国務省出版物
米国の歴史と民主主義の基本文書
ザ・フェデラリスト第10篇
1787年
ジェームズ・マディソン
憲法の起草は、フィラデルフィア会議への参加者と同じくらい著名な人々によって行われたが、起草されても憲法の採用を確実なものにはしなかっ た。各邦には憲法の批准に対する反対派と賛成派の両方のグループや利害関係者がいた。そして、アメリカ革命までの年月にやってきたように、アメリカ人は新 聞を通じて、提案された新しい政府の枠組みの長所と短所について、意見を述べ合い論議した。
憲法擁護派は「フェデラリスト(連邦主義派)」という名前をもらったが、むしろ「ナショナリスト(国家主義派)」と呼んだ方が正確だっただろ う。彼らの主な論点は、強力な国民政府を作る必要があるということを中核としていたからだ。「アンチフェデラリスト(反連邦主義派」として知られる憲法反 対派たちは、各邦の連合による政府を主張していたため、実は、真の意味でフェデラリストであったのは彼らのほうだった。フェデラリストが勝利したため、歴 史は反対派たちを寛大に扱わなかった。最近まで、アンチフェデラリストたちは、ある有名な随筆の言葉を借りれば、「誠意に乏しい人々」として扱われてい た。
もっと最近になって、歴史学者たちはアンチフェデラリストの主張を見直し、彼らが権利の章典の欠如や専制政治を防ぐための権力制限の問題など の、重要な問題を提起していたことがわかった。実際のところ、フェデラリストが国民に憲法批准を促す運動を始めたのは、新たな枠組みに利点があると見たと 同時に、アンチフェデラリストが憲法に反対する論調を張ったためだった。
この論争で最も有名なのは、「パブリアス」というペンネームでジェームズ・マディソン、アレクサンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイが書き、 ニューヨークの新聞紙上で発表された、85篇の論文である。これらの論文は、これまでに書かれた憲法解釈の中で最も権威あるものとみなされており、今日で も、憲法の意味するものを理解しようと努めている学者や弁護士に引用されている。
この論文のうち最も有名なものが、ジェームズ・マディソンが書いた「ザ・フェデラリスト第10篇」である。この中でマディソンは、共和政体につ いての古典的な分析を行っている。憲法反対派は、合衆国はあまりにも大きく、余りにも多くのグループ、つまり「党派」があるため、単一の政府が民主的に統 治することは不可能である、と主張していた。マディソンは、国内には確かに多くのグループがあることを認め、しばしば首を絞め合っているように見えること を嘆いた。古典的な憲法理論は、少数派の権利を犠牲にして多数派支配による統治を行うべきだと説いていた。
マディソンは、憲法に体現された共和制という処方箋では、さまざまな党派に対して自分たちの意見を表明し、政府に影響を及ぼすための十分な余地 を与えている、と論じた。多数派が少数派を押さえつけるのではなく、さまざまな利害関係者が互いの相違点について交渉し、多数派が統治するが、少数派に十 分な配慮と敬意が与えられるような解決策に到達する。多くの党派が存在するというその事実によって、1つの党派による専制的な支配を予防することができ る。そして、そうした取引が行われる媒体が、政治、つまり統治術である―というのである。
<参考文献>
ゴードン・S・ウッド「アメリカ共和制の成立、1776年-1787年(The Creation of the American Republic, 1776-1787)」(1969年)
ジョージ・ウィルス「アメリカとは―ザ・フェデラリスト(Explaining America: The Federalist)」(1981年)
S・ルーファス・デービス「連邦主義の原則―意味を追求するタイムトラベル(The Federal Principle: A Journey through Time in Quest of Meaning)」(1978年)
チャールズ・R・ケスラー編「共和制を救え―ザ・フェデラリスト・ペーパーズとアメリカの建国(Saving the Republic: The Federalist Papers and the American Founding)」(1987年)
ハーバート・J・ストーリング「アンチフェデラリストが目指したもの(What the Anti-Federalists Were For)」(1981年)
ダグラス・アデアの古典「ザ・フェデラリスト第10篇再考(The Tenth Federalist Revisited)」、ウィリアム・アンド・メアリー・クオータリー8巻(1951年):48
ザ・フェデラリスト第10篇
よく構成された連邦には数多くの利点が約束されているが、なかでもより正確に詳しく説明する価値があるのは、連邦が持つ党派の暴力を打破し、抑 制する性向である。大衆政府の支持者たちも、それが党派の暴力という危険な悪に傾きやすいことを考えると、その性格や運命について大きな懸念を持たざるを 得ない。従って、彼らは、自分が信奉する諸原則を破ることなく、害悪に対する適切な是正をもたらす案があれば、必ずやそれを正当に評価するだろう。公的な 会議に持ち込まれる不安定、不正、混乱は、実際、いたるところで大衆政府が崩壊してしまう原因となった死に至る病である。なぜなら、依然としてこれらの問 題は、自由に反対する者たちがもっともらしい熱弁を繰り広げるときに好んで使う、格好の話題になっているからである。アメリカ諸邦の憲法は古代や近代の人 民による政府のモデルに価値ある改良を行ったものであるが、その功績はどれほど称賛しても称賛しすぎることはない。しかし、各邦憲法が、こちら側の危険も 希望し、期待した通りに、効果的に除去したと主張することは、不当なえこひいきと言えるだろう。現に公私にわたる信念や社会的・個人的自由の支持者であ る、最も思慮深く有徳な市民の間から、至るところで不満の声が聞こえる。曰く、政府が余りにも不安定だ。党派間の争いの中で公共の利益が無視されている。 正義の原則や少数派の権利に沿ってではなく、利害を持つ圧倒的多数の優越的な力によって、余りにも頻繁に政策が決定されている―。これらの不満が根拠がな いものであってほしい、とどれほど切に願おうとも、明白な既知の事実を見れば、ある程度真実であることは否定できない。……これらの事実は、すべてではな くとも、主として、党派的精神が我々の民衆を汚すために用いた不安定と不正の結果である。
私は、党派を、全体の多数派であれ少数派であれ、ほかの市民の権利あるいは社会の恒久的・全体的利益に反するような感情あるいは利害という、何らかの共通の衝動によって団結し行動を起こす、相当数の市民のことだと理解している。
党派の弊害を是正する方法には2つある。1つはその原因を取り除くことであり、もう1つはその影響を抑制することである。
党派の原因を取り除く方法も2つある。1つは党派の存在に不可欠な自由を破壊するであり、もう1つは、すべての市民に同じ意見、同じ感情、同じ利益を与えることである。
第1の治療方法に関しては、当の病気よりもさらにたちが悪いとしか言いようがない。党派にとっての自由とは、炎にとっての空気のようなものであ り、それがなければ死滅する栄養物のようなものである。しかし、政治生活にとって不可欠な自由を、党派を助長するからといって廃止するのは、動物の生命に 不可欠な空気を、それが火に破壊的な力を与えるからといって、消滅させたいと思うことに劣らぬほど、愚かなことだろう。
第2の方法は、第1の方法が賢明でないのと同じくらい、実現性に乏しいものである。人間の理性が誤りを免れないものであり続け、そしてその理性 を自由に行使できる限り、さまざまな意見が形成されるだろう。人間の理性と自己愛の間に関連性が存在する限り、その人の意見と感情は相互に影響し合うだろ う。そして、前者(意見)には後者(感情)がついて回るだろう。人間の才能の多様性は、財産権が生じる所以であると同様に、利害の均一化に対する克服しが たい障害でもある。こうした多様な才能を守ることが、政府の第一の目的である。財産を獲得する多様な才能を守ることから、直ちに、程度と種類が異なる財産 の所有が生じる。そして、それが個々の所有者の感情や見解に影響を及ぼすことから、さまざまな利害関係者と党派への社会の分裂がもたらされる。・・・
ここから導き出される推論は、党派の原因を取り除くことはできず、救済はその影響を抑制する方法の中にのみ求めるべきであるということである、というものである。
党派が過半数未満で構成されている場合には、救済は共和制の原則によってもたらされる。つまり、多数派は通常の投票によって、党派の邪悪な考え 方を打ち負かすことができる。党派が行政滞らせ、社会を震撼させるかもしれない。しかし、憲法形態のもとでは、その暴力を行うことも、隠すこともできない だろう。これに対し、党派が多数派である場合には、大衆政府の形態によって、その支配的感情や利益のために、公共の利益と、ほかの市民の権利を犠牲にする ことができる。このような党派の危険性に対抗して公共の利益と個人の権利を守りながら、大衆政府の精神と形態を保持することは、我々の探求が志向すべき大 きな目標である。付言すれば、それは強く望まれるものである。それによってのみ大衆政府は、非常に長い間苦しんできた不名誉から救出され、人類にそれを尊 重し採用するように推奨されることができる。
どのような手段で、この目標を達成できるのだろうか。明らかに、その方法は2つに1つしかない。つまり、多数派の中に同じ感情や利益が時を同じ くして存在することを防ぐか、ないしは、このような感情や利益が共存している場合には、多数派がその数と地方の状況に乗じて、圧政の計画を立案し実行に移 すことができないようにするのか、のいずれでしかない。衝動と機会が一致するように任せれば、適切な抑制手段として、道徳的動機も宗教的動機も頼りになら ないことを、我々は良く知っている。これらは個人の不正や暴力を抑制するには不適切であることが分かっており、またそうした人数が多くなるにつれて、つま り、その効果が必要になるにつれて、効果を失うのである。
このような観点から、純粋な民主主義国家、つまり寄り集まって自ら政府を運営する少数の市民で構成される社会には、党派の悪弊を是正する余地が ない、と結論することができるかもしれない。ほぼすべての場合において、全体の過半数が、共通の感情や利益を持つことになるだろう。その政府そのものの形 態から、相互の意志の疎通と協力が生まれる。そして、弱小の党派や気に入らない個人を犠牲にしようとする誘惑を、抑制するものは何もない。かくして、こう した民主主義諸国は常に社会的な騒乱や闘争を繰り広げ、個人の安全や財産権とは両立しないものと見られてきた。そして概してその命は短く、暴力的な死をと げてきたのである。この種の政府の後ろ盾となってきた理論派の政治家たちは、人間の政治的な権利を完全に平等にすれば、それと同時に、その財産、意見や感 情についても完全に均一になり、同化するという、間違った前提を立ててきた。
共和国は、すなわち私の言うところの代表の仕組みを持つ政府は、別の展望を開くものであり、我々が求めている治療を約束するものである。共和国 が純粋な民主主義国家とは異なる点について検証しよう。そうすれば、連邦制に由来するべき治療の性質とその効力を理解することができるだろう。
民主国家と共和国の間の大きな相違点は、第一には、後者では選挙によって仲間から選出された少数の市民の手に政府が委ねられているという点であり、第二には、後者の方がより多くの市民と、より広大な領土を包含できるという点である。
第一の相違点の結果として、一方では、国にとっての真の利益を最もよく認識できる知恵を備え、愛国心と正義を持つ選ばれた市民の集団を経ること によって、公的な見解が、一時的な、もしくは部分的な検討しか国益に加えないといった可能性が最も小さい。このような制度のもとでは、人民の代表が表明す る公的な声の方が、そのために集まった人民が個々に意見を言うよりも、公共の利益により一致することになるだろう。他方、逆の結果になることもある。党派 的な性向を持つ人々や、地方的な偏見や悪意ある企みを持つ人々が、陰謀、汚職、その他の手段によって、まず人民の投票を獲得し、次にその利益を裏切るかも しれない。ここから生じるのは、公共の福利の適切な守護者を選出するには、小さな共和国と大きな共和国のいずれが有利かという疑問である。そして結論は、 次の2つの理由から明白に後者である。
第一に、共和国がいかに小さいものであろうと、少数者が起こす陰謀を防ぐためには、一定の数まで代表者を増やさなければならず、また共和国がい かに大きくても、多人数が起こす混乱を避けるためには、代表者を一定の数に抑えなければならない点を指摘しておかなければならない。つまり、この2つの事 例における代表者の数は、選挙民の数に比例しておらず、相対的にみれば、小さい共和国の方が多いことになる。従って、代表にふさわしい人物の割合が、大き い共和国の場合でも小さい共和国に劣らないとするならば、大きい共和国の方がふさわしい候補者の選択肢が多いため、結果として適切な選択が行われる可能性 も高くなる。
第二に、各代表者は、小さい共和国よりも大きな共和国の方が、より多くの市民によって選ばれることになるため、代表者としてふさわしくない候補 者が、余りにも選挙につきものの悪質な手段によって当選するのが難しくなる。そして、人民がより自由に投票するため、最も魅力的な長所を持つ人物や、最も 知名度の高い、定評のある人物に票が集中する可能性が高くなる。
この場合にも、ほかのほとんどの場合と同様に、中庸があり、どちらに行き過ぎても不都合が生じることを認めなければならない。選挙民の数を増や しすぎると、代表者が地元の事情や大して重要でない利益にほとんど通じていないということになってしまう。選挙民の数を減らしすぎると、代表者が選挙民と 密着しすぎるため、大きな国家目標を理解して追求するのに余りにも適さなくなる。この点、連邦憲法は、うまく折衷した形になっている。大きな総体的利益は 全国議会に、地方の個別の利益は州議会に、それぞれ付託している。
民主国家と共和国の間のもう1つの相違点は、共和制政府は、民主主義政府よりも、より多くの市民とより広い領土を管轄することができるという点 である。後者よりも前者の方が、党派的な結合の危険性が低くなるのは、主にこのような事情によるものである。社会が小さくなればなるほど、それを構成する 個別の党派や利益の数もおそらく少なくなる。個別の党派や利益が少なくなれば、多数派が同じ党派に属することが多くなる。そして、多数派を構成する個人の 数が少なくなるほど、そして彼らを含む領土が狭くなればなるほど、他を迫害する計画を協力して実行に移すのが容易になる。領域を広げれば、党派や利益をさらに多様化することができる。全体の多数派が、その他の市民の権利を侵害する動機を共有する可能性が低くなる。あるいは、こうした共通の動機が存在して も、それを共有する全員が自分たちの力を認識し、互いに団結して行動を起こすのが難しくなる。それに加えて、不正な、ないしは不名誉な目的を意図している 場合でも、同意が必要な人の数が増えるにつれて、敵か味方かわからなくなり、意志の疎通が阻まれるという利点もある。・・・
特定の州の中で、党派の指導者の影響が火をつけることもあるかもしれないが、ほかの州にまで大火を広げることはできないだろう。ある宗派が国家 連合の一部で政治的党派に堕落することがあっても、連合の全域にわたってさまざまな宗派が散在しているため、全国議会が宗派の脅威にさらされることはない はずである。紙幣、債務の破棄、財産の均等分割その他の、不正でよこしまな計画に対する怒りが、特定の州を超えて、連邦全体へ広がる可能性は低いだろう。 それと同じように、このような悪弊が特定の郡や地域を越えて州全体に広がることはないだろう。
従って、十分な広さと適切な構造を持った連邦の中にこそ、共和制政府に最もありがちな病弊に対する、共和制的な治療法がある。そして我々は、共 和主義者であることに対して感じる喜びと誇りの程度に応じて、連邦主義者の精神を育み、その特質を支援することに熱意を示すべきである。
パブリアス
出典:クリントン・ロシター編、ザ・フェデラリスト・ペーパーズ(1961年)、77-84ページ。
*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。
The Federalist No.10
James Madison
1787
The drafting of the Constitution -- even by so distinguished a gathering as those who participated in the Philadelphia convention -- did not ensure its adoption. In each state there were groups and interests opposing as well as supporting ratification. And as they had done in the years leading up to the Revolution, Americans took to their newspapers to express their views and to argue the merits and faults of the proposed new scheme of government.
Those who supported the Constitution took the name "Federalists," although it would have been more accurate to have called them "Nationalists," since their main argument centered on the need for a strong national government. Their opponents, known as the "Anti-Federalists," were in fact, the more truly federalist of the two, since they argued for a government based on a confederation of states. Because the Federalists won, history did not treat their opponents kindly, and until recently the Anti-Federalists were treated, in the words of one famous essay, as "men of little faith."
More recently, historians have re-examined the Anti-Federalist arguments, and discovered that they raised significant issues, such as the lack of a Bill of Rights and questions of limiting power so as to avoid tyranny. In fact, it was the Anti-Federalist arguments against the Constitution, as much as the advantages that the Federalists saw in the new scheme, that led the latter group to mount their own campaign to influence the people in favor of ratification.
The best known arguments in the debate appeared in a series of eighty-five newspaper essays published in New York and written by James Madison, Alexander Hamilton and John Jay under the pseudonym of "Publius." These essays are considered the most authoritative interpretation of the Constitution ever written, and even today are cited by scholars and jurists in their efforts to understand the meaning of the document.
The most famous of the essays was "The Federalist No.10," written by James Madison, in which he set forth the classic analysis of the republic. Opponents had argued that the United States was too large, and had too many groups, or "factions," to be ruled democratically by a single government. Madison acknowledged that there were in fact many groups in the country, and he lamented that they often seemed to be at each other's throats. Under classic constitutional theory, majoritarian rule should govern, and at the expense of minority rights.
Madison argued that the republican remedy embodied in the Constitution allowed the various factions sufficient room to express their views and to attempt to influence the government. Instead of the majority putting down minorities, the different interests would negotiate their differences, thus arriving at a solution in which the majority would rule but with due care and regard given to minorities. The very number of factions would preclude any one from exercising tyrannical control over the rest. And the medium in which this give and take would occur would be politics, the art of governing.
For further reading: Gordon S. Wood, The Creation of the American Republic, 1776-1787 (1969); George Wills, Explaining America: The Federalist (1981); S. Rufus Davis, The Federal Principle: A Journey through Time in Quest of Meaning (1978); Charles R. Kesler, ed., Saving the Republic: The Federalist Papers and the American Founding (1987); Herbert J. Storing, What the Anti-Federalists Were For (1981); and the classic Douglas Adair, "The Tenth Federalist Revisited," William & Mary Quarterly 8 (1951): 48.
The Federalist No.10
Among the numerous advantages promised by a well constructed Union, nonedeserves to be more accurately developed than its tendency to break and control the violence of faction. The friend of popular governments, never finds himself so much alarmed for their character and fate, as when he contemplates their propensity to this dangerous vice. He will not fail therefore to set a due value on any plan which, without violating the principles to which he is attached, provides a proper cure for it. The instability, injustice and confusion introduced into the public councils, have in truth been the mortal diseases under which popular governments have everywhere perished; as they continue to be the favorite and fruitful topics from which the adversaries to liberty derive their most specious declamations. The valuable improvements made by the American Constitutions on the popular models, both ancient and modern, cannot certainly be too much admired; but it would be an unwarrantable partiality, to contend that they have as effectually obviated the danger on this side as was wished and expected. Complaints are every where heard from our most considerate and virtuous citizens, usually the friends of public and private faith, and of public and personal liberty; that our governments are too unstable; that the public good is disregarded in the conflicts of rival parties; and that measures are too often decided, not according to the rules of justice, and the rights of the minor party; but by the superior force of an interested and over-bearing majority. However anxiously we may wish that these complaints had no foundation, the evidence of known facts will not permit us to deny that they are in some degree true. . . . These must be chiefly, if not wholly, effects of the unsteadiness and injustice, with which a factious spirit has tainted our public administrations.
By a faction I understand a number of citizens, whether amounting to a majority or minority of the whole, who are united and actuated by some common impulse of passion, or of interest, adverse to the rights of other citizens, or to the permanent and aggregate interests of the community.
There are two methods of curing the mischiefs of faction: the one, by removing its causes; the other, by controlling its effects.
There are again two methods of removing the causes of faction: the one by destroying the liberty which is essential to its existence; the other, by giving to every citizen the same opinions, the same passions, and the same interests.
It could never be more truly said than of the first remedy, that it is worse than the disease. Liberty is to faction, what air is to fire, an ailment without which it instantly expires. But it could not be a less folly to abolish liberty, which is essential to political life, because it nourishes faction, than it would be to wish the annihilation of air, which is essential to animal life, because it imparts to fire its destructive agency.
The second expedient is as impracticable, as the first would be unwise. As long as the reason of man continues fallible, and he is at liberty to exercise it, different opinions will be formed. As long as the connection subsists between his reason and his self-love, his opinions and his passions will have a reciprocal influence on each other; and the former will be objects to which the latter will attach themselves. The diversity in the faculties of men from which the rights of property originate, is not less an insuperable obstacle to a uniformity of interests. The protection of these faculties is the first object of Government. From the protection of different and unequal faculties of acquiring property, the possession of different degrees and kinds of property immediately results: and from the influence of these on the sentiments and views of the respective proprietors, ensues a division of the society into different interests and parties. . . .
The inference to which we are brought is, that the causes of faction cannot removed; and that relief is only to be sought in the means of controlling its effects.
If a faction consists of less than a majority, relief is supplied by the republican principle, which enables the majority to defeat its sinister views by regular vote: It may clog the administration, it may convulse the society; but it will be unable to execute and mask its violence under the forms of the Constitution. When a majority is included in a faction, the form of popular government on the other hand enables it to sacrifice to its ruling passion or interest, both the public good and the rights of other citizens. To secure the public good, and private rights, against the danger of such a faction, and at the same time to preserve the spirit and the form of popular government, is then the great object to which our enquiries are directed: Let me add that it is the great desideratum, by which alone this form of government can rescued from the opprobrium under which it has so long labored, and be recommended to the esteem and adoption of mankind.
By what means is this object attainable? Evidently by one of two only. Either the existence of the same passion or interest in a majority at the same time, must be prevented; or the majority, having such co-existent passion or interest, must be rendered, by their number and local situation, unable to concert and carry into effect schemes of oppression. If the impulse and the opportunity be suffered to coincide, we well know that neither moral nor religious motives can be relied on as an adequate control. They are not found to be such on the injustice and violence of individuals, and lose their efficacy in proportion to the number combined together; that is, in proportion as their efficacy becomes needful.
From this view of the subject, it may be concluded, that a pure Democracy, by which I mean, a Society, consisting of a small number of citizens, who assemble and administer the Government in person, can admit of no cure for the mischiefs of faction. A common passion or interest will, in almost every case, be felt by a majority of the whole; a communication and concert results from the form of Government itself; and there is nothing to check the inducements to sacrifice the weaker party, or an obnoxious individual. Hence it is, that such Democracies have ever been spectacles of turbulence and contention; have ever been found incompatible with personal security, or the rights of property; and have in general been as short in their lives, as they have been violent in their deaths. Theoretic politicians, who have patronized this species of Government, have erroneously supposed, that by reducing mankind to a perfect equality in their political rights, they would, at the same time, be perfectly equalized and assimilated in their possessions, their opinions, and their passions.
A Republic, by which I mean a Government in which the scheme of representation takes place, opens a different prospect, and promises the cure for which we are seeking. Let us examine the points in which it varies from pure Democracy, and we shall comprehend both the nature of the cure, and the efficacy which it must derive from the Union.
The two great points of difference between a Democracy and a Republic are, first, the delegation of the Government, in the latter, to a small number of citizens elected by the rest: secondly, the greater number of citizens, and greater sphere of country, over which the latter may be extended.
The effect of the first difference is, on the one hand to refine and the public views, by passing them through the medium of a chosen body of citizens, whose wisdom may best discern the true interest of their country, and whose patriotism and love of justice, will be least likely to sacrifice it to temporary or partial considerations. Under such a regulation, it may well happen that the public voice pronounced by the representatives of the people, will be more consonant to the public good, than if pronounced by the people themselves convened for the purpose. On the other hand, the effect may be inverted. Men of factious tempers, of local prejudices, or of sinister designs, may by intrigue, by corruption or by other means, first obtain the suffrages, and then betray the interests of the people. The question resulting is, whether small or extensive Republics are most favorable to the election of proper guardians of the public weal; and it is clearly decided in favor of the latter by two obvious considerations.
In the first place it is to be remarked that however small the Republic may be, the Representatives must be raised to a certain number, in order to guard against the cabals of a few; and that however large it may be, they must be limited to a certain number, in order to guard against the confusion of a multitude. Hence the number of Representatives in the two cases, not being in proportion to that of the Constituents, and being proportionally greatest in the small Republic, it follows, that if the proportion of fit characters, be not less, in the large than in the small Republic, the former will present a greater option, and consequently a greater probability of a fit choice.
In the next place, as each Representative will be chosen by a greater number of citizens in the large than in the small Republic, it will be more difficult for unworthy candidates to practise with success the vicious arts, by which elections are too often carried; and the suffrages of the people being more free, will be more likely to center on men who possess the most attractive merit, and the most diffusive and established characters.
It must be confessed, that in this, as in most other cases, there is a mean, on both sides of which inconveniencies will be found to lie. By enlarging too much the number of electors, you render the representative too little acquainted with all their local circumstances and lesser interests; as by reducing it too much, you render him unduly attached to these, and too little fit to comprehend and pursue great and national objects. The Federal Constitution forms a happy combination in this respect; the great and aggregate interests being referred to the national, the local and particular, to the state legislatures.
The other point of difference is, the greater number of citizens and extent of territory which may be brought within the compass of Republican, than of Democratic Government; and it is this circumstance principally which renders factious combinations less to be dreaded in the former, than in the latter. The smaller the society, the fewer probably will be the distinct parties and interests composing it; the fewer the distinct parties and interests, the more frequently will a majority be found of the same party; and the smaller the number of individuals composing a majority, and the smaller the compass within which they are placed, the more easily will they concert and execute their plans of oppression.
Extend the sphere, and you take in a greater variety of parties and interests; you make it less probable that a majority of the whole will have a common motive to invade the rights of other citizens; or if such a common motive exists, it will be more difficult for all who feel it to discover their own strength, and to act in unison with each other. Besides other impediments, it may be remarked, that where there is a consciousness of unjust or dishonorable purposes, a communication is always checked by distrust, in proportion to the number whose concurrence is necessary. . . .
The influence of factious leaders may kindle a flame within their particular States, but will be unable to spread a general conflagration through the other States: a religious sect, may degenerate into a political faction in a part of the Confederacy; but the variety of sects dispersed over the entire face of it, must secure the national Councils against any danger from that source: a rage for paper money, for an abolition of debts, for an equal division of property, or for any other improper or wicked project, will be less apt to pervade the whole body of the Union, than a particular member of it; in the same proportion as such a malady is more likely to taint a particular county or district, than an entire State.
In the extent and proper structure of the Union, therefore, we behold a Republican remedy for the diseases most incident to Republican Government. And according to the degree of pleasure and pride, we feel in being Republicans, ought to be our zeal in cherishing the spirit, and supporting the character of Federalists.
Publius
Source: Clinton Rossiter, ed., The Federalist Papers (1961), 77-84.