国務省出版物
米国の歴史の概要 – 植民地時代
17世紀に米国にやってきた移民の多くはイングランド人だったが、中部地方には、オランダ人、スウェーデン人、およびドイツ人がいた。またサウスカロライナや他の地域にはフランスのユグノー教徒が、そして主に南部にはアフリカからの奴隷がいて、さらにスペイン人やイタリア人、ポルトガル人が、各植民地に散らばっていた。1680年以降は、イングランド人に代わって、スコットランド人と「スコッツ・アイリッシュ」(北アイルランドのプロテスタント)が移民の中心となった。これに加え、欧州北西部から数万人に及ぶ人々が、戦争や弾圧、不在地主制度を逃れてやってきた。その結果、1690年までに米国の人口は25万人に増えた。その後、25年間ごとに倍増し、1775年には250万人を超えるまでになった。時には、ひとつの植民地から別の植民地へ移住する家族もあったが、各植民地の特徴はそれぞれ顕著だった。そしてこの傾向は、植民地の3つの地域グループの間で一層顕著に見られた。
ニューイングランド北東部の植民地の大半は、やせて石の多い土壌に加え、相対的に平坦な土地が極めて少なく、冬が長いことから、農業を生活の糧にすることは困難だった。農業以外の事業に目を向けることになったニューイングランド人は、水力を利用して製粉所と製材所を設立した。豊富な木材は造船業の発達をもたらした。優れた港湾は貿易を促進し、海は膨大な富の源となった。マサチューセッツでは、タラ漁だけで急速に繁栄の基礎が築かれた。
初期の移民の大半は港を囲む村や町に住み、多くのニューイングランド人が、何らかの種類の貿易や商業に従事していた。共有の牧草地や植林地が、近隣で農園を営む町の住民の必要を満たした。小さく密集した植民地ゆえに、村の学校や教会、そして庁舎の設置が可能であり、市民はこうした場所に集まって共通の問題について話し合った。
マサチューセッツ湾植民地の商業活動は拡大を続け、17世紀半ば以降、繁栄を迎えた。その結果、ボストンは米国で最も重要な港のひとつとなった。
船体用のオーク材、円材やマスト用のマツ材、そして船の合わせ目に使用するマツ脂(やに)は、北東部の森林から供給された。自分たちの船を建設し、その船で世界中の港に航海することによって、マサチューセッツ湾の船主たちは貿易の基礎を築き、その貿易は着実に重要性を増していった。植民地時代末までには、英国旗を掲げる全船舶の3分の1は、ニューイングランドで建造されていた。魚類、船舶用品、および木製器具の輸出が増加した。ニューイングランドの商人と荷主たちは、間もなくラム酒と奴隷が儲けの多い商品であることに気付いた。そして、彼らが始めた「三角貿易」は決して芳しくはなかったが、この時代の最も進取的な貿易形態のひとつだった。貿易商は、ニューイングランド製のラム酒と交換に、アフリカ大陸沿岸で奴隷を買い、その奴隷を西インド諸島で売り、そこで糖蜜を買って、国に持ち帰り、地元ラム酒製造業者に転売した。
中部植民地社会は、ニューイングランド植民地社会と比べ、はるかに多様性に富んでいるとともに、国際的であり、寛容でもあった。ウィリアム・ペンの下で、ペンシルベニアは順調に運営され、急速に発展していった。1685年までに、その人口はおよそ9000人に達していた。ペンシルベニア植民地の中心はフィラデルフィアで、広い並木道、堅固なレンガと石で造られた家々、そして混み合う埠頭があった。それから1世紀近くあとの植民地時代末には、フィラデルフィアの人口は3万人にまで増え、さまざまな言語、信条そして職業を伴っていた。事業を成功させる才能を持つ住民によって、この町は大英帝国における繁栄の中心地のひとつとなった。
フィラデルフィアでは、クエーカー教徒が支配的だったが、ペンシルベニアの他の地域には、それ以外の人々も多く居住していた。その中で、ドイツ人は植民地の中で最も優秀な農民となった。織物、製靴、家具製造、および他の手工業をはじめとする家内工業もまた、重要な役割を果たした。さらにペンシルベニアは、この植民地に18世紀初めに移住したスコッツ・アイリッシュにとって、新世界への主要な玄関口でもあった。スコッツ・アイリッシュはペンシルベニアの行政官の1人に「大胆で貧乏なよそ者」と呼ばれたように、イングランド人を嫌い、あらゆる政府に対して疑念を抱いていた。その結果、スコッツ・アイリッシュは未開拓の土地に入植し、土地を開拓して、狩猟や自給用の農業によって生活することが多かった。
ニューヨークは、多言語が入り混じる米国の特徴を最もよく表す土地だった。1646年までに、ハドソン川沿いに居住していたのは、オランダ人、フランス人、デンマーク人、ノルウェー人、スウェーデン人、イングランド人、スコットランド人、アイルランド人、ドイツ人、ポーランド人、ボヘミア人、ポルトガル人、イタリア人である。オランダ人は、ニューネーデルランドが陥落し、大英帝国の植民地体制に統合された後も、長期間にわたって、引き続きニューヨーク地域に強力な社会的・経済的影響力を有していた。オランダ人が建設した急な階段状の飾りがついた切妻屋根は、この都市の伝統的な建築の一部となり、また、マンハッタン独特の活発な商業環境の多くは、オランダ人商人によってもたらされたものであった。
ニューイングランド植民地や中部植民地とは対照的に、南部植民地は農業移住が圧倒的だった。
17世紀末期まで、バージニアおよびメリーランドの経済・社会構造は、大農園主と自作農を土台としたものだった。バージニアの東部海岸地帯の大農園主は奴隷労働力に支えられながら、大きな政治権力を有し、また最高の土地を所有していた。彼らは大きな住宅を建て、貴族的な生活を送り、海の向こうの世界の文化に触れることに極力努めた。
これより狭い土地で働く自作農は、住民集会に出席し政治への道を見出すことになった。彼らは自立した存在として積極的に発言し、大農園主による寡頭制度に対し、自由民の権利を過度に侵害しないよう、常に警鐘を鳴らした。
南北カロライナの移民は、農業と商業を結びつけることをすぐに学び、市場が富の重要な源となった。深い森林は収入をもたらした。ダイオウマツ(大王松)から取れる木材、タール、樹脂は、世界で最高級の造船材料のひとつだった。単一の作物を産するバージニアと違って、南北カロライナでは、コメと同地方に自生する植物から取れる藍色染料のインディゴも生産し、輸出していた。1750年までに、ノースカロライナおよびサウスカロライナの2つの植民地には、10万人を超える移民が居住していた。また、サウスカロライナのチャールストンは、この地方で最も栄えた港であり、貿易の中心だった。
最南にあるこれらの植民地においても、奥地の人口増加には、他の地方と同様、特別の意味があった。ドイツ人移民とスコッツ・アイリッシュは、最初の入植地である英国の影響の強い東部海岸地帯に住むことを嫌い、内陸へと進んだ。海岸に沿った肥沃な土地を獲得できなかった移民や、自分たちの土地が疲弊した移民たちにとって、より西部に位置する丘陵地帯は豊かな避難場所となった。その苦労は極めて大きかったが、行き場のない移民が次々と移り住み、1730年代までには、移民たちがバージニアのシェナンドア川流域にまで流入していた。そして内陸地帯にも、間もなく農場が点在するようになった。
アメリカ先住民の土地の周辺で生活する開拓者たちは、丸木小屋を建て、荒野を切り開き、トウモロコシや小麦を栽培した。男性は鹿や羊の皮で作ったバックスキンの衣服を着用し、女性は自宅で紡いだ布の衣服を身に着けていた。食料は、鹿肉や野生のシチメンチョウ、そして魚であった。また、自分たちで娯楽を見出し、バーベキューやダンス、新婚夫婦のための新築祝いのパーティー、射撃の試合、キルトの毛布を作るコンテストなどを行った。キルト作りは今日でも米国の伝統として続いている。
植民地で、強力な貴族階級や地主階級の出現を抑えた重要な要因のひとつとして、建設された植民地の中に住んでいる誰もが、辺境に新しい居住地を見出すことのできる状況があった。東部海岸地帯の権力者たちは、時として、辺境地帯への集団移住の恐れから、政治方針、土地無償払い下げ条件、あるいは宗教上の慣習の緩和を次々に余儀なくされた。同様に、植民地時代に確立された教育や文化の基礎も、米国の将来に大きな影響を与えるものであった。1636年、マサチューセッツのケンブリッジにハーバード・カレッジが創設された。さらに、 17世紀末には、バージニアにウィリアム・アンド・メアリー大学が創設された。そしてその数年後、後にエール大学となるカレジエイト・スクール・オブ・コネティカットに設立許可が与えられた。
さらに特記すべきは、政府当局が管理する学校制度の発達である。ピューリタンは聖書を直接読むことに重点を置いており、読み書き能力が重視されていた。1647年、マサチューセッツ湾植民地で、居住者が50家族を超えるすべての町に対して、グラマー・スクール(学生の大学進学準備のためのラテン語学校)設立を義務付ける「ye olde deluder Satan(人を惑わす悪魔) 法」を制定した。その後すぐに、ロードアイランドを除く他のすべてのニューイングランド植民地がこの例に従った。
ピルグリム・ファーザーとピューリタンは、僅かながら自分たちの蔵書を植民地に持ってきていた。加えて、ロンドンから本の輸入を続けていた。1680年代には、すでにボストンで書店が繁盛し、古典文学、歴史、政治、哲学、科学、神学、および純文学の書籍を扱っていた。1638年、英国植民地としては最初の、そして北米では2台目の印刷機が、ハーバード・カレッジに設置された。
ペンシルベニアで最初の学校は1683年に開校した。この学校では読み書き、および簿記を教えた。その後、すべてのクエーカー居住地で子弟を対象とした初等教育が普及した。さらにより高度な教育、すなわち、古典言語、歴史および文学が、現在もフィラデルフィアのウィリアム・ペン・チャーター・スクールとして続いているフレンズ公立学校で教えられた。同校は、貧困層には無料で教育を施していたが、支払い能力のある家庭には授業料の支払いを要求した。
フィラデルフィアでは、どの宗教にも属さない多数の私立学校で、言語、数学、および自然科学の教育が行われていた。また、成人用の夜間学校も存在していた。女性は教育において完全に見過ごされていたわけではなかったが、教育の機会は家庭内で活動できることの訓練に限られていた。フィラデルフィアでは、富裕層の子女には、フランス語、音楽、ダンス、絵画、歌、文法、そして時として簿記の個人教師が付けられた。
18世紀のペンシルベニアの知的・文化的発展は、ジェームズ・ローガンとベンジャミン・フランクリンという2人の活動的な人格を大きく反映していた。ローガンは植民地の書記を務めており、若きフランクリンが最新の科学に関する数々の書物に接したのは、このローガンの書斎だった。1745年、ローガンは自らの蔵書を収める建物を建設し、その建物と蔵書をともに市に遺贈した。
フィラデルフィアの知的活動に対するフランクリンの貢献はさらに大きなものだった。彼はディベート・クラブを発足させ、これが後にアメリカ哲学学会へと発展した。さらに、後にペンシルベニア大学となる公立の専門学校設立にも尽力した。またフランクリンは、彼が「北米の会員制図書館の母」と名付けた、会員制図書館の設立に向けて先頭に立った。
南部植民地では、裕福な農園主や商人が子弟の教育のために、アイルランドやスコットランドから個人家庭教師を呼び寄せた。イングランドに子弟を留学させる家庭もあった。学校以外のこうした教育機会があったことから、バージニアの東部海岸地帯植民地の富裕層は公立教育の確立に関心を示さなかった。さらに、農場やプランテーションが広い範囲に散在していることも要因となって、地域共同体による学校の設立は困難だった。バージニアでは少数の無償の学校が存在するにすぎなかった。
しかし、学習への欲求は確立された共同体の中だけにとどまらなかった。辺境地帯では、スコッツ・アイリッシュが原始的な小屋に住みながらも、学問については極めて熱心であり、自分たちの入植地に教養のある牧師を迎えることに大きな努力を払った。
植民地での書籍の出版は、大半がニューイングランドに限定されており、人々の関心は宗教関連の内容に集中していた。説教集が最も一般的な印刷物だった。著名なピューリタンの聖職者であるコットン・マザー師は、400にも上る著作を残した。彼の名著『アメリカにおけるキリストの偉大な御わざ(Magnalia Christi Americana)』は、ニューイングランドの歴史の変遷を示すものである。また、当時最も人気を集めた書物は、最後の審判を恐怖に満ちた文章で綴った、マイケル・ウィグルズワース師の長編詩『最後の審判の日(The Day of Doom)』だった。
1704年には、マサチューセッツのケンブリッジで植民地において最初に成功した新聞が創刊された。そして1745年までには、北米の英国植民地内で22の新聞が刊行されていた。
ニューヨークでは、ジョン・ピーター・ゼンガーが1733年に創刊した「ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル」紙が、紙面で反政府の立場を唱えた事件を契機に、出版の自由の原則を確立する重要な第一歩が踏み出された。同紙の創刊から2年後に、植民地総督が辛らつな諷刺と皮肉をきかせたゼンガーの論調に耐え切れず、扇動的名誉毀損罪でゼンガーを投獄させた事件である。9カ月におよぶ裁判の間、ゼンガーは獄中から同紙を編集し続け、全植民地で多大な興味をかきたてた。ゼンガーの弁護を行った敏腕弁護士、アンドリュー・ハミルトンは、ゼンガーが紙面で示した批判は事実であり、誹謗に当たらないと主張した。陪審は無罪の評決を下し、ゼンガーは自由の身となった。
植民地の町々が繁栄を続ける中で、悪魔が世の中を物欲の追求に走らせているのではないかという恐れが強まり、これが「大いなる覚醒 (Great Awakening)」として知られる1730年代の信仰復興運動の一因となったと考えられる。この運動を直接指導したのは、1739年にイングランドから渡ったウェズリー教派の信仰復興運動家、ジョージ・ホィットフィールドと、マサチューセッツのノーザンプトンで会衆派教会に仕えていたジョナサン・エドワーズの2人であった。
ホィットフィールドは、まずフィラデルフィアで信仰復興運動を始め、ニューイングランドに広めていった。彼は芝居がかった表現や身振り、感情的な雄弁術で、一度に2万人もの聴衆を惹きつけた。牧師たちは教会を出て復興を説いて回ったため、宗教的混乱はニューイングランドと中部植民地の全域に広がった。
エドワーズは、ホィットフィールドと「大いなる覚醒」に影響を受けた人物の中でも最も著名である。彼の最も良く知られている貢献は、「怒れる神の手中にある罪人」と題した1741年の説教である。彼は、芝居じみた言動を拒否し、静かな思慮深い態度でメッセージを伝え、既成の教会は、贖罪の機能をキリスト教から取り除こうとしている、と説いた。彼は代表作である『自由意志論(Of Freedom of Will)』(1754年) で、彼は、カルビン主義と啓蒙主義の調和を試みた。
「大いなる覚醒」運動は、福音主義(個人の回心と聖書の無誤謬性を奉じるキリスト教教会)と信仰復興の精神をもたらし、その後も米国の宗教・文化生活に重要な役割を果たしている。またそれは、既成の聖職者の地位を弱め、信者に自らの良心を重んずるよう促した。そして、おそらく最も重要なのは、この運動が分派や教派をますます増殖させ、それとともに宗教的な寛容の原則に対する一般的な容認を促したことである。
植民地発達の初期段階に見られた顕著な特徴は、英国政府から統治上の影響をさして受けなかったことである。ジョージアを除くすべての植民地は、国王から付与された特許状に基づく、複数の出資者による会社組織、または領主制という形態で出現した。国王が新世界の植民地に対する直接統治権を会社や領主に移譲したが、当然のことながら、だからと言って必ずしも米国の入植者が外部の支配を受けなかったわけではない。例えば、バージニア会社に対する特許状に記された条件によると、政府の全権限は同社に帰属していた。しかし国王は、会社が英国内に存在することを想定していた。つまり、バージニアの住民は、国王自身が絶対的統治権を保持している場合と同様に、政府に対する発言権を持っていたわけではない。
それでもなお植民地側は、自らをロンドンの政府当局との関係が希薄な、共和国あるいは州として、すなわち、イングランドとほぼ同等の立場と見なしていた。そして、外部からの独占的支配は、様々な形で弱まっていった。政治的自由を求めて戦ってきた長いイングランドの歴史を受け継いでいる移民たちは、バージニアに対する最初の特許状に自由の原則を組み入れた。特許状では、イングランドからの移民は「イングランド領内に出生し居住するかのよう」に、すべての自由、市民権、免責を享有すると規定していた。従って移民たちは、1215年に国王ジョンによって承認された英国人の政治上ならびに市民としての自由に関する勅許状である大憲章(マグナカルタ)、そして制定法ではなく法律の判例、または伝統を基にした英国の法体系である慣習法(コモンロー)で定められた権利を享有できることになっていた。1618年、バージニア会社は、任命された総督に対し、各プランテーションの自由民たる移民が代議員を選出し、代議員は、総督ならびに任命による参議会とともに、植民地の福利のための法令制定に関わることを定めた指示を発した。
こうした施策は植民地時代を通じて、最も広範な影響力を及ぼすものとなった。これ以降、自治政府への移民の参政権が一般的に認められるようになったのである。多くの場合、国王が新たに植民地を認可するに当たり、植民地の自由民が自分たちに影響する法令に関して意見を述べる権利を有することが特許状に盛り込まれた。こうして、メリーランドのカルバート家、ペンシルベニアのウィリアム・ペン、南北カロライナの領主たち、そしてニュージャージーの領主たちに付与された特許状には、法律は「自由民の同意」を得た上で制定すると記された。
ニューイングランドでは、長年にわたり他の植民地と比べ、より発達した自治が存在していた。メイフラワー号の船上でピルグリム・ファーザーたちは「メイフラワー誓約書」と呼ばれる新政府建設に関する協約を採択し、「我々の秩序と生活維持のために相互に団結して市民的政治社会を形成し…そして今後これに基づき…植民地一般の幸福のため最も適切で便利であると考えられるような形で…正当で公平な条例、法律、憲法、そして公職を制定、構成、または組織する…」と定めた。
ピルグリム・ファーザーたちが自治の体制を確立するに当たり、法的根拠は全くなかったが、こうした行動に対して異議を唱える者はなく、誓約書に基づき、プリマス入植者たちは、外部から干渉を受けずに自治を長年にわたり行うことができた。
自治権を付与されていたマサチューセッツ湾会社でも、これと同様の状況が展開された。こうして、植民地内に住む住民の手に、すべての権限が握られていた。当初は、米国に渡った同社の最初の10数人の社員が、独裁的支配を試みた。だが間もなく他の移民たちが、公的な事柄に関する発言権を要求し、これが拒否されれば他の植民地への集団移住も辞さないと暗に示唆した。
会社側はこの要求に折れ、政府の運営は選出された代議員の手に移った。これに続き、コネティカットやロードアイランドなどのニューイングランドの他の植民地でも、移民たちがいかなる政府の権限も自分たちには及ばないと主張し、プリマスのピルグリム・ファーザーたちを手本に自分たちの政治体制を構築することによって、自治獲得に成功した。
自治条項が省略された特許状の例が2つある。国王チャールズ2世の弟ヨーク公(後の国王ジェームズ2世)に付与されたニューヨークと、「被信託者(トラスティー)」の1団に与えられたジョージアである。どちらの場合も、当初の統治の条項は短命だった。植民地の移民たちが、立法への代議員参加を執ように要求したため、当局者がすぐに譲歩したからである。
17世紀半ば、英国民の注意は清教徒革命による内戦 (1642~1649年) と、それに続くオリバー・クロムウェルの「清教徒共和国」にあまりにも集中したため、植民地政策を有効に実施することへの関心は薄れた。1660年のチャールズ2世とスチュアート王朝の復活後、英国は植民地管理へ関与する機会を増した。しかし、それでも管理は有効とは言えず、首尾一貫した計画に欠けていた。植民地の統治は、大幅に植民地自身の工夫に任されていた。
広大な海を隔てていることもまた、植民地管理を困難にする要因だった。それに加えて、初期の米国における生活それ自体の特徴があった。移民たちは、人口が密集した町が点在する限られた空間の国から、限りなく広大に見える土地にやって来たのである。このような大陸では、自然環境が強固な個人主義を促進し、人々は自ら決断を下すことに慣れていった。政府が奥地にまで管理を及ぼすには時間を要し、辺境地域では、しばしば無政府状態のまん延が見られた。
しかし、植民地における自治の獲得が、困難もなくすんなりと実現したわけではなかった。1670年代、植民地に重商主義を押し付ける目的で設置された国王直轄の「通商拓殖諸卿」委員会の経済政策に抵抗したことを理由に、マサチューセッツ湾植民地特許状を無効とする行動に出た。1685年、国王ジェームズ2世は「ニューイングランド自治領」の創設を承認し、ニュージャージーを南端とする植民地を管轄下に納めた。これによって、この地域全体に対する国王の統治が強化されることになった。国王に任命された総督、エドマンド・アンドロス卿は行政命令によって課税を行い、その他にも多くの過酷な施策を実施するとともに、これに抵抗する者を投獄した。
イングランドのジェームズ2世を退位に追い込んだ名誉革命 (1688~1689年) の知らせがボストンに届くと、人々は反乱を起こし、アンドロス総督を監禁した。新たに発せられた特許状により、マサチューセッツとプリマスは、1691年、マサチューセッツ湾王領植民地として初めて統一された。ニューイングランドの他の植民地は、以前の政府をすぐに再設置した。
英国で1689年に制定された権利章典と宗教寛容令は、英国内と同様に、植民地でも、キリスト教徒の信仰の自由を支持し、国王の権力に制限を設けた。またこれらと同等に重要なのは、ジョン・ロックの『統治二論』(1690) である。これは、名誉革命を理論的に正当化した主要な論文で、神授の権利によらない、契約を土台とした政府に関する理論を説いたものである。それは、生命、自由、ならびに財産に対して自然法で与えられた権利を有する人間は、政府がその権利を侵害した場合には、これに反乱する権利を有すると主張している。
18世紀初頭までには、ほぼすべての植民地が英国王の直轄となっていたが、植民地を管理する規則は、名誉革命で設立されたものだった。植民地の総督は、英国内で国王が失った権力を行使しようとしたが、そうした状況を認識していた植民地議会は、自分たちの「権利」と「自由」を主張することに努めた。植民地議会の影響力は、結局、英国議会が有するものと同様の、2つの主要な力がもとになっていた。すなわち、租税と支出に関する投票権と、単に総督の提案に応ずるだけでなく、法律を自ら発議する権利である。
植民地議会は、こうした権利を利用して、国王が任命した総督の権限を抑制し、議会の権限と影響力を拡大するための各種法案を通過させた。総督と議会の間で繰り返される衝突は、植民地の政治を混乱させ、植民地の移民たちをますます米英の利害の相違に“覚醒”させることになった。多くの場合、国王政府当局者たちは植民地議会が行っていることの重要性を理解せず、これをあっさり無視した。しかし、議会と総督との間の対立の中で確立されていった先例や原則は、最終的に植民地の不文「憲法」の一部となった。このようにして、植民地議会は自治権を主張していったのである。
18世紀を通じてフランスと英国は、欧州およびカリブ海で次々と交戦した。英国は主として砂糖の豊富なカリブ諸島で、ある程度優勢に立ったが、この両国の戦いは概して勝敗がはっきりせず、フランスは北米で有力な地位を維持した。1754年までフランスは、カナダおよび五大湖地方の多くのアメリカ先住民部族との間に、強力な関係を依然として築いていた。フランスはミシシッピ川を支配し、一連の砦や交易所を構築することによって、ケベックからニューオーリンズに達する三日月形の広大な帝国の境界線を画していた。英国は、引き続きアパラチア山脈の東の細長い地域に閉じ込められていた。従ってフランスは、大英帝国だけでなく、米国入植者にとっても脅威であった。ミシシッピ川流域を支配していたフランスは、米国西部への入植者の進出を阻むことができたからである。
1754年、現在のペンシルベニア州ピッツバーグ市にあたる場所にあったデュケーヌ砦で、フランス軍とバージニア民兵軍の武力衝突が起きた。バージニア軍の指揮官は、バージニアの農園主で測量技師でもあった22歳のジョージ・ワシントンだった。英国政府は、この紛争に対処するため、ニューヨーク、ペンシルベニア、メリーランド、ニューイングランドの各植民地の代表による会議を招集した。これは後に「オルバニー会議」と呼ばれるようになった会議で、1754年6月19日から7月10日まで、ニューヨークのオルバニーでイロクォイ族と会合し、彼らとの関係改善に努めるとともに、英国に対する忠誠を得ようとした。
だが同時に代議員らは、米国の各植民地の団結が「自らの存続のために不可欠である」と宣言し、ベンジャミン・フランクリンの起草した「オルバニー連合案」を採択した。これは、国王が任命する最高長官と、各議会が選ぶ代議員から成る大参議会を置くこと、そして各植民地の代議員数は、財政全体への貢献度に比例させることを提案したものだった。同案によると、この大参議会は防衛、アメリカ先住民との関係、それに西部開拓を管轄し、最も重要なこととして、独立した徴税権を有することになっていた。しかし、どの植民地も連合案を受け入れなかった。徴税の権限や西部開拓の支配権を中央政府に譲るつもりはなかったからである。
米国では「フレンチ・インディアン戦争」、欧州では「7年戦争」と呼ばれることになるフランスとの戦いで、優れた戦略的な立場と有能な指導者を持つ英国が最終的に勝利を収めた。この戦争では、西半球で行われた戦闘は全体の一部にすぎなかった。
パリ講和条約(1763年)で、フランスは、カナダ全土、五大湖地域、およびミシシッピ川以東の領土を英国に譲り渡し、北米におけるフランス帝国の夢は崩壊した。
フランスに対して勝利を収めた英国は、それまでおろそかにしていた問題、すなわち自らの帝国の統治という問題に直面せざるを得なくなった。英国政府は防衛を促進し、様々な地域や民族の多様な利害を一致させ、帝国行政の費用をより公平に分担させるためには、大きく拡大した領土を組織化することが不可欠であると考えた。
北米だけでも、英国の領土は2倍以上に広がっていた。当初はプロテスタントの英国人が大半を占めていた人口が、ケベックからのフランス語を話すカトリック教徒や、一部はキリスト教に改宗していた大勢のアメリカ先住民をも含むようになっていた。旧領土に加えてこうした新しい領土の防衛と行政を実行するには、膨大な費用と人員の増加が必要だった。この責務には、それまでの植民地制度では明らかに不十分だった。しかし、新たな制度を確立しようとすることは、植民地の人々の潜在的な懐疑心をかき立てることになった。彼らは英国を彼らの権利を保護するものではなく、危うくするものと、ますます見なすようになっていたからである。
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The Colonial Period
"What then is the American, this new man?"
– American author and agriculturist J. Hector St. John de Crèvecoeur, 1782
NEW PEOPLES
Most settlers who came to America in the 17th century were English, but there were also Dutch, Swedes, and Germans in the middle region, a few French Huguenots in South Carolina and elsewhere, slaves from Africa, primarily in the South, and a scattering of Spaniards, Italians, and Portuguese throughout the colonies. After 1680 England ceased to be the chief source of immigration, supplanted by Scots and “Scots-Irish” (Protestants from Northern Ireland). In addition, tens of thousands of refugees fled northwestern Europe to escape war, oppression, and absentee-landlordism. By 1690 the American population had risen to a quarter of a million. From then on, it doubled every 25 years until, in 1775, it numbered more than 2.5 million. Although families occasionally moved from one colony to another, distinctions between individual colonies were marked. They were even more so among the three regional groupings of colonies.
NEW ENGLAND
The northeastern New England colonies had generally thin, stony soil, relatively little level land, and long winters, making it difficult to make a living from farming. Turning to other pursuits, the New Englanders harnessed waterpower and established grain mills and sawmills. Good stands of timber encouraged shipbuilding. Excellent harbors promoted trade, and the sea became a source of great wealth. In Massachusetts, the cod industry alone quickly furnished a basis for prosperity.
With the bulk of the early settlers living in villages and towns around the harbors, many New Englanders carried on some kind of trade or business. Common pastureland and woodlots served the needs of townspeople, who worked small farms nearby. Compactness made possible the village school, the village church, and the village or town hall, where citizens met to discuss matters of common interest.
The Massachusetts Bay Colony continued to expand its commerce. From the middle of the 17th century onward it grew prosperous, so that Boston became one of America's greatest ports.
Oak timber for ships' hulls, tall pines for spars and masts, and pitch for the seams of ships came from the Northeastern forests. Building their own vessels and sailing them to ports all over the world, the shipmasters of Massachusetts Bay laid the foundation for a trade that was to grow steadily in importance. By the end of the colonial period, one-third of all vessels under the British flag were built in New England. Fish, ship's stores, and woodenware swelled the exports. New England merchants and shippers soon discovered that rum and slaves were profitable commodities. One of their most enterprising – if unsavory – trading practices of the time was the "triangular trade." Traders would purchase slaves off the coast of Africa for New England rum, then sell the slaves in the West Indies where they would buy molasses to bring home for sale to the local rum producers.
THE MIDDLE COLONIES
Society in the middle colonies was far more varied, cosmopolitan, and tolerant than in New England. Under William Penn, Pennsylvania functioned smoothly and grew rapidly. By 1685, its population was almost 9,000. The heart of the colony was Philadelphia, a city of broad, tree-shaded streets, substantial brick and stone houses, and busy docks. By the end of the colonial period, nearly a century later, 30,000 people lived there, representing many languages, creeds, and trades. Their talent for successful business enterprise made the city one of the thriving centers of the British Empire.
Though the Quakers dominated in Philadelphia, elsewhere in Pennsylvania others were well represented. Germans became the colony's most skillful farmers. Important, too, were cottage industries such as weaving, shoemaking, cabinetmaking, and other crafts. Pennsylvania was also the principal gateway into the New World for the Scots-Irish, who moved into the colony in the early 18th century. "Bold and indigent strangers," as one Pennsylvania official called them, they hated the English and were suspicious of all government. The Scots-Irish tended to settle in the backcountry, where they cleared land and lived by hunting and subsistence farming.
New York best illustrated the polyglot nature of America. By 1646 the population along the Hudson River included Dutch, French, Danes, Norwegians, Swedes, English, Scots, Irish, Germans, Poles, Bohemians, Portuguese, and Italians. The Dutch continued to exercise an important social and economic influence on the New York region long after the fall of New Netherland and their integration into the British colonial system. Their sharp‑stepped gable roofs became a permanent part of the city's architecture, and their merchants gave Manhattan much of its original bustling, commercial atmosphere.
THE SOUTHERN COLONIES
In contrast to New England and the middle colonies, the Southern colonies were predominantly rural settlements.
By the late 17th century, Virginia's and Maryland's economic and social structure rested on the great planters and the yeoman farmers. The planters of the Tidewater region, supported by slave labor, held most of the political power and the best land. They built great houses, adopted an aristocratic way of life, and kept in touch as best they could with the world of culture overseas.
The yeoman farmers, who worked smaller tracts, sat in popular assemblies and found their way into political office. Their outspoken independence was a constant warning to the oligarchy of planters not to encroach too far upon the rights of free men.
The settlers of the Carolinas quickly learned to combine agriculture and commerce, and the marketplace became a major source of prosperity. Dense forests brought revenue: Lumber, tar, and resin from the longleaf pine provided some of the best shipbuilding materials in the world. Not bound to a single crop as was Virginia, North and South Carolina also produced and exported rice and indigo, a blue dye obtained from native plants that was used in coloring fabric. By 1750 more than 100,000 people lived in the two colonies of North and South Carolina. Charleston, South Carolina, was the region’s leading port and trading center.
In the southernmost colonies, as everywhere else, population growth in the backcountry had special significance. German immigrants and Scots-Irish, unwilling to live in the original Tidewater settlements where English influence was strong, pushed inland. Those who could not secure fertile land along the coast, or who had exhausted the lands they held, found the hills farther west a bountiful refuge. Although their hardships were enormous, restless settlers kept coming; by the 1730s they were pouring into the Shenandoah Valley of Virginia. Soon the interior was dotted with farms.
Living on the edge of Native-American country, frontier families built cabins, cleared the wilderness, and cultivated maize and wheat. The men wore leather made from the skin of deer or sheep, known as buckskin; the women wore garments of cloth they spun at home. Their food consisted of venison, wild turkey, and fish. They had their own amusements – great barbecues, dances, housewarmings for newly married couples, shooting matches, and contests for making quilted blankets. Quilt-making remains an American tradition today.
SOCIETY, SCHOOLS, AND CULTURE
A significant factor deterring the emergence of a powerful aristocratic or gentry class in the colonies was the ability of anyone in an established colony to find a new home on the frontier. Time after time, dominant Tidewater figures were obliged to liberalize political policies, land-grant requirements, and religious practices by the threat of a mass exodus to the frontier.
Of equal significance for the future were the foundations of American education and culture established during the colonial period. Harvard College was founded in 1636 in Cambridge, Massachusetts. Near the end of the century, the College of William and Mary was established in Virginia. A few years later, the Collegiate School of Connecticut, later to become Yale University, was chartered.
Even more noteworthy was the growth of a school system maintained by governmental authority. The Puritan emphasis on reading directly from the Scriptures underscored the importance of literacy. In 1647 the Massachusetts Bay Colony enacted the "ye olde deluder Satan" Act, requiring every town having more than 50 families to establish a grammar school (a Latin school to prepare students for college). Shortly thereafter, all the other New England colonies, except for Rhode Island, followed its example.
The Pilgrims and Puritans had brought their own little libraries and continued to import books from London. And as early as the 1680s, Boston booksellers were doing a thriving business in works of classical literature, history, politics, philosophy, science, theology, and belles-lettres. In 1638 the first printing press in the English colonies and the second in North America was installed at Harvard College.
The first school in Pennsylvania was begun in 1683. It taught reading, writing, and keeping of accounts. Thereafter, in some fashion, every Quaker community provided for the elementary teaching of its children. More advanced training – in classical languages, history, and literature – was offered at the Friends Public School, which still operates in Philadelphia as the William Penn Charter School. The school was free to the poor, but parents were required to pay tuition if they were able.
In Philadelphia, numerous private schools with no religious affiliation taught languages, mathematics, and natural science; there were also night schools for adults. Women were not entirely overlooked, but their educational opportunities were limited to training in activities that could be conducted in the home. Private teachers instructed the daughters of prosperous Philadelphians in French, music, dancing, painting, singing, grammar, and sometimes bookkeeping.
In the 18th century, the intellectual and cultural development of Pennsylvania reflected, in large measure, the vigorous personalities of two men: James Logan and Benjamin Franklin. Logan was secretary of the colony, and it was in his fine library that young Franklin found the latest scientific works. In 1745 Logan erected a building for his collection and bequeathed both building and books to the city.
Franklin contributed even more to the intellectual activity of Philadelphia. He formed a debating club that became the embryo of the American Philosophical Society. His endeavors also led to the founding of a public academy that later developed into the University of Pennsylvania. He was a prime mover in the establishment of a subscription library, which he called "the mother of all North American subscription libraries."
In the Southern colonies, wealthy planters and merchants imported private tutors from Ireland or Scotland to teach their children. Some sent their children to school in England. Having these other opportunities, the upper classes in the Tidewater were not interested in supporting public education. In addition, the diffusion of farms and plantations made the formation of community schools difficult. There were only a few free schools in Virginia.
The desire for learning did not stop at the borders of established communities, however. On the frontier, the Scots‑Irish, though living in primitive cabins, were firm devotees of scholarship, and they made great efforts to attract learned ministers to their settlements.
Literary production in the colonies was largely confined to New England. Here attention concentrated on religious subjects. Sermons were the most common products of the press. A famous Puritan minister, the Reverend Cotton Mather, wrote some 400 works. His masterpiece, Magnalia Christi Americana, presented the pageant of New England's history. The most popular single work of the day was the Reverend Michael Wigglesworth's long poem, "The Day of Doom," which described the Last Judgment in terrifying terms.
In 1704 Cambridge, Massachusetts, launched the colonies' first successful newspaper. By 1745 there were 22 newspapers being published in British North America.
In New York, an important step in establishing the principle of freedom of the press took place with the case of John Peter Zenger, whose New York Weekly Journal, begun in 1733, represented the opposition to the government. After two years of publication, the colonial governor could no longer tolerate Zenger's satirical barbs, and had him thrown into prison on a charge of seditious libel. Zenger continued to edit his paper from jail during his nine-month trial, which excited intense interest throughout the colonies. Andrew Hamilton, the prominent lawyer who defended Zenger, argued that the charges printed by Zenger were true and hence not libelous. The jury returned a verdict of not guilty, and Zenger went free.
The increasing prosperity of the towns prompted fears that the devil was luring society into pursuit of worldly gain and may have contributed to the religious reaction of the 1730s, known as the Great Awakening. Its two immediate sources were George Whitefield, a Wesleyan revivalist who arrived from England in 1739, and Jonathan Edwards, who served the Congregational Church in Northampton, Massachusetts.
Whitefield began a religious revival in Philadelphia and then moved on to New England. He enthralled audiences of up to 20,000 people at a time with histrionic displays, gestures, and emotional oratory. Religious turmoil swept throughout New England and the middle colonies as ministers left established churches to preach the revival.
Edwards was the most prominent of those influenced by Whitefield and the Great Awakening. His most memorable contribution was his 1741 sermon, "Sinners in the Hands of an Angry God." Rejecting theatrics, he delivered his message in a quiet, thoughtful manner, arguing that the established churches sought to deprive Christianity of its function of redemption from sin. His magnum opus, Of Freedom of Will (1754), attempted to reconcile Calvinism with the Enlightenment.
The Great Awakening gave rise to evangelical denominations (those Christian churches that believe in personal conversion and the inerrancy of the Bible) and the spirit of revivalism, which continue to play significant roles in American religious and cultural life. It weakened the status of the established clergy and provoked believers to rely on their own conscience. Perhaps most important, it led to the proliferation of sects and denominations, which in turn encouraged general acceptance of the principle of religious toleration.
EMERGENCE OF COLONIAL GOVERNMENT
In the early phases of colonial development, a striking feature was the lack of controlling influence by the English government. All colonies except Georgia emerged as companies of shareholders, or as feudal proprietorships stemming from charters granted by the Crown. The fact that the king had transferred his immediate sovereignty over the New World settlements to stock companies and proprietors did not, of course, mean that the colonists in America were necessarily free of outside control. Under the terms of the Virginia Company charter, for example, full governmental authority was vested in the company itself. Nevertheless, the crown expected that the company would be resident in England. Inhabitants of Virginia, then, would have no more voice in their government than if the king himself had retained absolute rule.
Still, the colonies considered themselves chiefly as commonwealths or states, much like England itself, having only a loose association with the authorities in London. In one way or another, exclusive rule from the outside withered away. The colonists – inheritors of the long English tradition of the struggle for political liberty – incorporated concepts of freedom into Virginia's first charter. It provided that English colonists were to exercise all liberties, franchises, and immunities "as if they had been abiding and born within this our Realm of England." They were, then, to enjoy the benefits of the Magna Carta – the charter of English political and civil liberties granted by King John in 1215 – and the common law – the English system of law based on legal precedents or tradition, not statutory law. In 1618 the Virginia Company issued instructions to its appointed governor providing that free inhabitants of the plantations should elect representatives to join with the governor and an appointive council in passing ordinances for the welfare of the colony.
These measures proved to be some of the most far‑reaching in the entire colonial period. From then on, it was generally accepted that the colonists had a right to participate in their own government. In most instances, the king, in making future grants, provided in the charter that the free men of the colony should have a voice in legislation affecting them. Thus, charters awarded to the Calverts in Maryland, William Penn in Pennsylvania, the proprietors in North and South Carolina, and the proprietors in New Jersey specified that legislation should be enacted with "the consent of the freemen."
In New England, for many years, there was even more complete self-government than in the other colonies. Aboard the Mayflower, the Pilgrims adopted an instrument for government called the "Mayflower Compact," to "combine ourselves together into a civil body politic for our better ordering and preservation ... and by virtue hereof [to] enact, constitute, and frame such just and equal laws, ordinances, acts, constitutions, and offices ... as shall be thought most meet and convenient for the general good of the colony. ..."
Although there was no legal basis for the Pilgrims to establish a system of self-government, the action was not contested, and, under the compact, the Plymouth settlers were able for many years to conduct their own affairs without outside interference.
A similar situation developed in the Massachusetts Bay Company, which had been given the right to govern itself. Thus, full authority rested in the hands of persons residing in the colony. At first, the dozen or so original members of the company who had come to America attempted to rule autocratically. But the other colonists soon demanded a voice in public affairs and indicated that refusal would lead to a mass migration.
The company members yielded, and control of the government passed to elected representatives. Subsequently, other New England colonies – such as Connecticut and Rhode Island – also succeeded in becoming self-governing simply by asserting that they were beyond any governmental authority, and then setting up their own political system modeled after that of the Pilgrims at Plymouth.
In only two cases was the self-government provision omitted. These were New York, which was granted to Charles II's brother, the Duke of York (later to become King James II), and Georgia, which was granted to a group of "trustees." In both instances the provisions for governance were short‑lived, for the colonists demanded legislative representation so insistently that the authorities soon yielded.
In the mid-17th century, the English were too distracted by their Civil War (1642-1649) and Oliver Cromwell's Puritan Commonwealth to pursue an effective colonial policy. After the restoration of Charles II and the Stuart dynasty in 1660, England had more opportunity to attend to colonial administration. Even then, however, it was inefficient and lacked a coherent plan. The colonies were left largely to their own devices.
The remoteness afforded by a vast ocean also made control of the colonies difficult. Added to this was the character of life itself in early America. From countries limited in space and dotted with populous towns, the settlers had come to a land of seemingly unending reach. On such a continent, natural conditions promoted a tough individualism, as people became used to making their own decisions. Government penetrated the backcountry only slowly, and conditions of anarchy often prevailed on the frontier.
Yet the assumption of self-government in the colonies did not go entirely unchallenged. In the 1670s, the Lords of Trade and Plantations, a royal committee established to enforce the mercantile system in the colonies, moved to annul the Massachusetts Bay charter because the colony was resisting the government's economic policy. James II in 1685 approved a proposal to create a Dominion of New England and place colonies south through New Jersey under its jurisdiction, thereby tightening the Crown's control over the whole region. A royal governor, Sir Edmund Andros, levied taxes by executive order, implemented a number of other harsh measures, and jailed those who resisted.
When news of the Glorious Revolution (1688-1689), which deposed James II in England, reached Boston, the population rebelled and imprisoned Andros. Under a new charter, Massachusetts and Plymouth were united for the first time in 1691 as the royal colony of Massachusetts Bay. The other New England colonies quickly reinstalled their previous governments.
The English Bill of Rights and the Toleration Act of 1689 affirmed freedom of worship for Christians in the colonies as well as in England and enforced limits on the Crown. Equally important, John Locke's Second Treatise on Government (1690), the Glorious Revolution’s major theoretical justification, set forth a theory of government based not on divine right but on contract. It contended that the people, endowed with natural rights of life, liberty, and property, had the right to rebel when governments violated their rights.
By the early 18th century, almost all the colonies had been brought under the direct jurisdiction of the British Crown, but under the rules established by the Glorious Revolution. Colonial governors sought to exercise powers that the king had lost in England, but the colonial assemblies, aware of events there, attempted to assert their "rights" and "liberties." Their leverage rested on two significant powers similar to those held by the English Parliament: the right to vote on taxes and expenditures, and the right to initiate legislation rather than merely react to proposals of the governor.
The legislatures used these rights to check the power of royal governors and to pass other measures to expand their power and influence. The recurring clashes between governor and assembly made colonial politics tumultuous and worked increasingly to awaken the colonists to the divergence between American and English interests. In many cases, the royal authorities did not understand the importance of what the colonial assemblies were doing and simply neglected them. Nonetheless, the precedents and principles established in the conflicts between assemblies and governors eventually became part of the unwritten "constitution" of the colonies. In this way, the colonial legislatures asserted the right of self-government.
THE FRENCH AND INDIAN WAR
France and Britain engaged in a succession of wars in Europe and the Caribbean throughout the 18th century. Though Britain secured certain advantages – primarily in the sugar-rich islands of the Caribbean – the struggles were generally indecisive, and France remained in a powerful position in North America. By 1754, France still had a strong relationship with a number of Native-American tribes in Canada and along the Great Lakes. It controlled the Mississippi River and, by establishing a line of forts and trading posts, had marked out a great crescent-shaped empire stretching from Quebec to New Orleans. The British remained confined to the narrow belt east of the Appalachian Mountains. Thus the French threatened not only the British Empire but also the American colonists themselves, for in holding the Mississippi Valley, France could limit their westward expansion.
An armed clash took place in 1754 at Fort Duquesne, the site where Pittsburgh, Pennsylvania, is now located, between a band of French regulars and Virginia militiamen under the command of 22-year-old George Washington, a Virginia planter and surveyor. The British government attempted to deal with the conflict by calling a meeting of representatives from New York, Pennsylvania, Maryland, and the New England colonies. From June 19 to July 10, 1754, the Albany Congress, as it came to be known, met with the Iroquois in Albany, New York, in order to improve relations with them and secure their loyalty to the British.
But the delegates also declared a union of the American colonies "absolutely necessary for their preservation" and adopted a proposal drafted by Benjamin Franklin. The Albany Plan of Union provided for a president appointed by the king and a grand council of delegates chosen by the assemblies, with each colony to be represented in proportion to its financial contributions to the general treasury. This body would have charge of defense, Native-American relations, and trade and settlement of the west. Most importantly, it would have independent authority to levy taxes. But none of the colonies accepted the plan, since they were not prepared to surrender either the power of taxation or control over the development of the western lands to a central authority.
England's superior strategic position and her competent leadership ultimately brought victory in the conflict with France, known as the French and Indian War in America and the Seven Years' War in Europe. Only a modest portion of it was fought in the Western Hemisphere.
In the Peace of Paris (1763), France relinquished all of Canada, the Great Lakes, and the territory east of the Mississippi to the British. The dream of a French empire in North America was over.
Having triumphed over France, Britain was now compelled to face a problem that it had hitherto neglected, the governance of its empire. London thought it essential to organize its now vast possessions to facilitate defense, reconcile the divergent interests of different areas and peoples, and distribute more evenly the cost of imperial administration.
In North America alone, British territories had more than doubled. A population that had been predominantly Protestant and English now included French‑speaking Catholics from Quebec, and large numbers of partly Christianized Native Americans. Defense and administration of the new territories, as well as of the old, would require huge sums of money and increased personnel. The old colonial system was obviously inadequate to these tasks. Measures to establish a new one, however, would rouse the latent suspicions of colonials who increasingly would see Britain as no longer a protector of their rights, but rather a danger to them.