊も、バーモントのベニントンでアメリカ軍によって退却させられた。
バーゴイン軍は、ハドソン川の西岸に移動し、オルバニーに向かって進軍した。そこではアメリカ軍が待ち受けていた。ベネディクト・アーノルドの率いるアメリカ軍は、2度にわたって英国軍を撃退した(アーノルドは、後にニューヨークのウェストポイントでアメリカ軍を裏切ることになる)。このころまでに多大な損害を受けていたバーゴイン軍は、ニューヨークのサラトガまで後退したが、そこで、ホレーシオ・ゲーツ将軍の率いる圧倒的に優秀なアメリカ軍に包囲された。バーゴインは1777年10月17日、将軍6人、その他の将校300人、下士官と兵士の徴募兵5500人を含めた全軍を投降させた。
フランスでは、アメリカの大義に対する熱狂が大きく高まっていた。何しろ、フランスの知識人社会自体が、封建主義と特権社会に対する反抗心で興奮していた。しかし国王は、イデオロギーよりも地政学的な理由に基づいて、植民地軍を支援した。フランス政府は、1763年に英国に敗北を喫して以来、英国に対する報復の念に燃えていた。1776年、アメリカの大義を推進するために、ベンジャミン・フランクリンがパリに派遣された。フランクリンの機知と策略と知性は、すぐにフランスの首都で一目置かれるようになり、フランスの支援を得る上で重要な役割を果たした。
フランスは1776年5月、植民地側への援助を開始し、軍用物資を積んだ船舶14隻をアメリカへ送った。事実、アメリカ軍の使用した火薬のほとんどは、フランスが提供したものだった。サラトガでの英国軍の敗北の後、フランスは、旧敵を立ち直れないほど弱体化させ、7年戦争(アメリカの植民地では「フレンチ・インディアン戦争」と呼ばれた)によって崩れた力の均衡を回復する機会だと考えた。1778年2月6日、植民地側とフランスは、修好通商条約を結び、その中でフランスは、アメリカ合衆国を認知し、貿易特権を提供した。また双方は、同盟条約にも調印した。そこには、フランスが参戦した場合には、植民地側が独立を勝ち取るまで両国とも武器を置かないこと、双方とも他方の同意なしに英国と平和条約を結ばないこと、そして相互にアメリカにおける資産を保証することが規定されていた。これは1949年まで、米国ないしその前身である植民地が締結した、唯一の2国間防衛条約だった。
仏米の同盟によって、間もなく紛争の規模が拡大した。1778年6月、英国の戦艦がフランス船を砲撃し、英仏両国は戦争に突入した。1779年には、7年戦争で英国に奪われた領地の奪還を期待するスペインが、フランス側に付いて参戦したが、アメリカの同盟国とはならなかった。1780年に英国は、アメリカとの貿易を続けていたオランダに対して宣戦を布告した。フランスが主導するこれらの欧州列強の連携は、英国にとって、アメリカの植民地だけを相手にするより、はるかに大きな脅威となった。
いまやフランスの参戦に伴い、英国は、南部植民地での戦争努力を強化した。英国は依然として、南部の住民の大半は親英国派だと考えていた。1778年末に開始された作戦で、まずジョージアのサバンナが占領された。その直後に、英国の陸海軍が、南部の主要な港湾であるサウスカロライナのチャールストンに集結し、アメリカ軍をチャールストン半島に封じ込めることに成功した。1780年5月12日、ベンジャミン・リンカーン将軍が降伏、チャールストンの町を明け渡し、防衛軍5000人を引き渡した。これは独立戦争におけるアメリカ側の最大の敗北となった。
しかし、この形勢のどんでん返しは、アメリカ側の反乱軍を大胆にさせただけだった。サウスカロライナの人々は、田園地帯の各地を移動し、英国の補給線を攻撃し始めた。アメリカ軍のホレーシオ・ゲーツ将軍は7月に、訓練を受けていない民兵の補充部隊を集め、サウスカロライナのカムデンを急襲、チャールズ・コーンウォリス将軍の率いる英国軍と対決した。しかし、ゲーツの寄せ集めの軍隊は、英国正規軍に直面するとパニックに陥り、逃亡した。コーンウォリス軍は、その後も何回かアメリカ軍と対決したが、最も重要な戦いは、1781年初めにサウスカロライナのカウペンズで行われ、英国軍はアメリカ軍相手に完敗した。コーンウォリスは、ノースカロライナ各地で、疲れるだけで成果の上がらない追撃を続けたあと、バージニアに目を向けた。
1780年7月、フランス国王ルイ16世は、ジャン・ド・ロシャンボー伯爵の率いる6000人の遠征軍をアメリカに送った。また、フランスの艦隊も、英国の海上輸送船をうるさく攻撃して悩ませ、バージニアの英国軍への援軍と物資補給を妨害した。同年の夏を通じて、また秋に入ってからも、総勢1万8000人のフランス、アメリカ双方の陸海軍兵士は、コーンウォリス軍との戦いを続けた。1781年10月19日、コーンウォリス将軍はついにチェサピーク湾口に近いヨークタウンで包囲され、英国軍兵士8000人とともに投降した。
コーンウォリス軍の敗北で、直ちに戦争は終わったわけではない。さらに2年近く勝敗の決まらないまま、だらだらと長引いた末、英国の新政府は、1782年初めに、パリで和平交渉を行うことを決定した。交渉には、アメリカを代表して、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、ジョン・ジェイの3人が参加した。1783年4月15日、議会が最終的な条約を承認した。9月3日に締結されたパリ講和条約は、アメリカの13の元植民地を邦(state)とし、その独立と自由と主権を認めた。この新たな連邦は、西はミシシッピ川、北はカナダ、そして南は、スペインに返還されたフロリダまで広がっていた。リチャード・ヘンリー・リーが7年以上前に言及した新生の植民地が、ようやく「自由で独立した邦」となったのである。しかし、これをひとつの国家としてしっかり組み立てる作業が残っていた。
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The Road to Independence
(The following article is taken from the U.S. Department of State publication Outline of U.S. History.)
"The Revolution was effected before the war commenced. The Revolution was in the hearts and minds of the people."
-- Former President John Adams, 1818
Throughout the 18th century, the maturing British North American colonies inevitably forged a distinct identity. They grew vastly in economic strength and cultural attainment; virtually all had long years of self-government behind them. In the 1760s their combined population exceeded 1,500,000 – a six-fold increase since 1700. Nonetheless, England and America did not begin an overt parting of the ways until 1763, more than a century and a half after the founding of the first permanent settlement at Jamestown, Virginia.
A NEW COLONIAL SYSTEM
In the aftermath of the French and Indian War, London saw a need for a new imperial design that would involve more centralized control, spread the costs of empire more equitably, and speak to the interests of both French Canadians and North American Indians. The colonies, on the other hand, long accustomed to a large measure of independence, expected more, not less, freedom. And, with the French menace eliminated, they felt far less need for a strong British presence. A scarcely comprehending Crown and Parliament on the other side of the Atlantic found itself contending with colonists trained in self‑government and impatient with interference.
The organization of Canada and of the Ohio Valley necessitated policies that would not alienate the French and Indian inhabitants. Here London was in fundamental conflict with the interests of the colonies. Fast increasing in population, and needing more land for settlement, they claimed the right to extend their boundaries as far west as the Mississippi River.
The British government, fearing a series of Indian wars, believed that the lands should be opened on a more gradual basis. Restricting movement was also a way of ensuring royal control over existing settlements before allowing the formation of new ones. The Royal Proclamation of 1763 reserved all the western territory between the Allegheny Mountains, Florida, the Mississippi River, and Quebec for use by Native Americans. Thus the Crown attempted to sweep away every western land claim of the 13 colonies and to stop westward expansion. Although never effectively enforced, this measure, in the eyes of the colonists, constituted a high-handed disregard of their fundamental right to occupy and settle western lands.
More serious in its repercussions was the new British revenue policy. London needed more money to support its growing empire and faced growing taxpayer discontent at home. It seemed reasonable enough that the colonies should pay for their own defense. That would involve new taxes, levied by Parliament – at the expense of colonial self-government.
The first step was the replacement of the Molasses Act of 1733, which placed a prohibitive duty, or tax, on the import of rum and molasses from non-English areas, with the Sugar Act of 1764. This act outlawed the importation of foreign rum; it also put a modest duty on molasses from all sources and levied taxes on wines, silks, coffee, and a number of other luxury items. The hope was that lowering the duty on molasses would reduce the temptation to smuggle the commodity from the Dutch and French West Indies for the rum distilleries of New England. The British government enforced the Sugar Act energetically. Customs officials were ordered to show more effectiveness. British warships in American waters were instructed to seize smugglers, and "writs of assistance," or warrants, authorized the king's officers to search suspected premises.
Both the duty imposed by the Sugar Act and the measures to enforce it caused consternation among New England merchants. They contended that payment of even the small duty imposed would be ruinous to their businesses. Merchants, legislatures, and town meetings protested the law. Colonial lawyers protested "taxation without representation," a slogan that was to persuade many Americans they were being oppressed by the mother country.
Later in 1764, Parliament enacted a Currency Act "to prevent paper bills of credit hereafter issued in any of His Majesty's colonies from being made legal tender." Since the colonies were a deficit trade area and were constantly short of hard currency, this measure added a serious burden to the colonial economy. Equally objectionable from the colonial viewpoint was the Quartering Act, passed in 1765, which required colonies to provide royal troops with provisions and barracks.
THE STAMP ACT
A general tax measure sparked the greatest organized resistance. Known as the "Stamp Act," it required all newspapers, broadsides, pamphlets, licenses, leases, and other legal documents to bear revenue stamps. The proceeds, collected by American customs agents, would be used for "defending, protecting, and securing" the colonies.
Bearing equally on people who did any kind of business, the Stamp Act aroused the hostility of the most powerful and articulate groups in the American population: journalists, lawyers, clergymen, merchants and businessmen, North and South, East and West. Leading merchants organized for resistance and formed nonimportation associations.
Trade with the mother country fell off sharply in the summer of 1765, as prominent men organized themselves into the "Sons of Liberty" – secret organizations formed to protest the Stamp Act, often through violent means. From Massachusetts to South Carolina, mobs, forcing luckless customs agents to resign their offices, destroyed the hated stamps. Militant resistance effectively nullified the Act.
Spurred by delegate Patrick Henry, the Virginia House of Burgesses passed a set of resolutions in May denouncing taxation without representation as a threat to colonial liberties. It asserted that Virginians, enjoying the rights of Englishmen, could be taxed only by their own representatives. The Massachusetts Assembly invited all the colonies to appoint delegates to a “Stamp Act Congress” in New York, held in October 1765, to consider appeals for relief to the Crown and Parliament. Twenty-seven representatives from nine colonies seized the opportunity to mobilize colonial opinion. After much debate, the congress adopted a set of resolutions asserting that "no taxes ever have been or can be constitutionally imposed on them, but by their respective legislatures," and that the Stamp Act had a "manifest tendency to subvert the rights and liberties of the colonists."
TAXATION WITHOUT REPRESENTATION
The issue thus drawn centered on the question of representation. The colonists believed they could not be represented in Parliament unless they actually elected members to the House of Commons. But this idea conflicted with the English principle of "virtual representation," according to which each member of Parliament represented the interests of the whole country and the empire – even if his electoral base consisted of only a tiny minority of property owners from a given district. This theory assumed that all British subjects shared the same interests as the property owners who elected members of Parliament.
The American leaders argued that their only legal relations were with the Crown. It was the king who had agreed to establish colonies beyond the sea and the king who provided them with governments. They asserted that he was equally a king of England and a king of the colonies, but they insisted that the English Parliament had no more right to pass laws for the colonies than any colonial legislature had the right to pass laws for England. In fact, however, their struggle was equally with King George III and Parliament. Factions aligned with the Crown generally controlled Parliament and reflected the king’s determination to be a strong monarch.
The British Parliament rejected the colonial contentions. British merchants, however, feeling the effects of the American boycott, threw their weight behind a repeal movement. In 1766 Parliament yielded, repealing the Stamp Act and modifying the Sugar Act. However, to mollify the supporters of central control over the colonies, Parliament followed these actions with passage of the Declaratory Act, which asserted the authority of Parliament to make laws binding the colonies "in all cases whatsoever." The colonists had won only a temporary respite from an impending crisis.
THE TOWNSHEND ACTS
The year 1767 brought another series of measures that stirred anew all the elements of discord. Charles Townshend, British chancellor of the exchequer, attempted a new fiscal program in the face of continued discontent over high taxes at home. Intent upon reducing British taxes by making more efficient the collection of duties levied on American trade, he tightened customs administration and enacted duties on colonial imports of paper, glass, lead, and tea from Britain. The “Townshend Acts” were based on the premise that taxes imposed on goods imported by the colonies were legal while internal taxes (like the Stamp Act) were not.
The Townshend Acts were designed to raise revenue that would be used in part to support colonial officials and maintain the British army in America. In response, Philadelphia lawyer John Dickinson, in Letters of a Pennsylvania Farmer, argued that Parliament had the right to control imperial commerce but did not have the right to tax the colonies, whether the duties were external or internal.
The agitation following enactment of the Townshend duties was less violent than that stirred by the Stamp Act, but it was nevertheless strong, particularly in the cities of the Eastern seaboard. Merchants once again resorted to non-importation agreements, and people made do with local products. Colonists, for example, dressed in homespun clothing and found substitutes for tea. They used homemade paper and their houses went unpainted. In Boston, enforcement of the new regulations provoked violence. When customs officials sought to collect duties, they were set upon by the populace and roughly handled. For this infraction, two British regiments were dispatched to protect the customs commissioners.
The presence of British troops in Boston was a standing invitation to disorder. On March 5, 1770, antagonism between citizens and British soldiers again flared into violence. What began as a harmless snowballing of British soldiers degenerated into a mob attack. Someone gave the order to fire. When the smoke had cleared, three Bostonians lay dead in the snow. Dubbed the "Boston Massacre," the incident was dramatically pictured as proof of British heartlessness and tyranny.
Faced with such opposition, Parliament in 1770 opted for a strategic retreat and repealed all the Townshend duties except that on tea, which was a luxury item in the colonies, imbibed only by a very small minority. To most, the action of Parliament signified that the colonists had won a major concession, and the campaign against England was largely dropped. A colonial embargo on "English tea" continued but was not too scrupulously observed. Prosperity was increasing and most colonial leaders were willing to let the future take care of itself.
SAMUEL ADAMS
During a three-year interval of calm, a relatively small number of radicals strove energetically to keep the controversy alive. They contended that payment of the tax constituted an acceptance of the principle that Parliament had the right to rule over the colonies. They feared that at any time in the future, the principle of parliamentary rule might be applied with devastating effect on all colonial liberties.
The radicals' most effective leader was Samuel Adams of Massachusetts, who toiled tirelessly for a single end: independence. From the time he graduated from Harvard College in 1743, Adams was a public servant in some capacity – inspector of chimneys, tax-collector, and moderator of town meetings. A consistent failure in business, he was shrewd and able in politics, with the New England town meeting his theater of action.
Adams wanted to free people from their awe of social and political superiors, make them aware of their own power and importance, and thus arouse them to action. Toward these objectives, he published articles in newspapers and made speeches in town meetings, instigating resolutions that appealed to the colonists' democratic impulses.
In 1772 he induced the Boston town meeting to select a "Committee of Correspondence" to state the rights and grievances of the colonists. The committee opposed a British decision to pay the salaries of judges from customs revenues; it feared that the judges would no longer be dependent on the legislature for their incomes and thus no longer accountable to it, thereby leading to the emergence of "a despotic form of government." The committee communicated with other towns on this matter and requested them to draft replies. Committees were set up in virtually all the colonies, and out of them grew a base of effective revolutionary organizations. Still, Adams did not have enough fuel to set a fire.
THE BOSTON “TEA PARTY”
In 1773, however, Britain furnished Adams and his allies with an incendiary issue. The powerful East India Company, finding itself in critical financial straits, appealed to the British government, which granted it a monopoly on all tea exported to the colonies. The government also permitted the East India Company to supply retailers directly, bypassing colonial wholesalers. By then, most of the tea consumed in America was imported illegally, duty-free. By selling its tea through its own agents at a price well under the customary one, the East India Company made smuggling unprofitable and threatened to eliminate the independent colonial merchants. Aroused not only by the loss of the tea trade but also by the monopolistic practice involved, colonial traders joined the radicals agitating for independence.
In ports up and down the Atlantic coast, agents of the East India Company were forced to resign. New shipments of tea were either returned to England or warehoused. In Boston, however, the agents defied the colonists; with the support of the royal governor, they made preparations to land incoming cargoes regardless of opposition. On the night of December 16, 1773, a band of men disguised as Mohawk Indians and led by Samuel Adams boarded three British ships lying at anchor and dumped their tea cargo into Boston harbor. Doubting their countrymen's commitment to principle, they feared that if the tea were landed, colonists would actually purchase the tea and pay the tax.
A crisis now confronted Britain. The East India Company had carried out a parliamentary statute. If the destruction of the tea went unpunished, Parliament would admit to the world that it had no control over the colonies. Official opinion in Britain almost unanimously condemned the Boston Tea Party as an act of vandalism and advocated legal measures to bring the insurgent colonists into line.
THE COERCIVE ACTS
Parliament responded with new laws that the colonists called the "Coercive” or “Intolerable Acts." The first, the Boston Port Bill, closed the port of Boston until the tea was paid for. The action threatened the very life of the city, for to prevent Boston from having access to the sea meant economic disaster. Other enactments restricted local authority and banned most town meetings held without the governor's consent. A Quartering Act required local authorities to find suitable quarters for British troops, in private homes if necessary. Instead of subduing and isolating Massachusetts, as Parliament intended, these acts rallied its sister colonies to its aid. The Quebec Act, passed at nearly the same time, extended the boundaries of the province of Quebec south to the Ohio River. In conformity with previous French practice, it provided for trials without jury, did not establish a representative assembly, and gave the Catholic Church semi-established status. By disregarding old charter claims to western lands, it threatened to block colonial expansion to the North and Northwest; its recognition of the Roman Catholic Church outraged the Protestant sects that dominated every colony. Though the Quebec Act had not been passed as a punitive measure, Americans associated it with the Coercive Acts, and all became known as the "Five Intolerable Acts."
At the suggestion of the Virginia House of Burgesses, colonial representatives met in Philadelphia on September 5, 1774, "to consult upon the present unhappy state of the Colonies." Delegates to this meeting, known as the First Continental Congress, were chosen by provincial congresses or popular conventions. Only Georgia failed to send a delegate; the total number of 55 was large enough for diversity of opinion, but small enough for genuine debate and effective action. The division of opinion in the colonies posed a genuine dilemma for the delegates. They would have to give an appearance of firm unanimity to induce the British government to make concessions. But they also would have to avoid any show of radicalism or spirit of independence that would alarm more moderate Americans.
A cautious keynote speech, followed by a "resolve" that no obedience was due the Coercive Acts, ended with adoption of a set of resolutions affirming the right of the colonists to "life, liberty, and property," and the right of provincial legislatures to set "all cases of taxation and internal polity." The most important action taken by the Congress, however, was the formation of a "Continental Association" to reestablish the trade boycott. It set up a system of committees to inspect customs entries, publish the names of merchants who violated the agreements, confiscate their imports, and encourage frugality, economy, and industry.
The Continental Association immediately assumed the leadership in the colonies, spurring new local organizations to end what remained of royal authority. Led by the pro-independence leaders, they drew their support not only from the less well-to-do, but from many members of the professional class (especially lawyers), most of the planters of the Southern colonies, and a number of merchants. They intimidated the hesitant into joining the popular movement and punished the hostile; began the collection of military supplies and the mobilization of troops; and fanned public opinion into revolutionary ardor.
Many of those opposed to British encroachment on American rights nonetheless favored discussion and compromise as the proper solution. This group included Crown-appointed officers, Quakers, and members of other religious sects opposed to the use of violence, numerous merchants (especially in the middle colonies), and some discontented farmers and frontiersmen in the Southern colonies.
The king might well have effected an alliance with these moderates and, by timely concessions, so strengthened their position that the revolutionaries would have found it difficult to proceed with hostilities. But George III had no intention of making concessions. In September 1774, scorning a petition by Philadelphia Quakers, he wrote, "The die is now cast, the Colonies must either submit or triumph." This action isolated Loyalists who were appalled and frightened by the course of events following the Coercive Acts.
THE REVOLUTION BEGINS
General Thomas Gage, an amiable English gentleman with an American-born wife, commanded the garrison at Boston, where political activity had almost wholly replaced trade. Gage's main duty in the colonies had been to enforce the Coercive Acts. When news reached him that the Massachusetts colonists were collecting powder and military stores at the town of Concord, 32 kilometers away, Gage sent a strong detail to confiscate these munitions.
After a night of marching, the British troops reached the village of Lexington on April 19, 1775, and saw a grim band of 77 Minutemen – so named because they were said to be ready to fight in a minute – through the early morning mist. The Minutemen intended only a silent protest, but Marine Major John Pitcairn, the leader of the British troops, yelled, "Disperse, you damned rebels! You dogs, run!" The leader of the Minutemen, Captain John Parker, told his troops not to fire unless fired at first. The Americans were withdrawing when someone fired a shot, which led the British troops to fire at the Minutemen. The British then charged with bayonets, leaving eight dead and 10 wounded. In the often-quoted phrase of 19th century poet Ralph Waldo Emerson, this was "the shot heard round the world."
The British pushed on to Concord. The Americans had taken away most of the munitions, but they destroyed whatever was left. In the meantime, American forces in the countryside had mobilized to harass the British on their long return to Boston. All along the road, behind stone walls, hillocks, and houses, militiamen from "every Middlesex village and farm" made targets of the bright red coats of the British soldiers. By the time Gage’s weary detachment stumbled into Boston, it had suffered more than 250 killed and wounded. The Americans lost 93 men.
The Second Continental Congress met in Philadelphia, Pennsylvania, on May 10. The Congress voted to go to war, inducting the colonial militias into continental service. It appointed Colonel George Washington of Virginia as their commander-in-chief on June 15. Within two days, the Americans had incurred high casualties at Bunker Hill just outside Boston. Congress also ordered American expeditions to march northward into Canada by fall. Capturing Montreal, they failed in a winter assault on Quebec, and eventually retreated to New York.
Despite the outbreak of armed conflict, the idea of complete separation from England was still repugnant to many members of the Continental Congress. In July, it adopted the Olive Branch Petition, begging the king to prevent further hostile actions until some sort of agreement could be worked out. King George rejected it; instead, on August 23, 1775, he issued a proclamation declaring the colonies to be in a state of rebellion.
Britain had expected the Southern colonies to remain loyal, in part because of their reliance on slavery. Many in the Southern colonies feared that a rebellion against the mother country would also trigger a slave uprising. In November 1775, Lord Dunmore, the governor of Virginia, tried to capitalize on that fear by offering freedom to all slaves who would fight for the British. Instead, his proclamation drove to the rebel side many Virginians who would otherwise have remained Loyalist.
The governor of North Carolina, Josiah Martin, also urged North Carolinians to remain loyal to the Crown. When 1,500 men answered Martin's call, they were defeated by revolutionary armies before British troops could arrive to help.
British warships continued down the coast to Charleston, South Carolina, and opened fire on the city in early June 1776. But South Carolinians had time to prepare, and repulsed the British by the end of the month. They would not return South for more than two years.
COMMON SENSE AND INDEPENDENCE
In January 1776, Thomas Paine, a radical political theorist and writer who had come to America from England in 1774, published a 50-page pamphlet, Common Sense. Within three months, it sold 100,000 copies. Paine attacked the idea of a hereditary monarchy, declaring that one honest man was worth more to society than "all the crowned ruffians that ever lived." He presented the alternatives – continued submission to a tyrannical king and an outworn government, or liberty and happiness as a self-sufficient, independent republic. Circulated throughout the colonies, Common Sense helped to crystallize a decision for separation.
There still remained the task, however, of gaining each colony's approval of a formal declaration. On June 7, Richard Henry Lee of Virginia introduced a resolution in the Second Continental Congress, declaring, "That these United Colonies are, and of right ought to be, free and independent states. ...” Immediately, a committee of five, headed by Thomas Jefferson of Virginia, was appointed to draft a document for a vote.
Largely Jefferson's work, the Declaration of Independence, adopted July 4, 1776, not only announced the birth of a new nation, but also set forth a philosophy of human freedom that would become a dynamic force throughout the entire world. The Declaration drew upon French and English Enlightenment political philosophy, but one influence in particular stands out: John Locke's Second Treatise on Government. Locke took conceptions of the traditional rights of Englishmen and universalized them into the natural rights of all humankind. The Declaration's familiar opening passage echoes Locke's social-contract theory of government:
We hold these truths to be self‑evident, that all men are created equal,
that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that
among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness. – That to secure
these rights, Governments are instituted among Men, deriving their just
powers from the consent of the governed, – That whenever any Form of
Government becomes destructive of these ends, it is the Right of the People
to alter or to abolish it, and to institute new Government, laying its
foundation on such principles and organizing its powers in such form, as to
them shall seem most likely to effect their Safety and Happiness.
Jefferson linked Locke's principles directly to the situation in the colonies. To fight for American independence was to fight for a government based on popular consent in place of a government by a king who had "combined with others to subject us to a jurisdiction foreign to our constitution, and unacknowledged by our laws. ...” Only a government based on popular consent could secure natural rights to life, liberty, and the pursuit of happiness. Thus, to fight for American independence was to fight on behalf of one's own natural rights.
DEFEATS AND VICTORIES
Although the Americans suffered severe setbacks for months after independence was declared, their tenacity and perseverance eventually paid off. During August 1776, in the Battle of Long Island in New York, Washington's position became untenable, and he executed a masterly retreat in small boats from Brooklyn to the Manhattan shore. British General William Howe twice hesitated and allowed the Americans to escape. By November, however, Howe had captured Fort Washington on Manhattan Island. New York City would remain under British control until the end of the war.
That December, Washington's forces were near collapse, as supplies and promised aid failed to materialize. Howe again missed his chance to crush the Americans by deciding to wait until spring to resume fighting. On Christmas Day, December 25, 1776, Washington crossed the Delaware River, north of Trenton, New Jersey. In the early-morning hours of December 26, his troops surprised the British garrison there, taking more than 900 prisoners. A week later, on January 3, 1777, Washington attacked the British at Princeton, regaining most of the territory formally occupied by the British. The victories at Trenton and Princeton revived flagging American spirits.
In September 1777, however, Howe defeated the American army at Brandywine in Pennsylvania and occupied Philadelphia, forcing the Continental Congress to flee. Washington had to endure the bitterly cold winter of 1777‑1778 at Valley Forge, Pennsylvania, lacking adequate food, clothing, and supplies. Farmers and merchants exchanged their goods for British gold and silver rather than for dubious paper money issued by the Continental Congress and the states.
Valley Forge was the lowest ebb for Washington's Continental Army, but elsewhere 1777 proved to be the turning point in the war. British General John Burgoyne, moving south from Canada, attempted to invade New York and New England via Lake Champlain and the Hudson River. He had too much heavy equipment to negotiate the wooded and marshy terrain. On August 6, at Oriskany, New York, a band of Loyalists and Native Americans under Burgoyne's command ran into a mobile and seasoned American force that managed to halt their advance. A few days later at Bennington, Vermont, more of Burgoyne's forces, seeking much-needed supplies, were pushed back by American troops.
Moving to the west side of the Hudson River, Burgoyne's army advanced on Albany. The Americans were waiting for him. Led by Benedict Arnold – who would later betray the Americans at West Point, New York – the colonials twice repulsed the British. Having by this time incurred heavy losses, Burgoyne fell back to Saratoga, New York, where a vastly superior American force under General Horatio Gates surrounded the British troops. On October 17, 1777, Burgoyne surrendered his entire army – six generals, 300 other officers, and 5,500 enlisted personnel.
FRANCO-AMERICAN ALLIANCE
In France, enthusiasm for the American cause was high: The French intellectual world was itself stirring against feudalism and privilege. However, the Crown lent its support to the colonies for geopolitical rather than ideological reasons: The French government had been eager for reprisal against Britain ever since France's defeat in 1763. To further the American cause, Benjamin Franklin was sent to Paris in 1776. His wit, guile, and intellect soon made their presence felt in the French capital, and played a major role in winning French assistance.
France began providing aid to the colonies in May 1776, when it sent 14 ships with war supplies to America. In fact, most of the gunpowder used by the American armies came from France. After Britain's defeat at Saratoga, France saw an opportunity to seriously weaken its ancient enemy and restore the balance of power that had been upset by the Seven Years' War (called the French and Indian War in the American colonies). On February 6, 1778, the colonies and France signed a Treaty of Amity and Commerce, in which France recognized the United States and offered trade concessions. They also signed a Treaty of Alliance, which stipulated that if France entered the war, neither country would lay down its arms until the colonies won their independence, that neither would conclude peace with Britain without the consent of the other, and that each guaranteed the other's possessions in America. This was the only bilateral defense treaty signed by the United States or its predecessors until 1949.
The Franco-American alliance soon broadened the conflict. In June 1778 British ships fired on French vessels, and the two countries went to war. In 1779 Spain, hoping to reacquire territories taken by Britain in the Seven Years' War, entered the conflict on the side of France, but not as an ally of the Americans. In 1780 Britain declared war on the Dutch, who had continued to trade with the Americans. The combination of these European powers, with France in the lead, was a far greater threat to Britain than the American colonies standing alone.
THE BRITISH MOVE SOUTH
With the French now involved, the British, still believing that most Southerners were Loyalists, stepped up their efforts in the Southern colonies. A campaign began in late 1778, with the capture of Savannah, Georgia. Shortly thereafter, British troops and naval forces converged on Charleston, South Carolina, the principal Southern port. They managed to bottle up American forces on the Charleston peninsula. On May 12, 1780, General Benjamin Lincoln surrendered the city and its 5,000 troops, in the greatest American defeat of the war.
But the reversal in fortune only emboldened the American rebels. South Carolinians began roaming the countryside, attacking British supply lines. In July, American General Horatio Gates, who had assembled a replacement force of untrained militiamen, rushed to Camden, South Carolina, to confront British forces led by General Charles Cornwallis. But Gates's makeshift army panicked and ran when confronted by the British regulars. Cornwallis's troops met the Americans several more times, but the most significant battle took place at Cowpens, South Carolina, in early 1781, where the Americans soundly defeated the British. After an exhausting but unproductive chase through North Carolina, Cornwallis set his sights on Virginia.
VICTORY AND INDEPENDENCE
In July 1780 France's King Louis XVI had sent to America an expeditionary force of 6,000 men under the Comte Jean de Rochambeau. In addition, the French fleet harassed British shipping and blocked reinforcement and resupply of British forces in Virginia. French and American armies and navies, totaling 18,000 men, parried with Cornwallis all through the summer and into the fall. Finally, on October 19, 1781, after being trapped at Yorktown near the mouth of Chesapeake Bay, Cornwallis surrendered his army of 8,000 British soldiers.
Although Cornwallis's defeat did not immediately end the war – which would drag on inconclusively for almost two more years – a new British government decided to pursue peace negotiations in Paris in early 1782, with the American side represented by Benjamin Franklin, John Adams, and John Jay. On April 15, 1783, Congress approved the final treaty. Signed on September 3, the Treaty of Paris acknowledged the independence, freedom, and sovereignty of the 13 former colonies, now states. The new United States stretched west to the Mississippi River, north to Canada, and south to Florida, which was returned to Spain. The fledgling colonies that Richard Henry Lee had spoken of more than seven years before had finally become "free and independent states."