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核兵器のない世界 – 成功と失敗

過去における軍縮の試み
成功と失敗

 

ジェレミー・スリ

ワシントン海軍軍縮会議

1921 年11 月12 日~ 1922 年2 月6 日に開催されたワ シントン海軍軍縮会議では、1815 年のウィーン会議以 来の広範な国際軍縮協定が成立した。この会議では、米 国が第1 次世界大戦終結時にベルサイユ条約を拒否した にもかかわらず、主要な参加国として外交舞台に登場し た。

1921 年11 月12 日~ 1922 年2 月6 日に開催されたワ シントン海軍軍縮会議では、1815 年のウィーン会議以 来の広範な国際軍縮協定が成立した。この会議では、米 国が第1 次世界大戦終結時にベルサイユ条約を拒否した にもかかわらず、主要な参加国として外交舞台に登場し た。

5 カ国海軍軍備制限条約:1922 年2 月6 日、米国、英 国、日本、フランス、イタリアが調印。調印国が保有する戦艦と巡洋戦艦、すなわち「主力艦」を一定の比率で 制限するとともに、調印国は、新たな主力艦の建造につ いて、10 年間という前例のない長期の休止に合意した。 主力艦の保有トン数の比率は、米国と英国のそれぞれ5 に対し、日本は3、フランスおよびイタリアはそれぞれ 1.75 と定められた。

この比率は事実上、各国が第1 次大戦後に保有してい た海軍の規模縮小を意味していた。上記の戦艦保有率は 米国と英国に有利なものであったが、日本海軍がその主 要な海軍作戦行動地域である北太平洋において受けた恩 恵は少なくない。条約の一環として、米国はフィリピン、 グアム、ウェーク島、アリューシャン列島において、そ の海軍施設を拡張しないことを約束した。英国は香港に ある海軍施設を拡張しないことを約束した。

4 カ国条約:1921 年12 月13 日、米国、英国、日本、 フランスが調印。前記の5 カ国条約と並行するもので、 この4 カ国条約によって1902 年の英日同盟が解消され、 太平洋に各調印国の保護の対象となる利益圏が定められ た。各国はまた、紛争が発生した場合、戦争ではなく仲 裁によって解決することを約束した。

 

 

wwwj-ejournals-nuclear7a3 つの主要な条約を成立させた1921 ~ 22 年のワシントン海軍軍縮会議(連邦議会図書館所蔵)

 9 カ国条約:米国、英 国、日本、フランス、イ タリア、中国、ベルギー、 オランダ、ポルトガルが 調印。ワシントン会議は、 この高遠な目標を持った 条約の締結をもって 1922 年2 月6 日に終了 した。この条約は、米国 の元国務長官ジョン・ヘ イが1899 年に初めて表 明した中国における「門 戸開放原則」を擁護する ものであった。調印9 カ 国は、帝政廃止後の中国 の領土保全を尊重すると ともに、当該地域への出 入りを制限するいかなる 措置も講じないことで合 意した。これにより、各調印国は、広大な中国市場にお ける通商権を獲得することとなった。

ワシントン海軍軍縮会議は、第1 次世界大戦の惨禍を 踏まえて、主要軍事国が協力するという楽観的な未来像 を示した。この会議は、その後の、とりわけ「冷戦」後 半の軍備管理交渉の先例となった。残念ながら、1921 年と1922 年に調印されたこれらの条約には、確固とし た検証と実施のメカニズムが欠けていた。調印国の多く、 特に日本は、その後の10 年間にこれらの条約に違反し、 そうした違反が太平洋における第2 次世界大戦勃発の一 因となった。

 

バルーク案

1946 年6 月14 日に米国が国連原子力委員会に提出し た「バルーク案」は、原子力の国際規制を目指す初の主 要な提案であった。

バルーク案は、国務次官のディーン・アチソンと、世 界有数の電力会社「テネシー峡谷開発公社」総裁のデー ビッド・リリエンソールを議長とする、米国のある委員 会の審議から浮上した。

科学者との緊密な協議をもとにアチソンとリリエン ソールが提案していたのは、国連の指揮下に原子力開発 機関を設け、核分裂性物質の流通と核兵器製造能力を持 つ施設の稼動を監視させるということであった。

 

wwwj-ejournals-nuclear7b1946 年6 月、原子力規制を求める米国案を国連に提出するバーナード・バルーク(© Corbis)

2 人はまた、原子力の平和利用を図る国々に対しては、 そのための認可手続きを設けることも考えていた。そう した手続きが原子力の民生利用を促し、原子力の兵器製 造目的以外の利用を担保するのに役立つと期待したので ある。

ハリー・トルーマン大統領は、バーナード・バルーク という、すぐれた実務家でありホワイトハウスの顧問を 務めていた人物を起用し、この案を国連に提出させた。 議論を呼んだが、バルークは、アチソンとリリエンソー ルの案に修正を加えた。バルークはあらゆる原子力関連 の研究・生産を民生、軍事の別なく対象にし、原子力開 発機関を通じた、もっと厳格で踏み込んだ規制を要求し たのである。

バルークはまた、国を問わず新たな核兵器能力の開発 を禁止する措置を要求した。これは、原子力開発機関に 各国の施設や資源を差し押さえる権限を与え、核兵器禁 止に違反した国への制裁に関し、国連安全保障理事会か ら拒否権を奪うというものだった。もしバルーク案が採 択されていれば、米国による核の占有は実質的に凍結さ れ、ソ連の核兵器能力の開発は封じられていたであろう。

ソ連はバルーク案を拒否した。歴史研究者はこれまで、 もしアチソンとリリエンソールがまとめた原案が提出さ れていれば、核軍縮はもっと進んでいたかどうかをめ ぐって議論を戦わせてきたが、それはいささか考えにく い。というのも、ソ連は当時、すでに独自の大規模な核 兵器開発計画に乗り出していたからである。それでもなお、バルーク案とその前身であるアチソン・リリエン ソール案が核兵器規制に関する国際的な論議の端緒を開 き、それが1968 年の核不拡散条約という成果を生んだ のは事実である。

オープンスカイ提案

1955 年7 月18 日、世界で最も有力な政治指導者たち がスイスのジュネーブで一堂に会し、ポツダム会議以来 10 年ぶりのサミットが開催された。この1955 年のサ ミット出席者には、米国のドワイト・アイゼンハワー大 統領、英国のアンソニー・イーデン首相、フランスのエ ドガー・フォール首相のほか、ソ連からはニコライ・ブ ルガーニン首相とニキータ・フルシチョフ第一書記とい う2 人の政治指導者が名を連ねていた。1953 年のヨシ フ・スターリンの死から2 年が過ぎても、依然として誰 がソビエト連邦を代表する指導者なのか、判然としな かったのである。

 

wwwj-ejournals-nuclear7cジュネーブ・サミットに出席したブルガーニン、アイゼンハワー、フォール、イーデン(左から)(© AP Images)

955 年7 月21 日、集まった首脳たちを前に、アイゼ ンハワーはある劇的な提案を行った。自らが「オープン スカイ」と名づけた、大国間の協定案に合意を求めたの である。この提案は、冷戦大国が相互に自国領土の空中 査察を認めるというもので、航空機、いずれは人工衛星 による自由な「上空飛行」を行うことで、軍事的透明性 を高めることがねらいであった。

アイゼンハワーは、情報の透明性によって、敵の意図 に関する不合理で過剰な恐怖が軽減されれば、国際関係 は安定すると考えていた。また、アイゼンハワーには、 ソ連がその閉鎖社会を縛っている強い秘密主義で得をし ているという認識があった。おかげでソ連は、西欧や米 国の開かれた民主主義社会に比べて、ポーズをとったり、 はったりをかけたり、国内でひそかに悪事をたくらむこ とが、容易にできるのだと理解していたのである。

自国社会の秘密主義を緩和する気のなかったソ連の2 人の指導者は「オープンスカイ」提案をすぐさま拒否したが、それにもかかわらず、1950 年代後半には軍用機 による偵察と偵察衛星計画が実施され、上空飛行による 透明性は現実のものになった。さらに後年になり、米国、 ソ連、そして後のロシアの指導者たちが立ち戻ることに なったのは、国際的な安定のために上空飛行による透明 性の拡大を訴えたアイゼンハワーの呼びかけであった。

戦略兵器制限条約

1972 年5 月26 日モスクワにおいて米国のリチャー ド・ニクソン大統領とソ連の最高指導者レオニード・ブ レジネフによって調印された戦略兵器制限条約(SALT I)は、核兵器の新規製造を明確に制限する初めての軍 備管理条約であった。

 

 

wwwj-ejournals-nuclear7d1972 年5 月、モスクワでSALT I 協定に調印するニクソンとブレジネフ(© AP Images)

同条約により、米ソ2 超大国は、すでに肥大化してい た大陸間弾道核ミサイルの保有量を向こう5 年間は拡大 しないことを約束したほか、潜水艦発射核ミサイルの発 射プラットフォームの新規製造を、同数の既存の大陸間 ミサイルまたは潜水艦発射ミサイルを廃棄しない限り、 行わないことも約束した。

SALT I と同時に調印されたのが、弾道弾迎撃ミサイ ル制限条約(ABM 条約)である。この条約により、弾 道弾迎撃ミサイルを配備できる基地の数は、米ソ2 超大 国ともそれぞれ国内の2 カ所に制限された。条約の目的は、核攻撃が起こればどちら側にも自国民の大多数を保 護できる見込みがないことを明確にすることにあった。 核抑止力の論理によれば、この「相互確証破壊」の可能 性が、冷戦の政治指導者たちに絶え間ない注意と戦争回 避を促すと考えられた。

SALT I をきっかけに、米ソ間の本格的かつ持続的な 軍備管理協議のプロセスが始まった。SALT I は、科学・ 経済・文化における東西間の協力の拡大を特徴とする 70 年代のデタント(緊張緩和)の、中核的な要素となっ たのである。

1979 年6 月18 日、米国のジミー・カーター大統領と ブレジネフはSALT I を拡大した第2 次戦略兵器制限条 約(SALT II)に調印したが、その年のうちにソ連がア フガニスタンに侵攻すると、米国議会上院はこの条約を 決して批准することはなかった。それでもなお、カーター の後を継いだロナルド・レーガン大統領は、批准されて いないSALT II に盛り込まれた約束を守りつづけた。 SALT I とSALT II をめぐる交渉は、冷戦末期にレー ガンがソ連の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフと結ん だ広範囲にわたる軍備管理合意の素地を作った。

 

wwwj-ejournals-nuclear7e1997 年12 月、START 条約に従って爆破される米国最後のミニットマンII 型サイロ(地下ミサイル格納庫)(© AP Images)

戦略兵器削減条約

1991 年7 月31 日に米国のジョージ・H・W・ブッ シュ大統領とソ連の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフ との間で調印された戦略兵器削減条約(START)によっ て、冷戦は終結した。史上初めて、米ソ2 超大国が核兵 器の保有量を等しくし、かつ既存の核兵器と運搬手段の 本格的な削減に着手することで合意したのである。1972 年の第1 次戦略兵器制限条約(SALT I)では、制限の 対象が新規の兵器製造のみにとどまっていたが、 START は既存の保有核兵器にまで深く切り込むことに なった。

START により、米ソ両国とも戦略核運搬手段の上限 の数を1600 とすることが定められた。また両国はそれ ぞれの核兵器保有量について、戦略核弾頭は6000 発に 削減し、このうち弾道ミサイルに装着できる弾頭数は最大4900 発とすることになった。これは、両国の戦略核 戦力全体の30 ~ 40%の削減に相当するものであった。 1992 年5 月23 日、ソ連の崩壊に伴いその核兵器を継承 したロシア、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシの4カ国は、START の付属議定書であるリスボン議定書 に調印した。そして、ロシアを除く3 カ国は領内の核兵 器を放棄し、START 締約国としてソ連が負っていた義 務は、すべてロシアが引き継ぐこととなった。1994 年 12 月5 日に正式に批准されたSTART の有効期間は、 当初15 年とされ、その後は5 年ずつ延長可能と定められた。

 


本稿に示された意見は、必ずしも米国政府の見解あるいは政策を反映するものではない


出典:eJournal “A World Free of Nuclear Weapons”

*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

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Successes and Failures

Successes and Failures
Jeremi Suri, Professor of History, University of Wisconsin-Madison
The 20th century had some successes and some failures in arms control.

U.S. and Russia