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アメリカ合衆国のポートレート - 第8章「政教分離」

 
信教の自由 

アメリカ人は、建国の歴史の初期に、国教あるいは政府の支持する宗教という概念を拒否した。ヨーロッパの多くの国々では、そうした宗教が国を支配し、国家の分裂の原因となっていた。政教の分離を規定した合衆国憲法修正第1条には、「議会は、国教を樹立し、あるいは、信教上の自由な行為を禁止する法律・・・を制定してはならない」という1節がある。

修正第1条は単純明快であるように思えるが、アメリカでは政治と宗教を明確に区別することは、憲法学者にとっても、ときとして困難である。公立学校の生徒が学校の時間中に公にお祈りをすることは禁止されているが、連邦議会では常に開会の際に牧師が祈りをあげる。地方自治体が公共の場所にクリスマスの飾りを施すことは禁じられているが、アメリカの通貨には「我々は神を信頼する」というスローガンが書かれている。また宗教団体への寄付金は所得控除の対象となる。教会系の大学の学生は、他の大学生と同様に連邦政府のローンを受けることができるが、宗教団体経営の初等・中等学校に通う生徒は、連邦政府の資金援助を受けられない。

こうした明らかな矛盾を解決することは永久に不可能かもしれない。議会は宗教を制定してもいけないし、宗教に干渉してもいけないと定めた修正第1条そのものが緊張をはらんでおり、実際そこに矛盾の原因があるからである。この2つの要請のどちらにも抵触しないように努めることは、アメリカの公職者が求められる最も難しい仕事の1つである。

 

憲法修正第1条の解釈

後に植民地となった北アメリカの最初の入植地の1つは、英国の清教徒であるカルビン主義者によって設立された。彼らは、英国国教会が確立していた祖国では孤立していた。清教徒は、マサチューセッツに入植し、成長し、繁栄した。そして、自らの成功は、神が満足していることを表す徴であると見なし、その宗教的信条に同意しない者を甘受すべきではないと決め込んでいた。

その植民地の住民の1人、ロジャー・ウィリアムズは、聖職者と意見が合わず、植民地の指導者たちによって追放された。ウィリアムズは、誰もが信教の自由を享受できる、新たな植民地を設立した。これが後にロードアイランド州となった。このほかにも、宗教的迫害を受けた人たちの避難所として誕生した州が2つある。カトリック教徒の避難所となったメリーランド州と、フレンド会(クエーカー)のペンシルベニア州である。クエーカーは、プロテスタントの1派で、質素な生活と平和主義を信奉する。

1787年に合衆国憲法が制定され、1791には修正第1条を含む権利章典が付加された後も、一部の州では依然としてプロテスタント教会が優遇されていた。たとえばマサチューセッツ州では、1833年まで、政教が完全に分離されていなかった。(修正第1条は連邦政府を対象としたもので、各州には適用されない。1868年に批准された修正第14条は、州が「正当な法の手続きによらないで、個人の生命、自由、あるいは財産を奪う」ことを禁じているが、この項は、権利章典で保障されている権利を、信教の自由も含めて、州が保護することを義務付けている、と解釈されてきた。)

20世紀には、教会と国との関係は、市民の義務と個人の良心との間の葛藤という、新たな段階を迎えた。この葛藤に対処するアプローチの大まかな輪郭は、最高裁判所のいくつかの裁定を通じて形作られた。

その中でも恐らく最も注目すべき裁定は、「ウエストバージニア州教育委員会対バーネット」(1943年)の判決である。この訴訟のきっかけは、エホバの証人の信者が、学校の時間中にアメリカ国旗への敬礼を拒否したことだった。州法では、国旗への敬礼が義務付けられていた。エホバの証人は、同派の教えではそのように忠誠を誓うことは禁じられているため、彼らは自らの良心に背くことを強制されている、と主張した。その3年前に、最高裁判所はこれと同様の法律を支持する判決を下し、強い批判を受けていた。1943年の訴訟で最高裁判所は、修正第1条の別の条項、すなわち言論の自由を保障する条項を援用して、事実上、前回の自らの判決を覆した。国旗への敬礼を言論の1形態と見なし、州は州民に敬礼を強制することはできない、との判決を下したのである。

その後も最高裁判所は、一部の宗教団体を対象に、法適用の例外を認めてきた。しかし、個人の良心の問題と、他の人々に悪影響を及ぼす行為との間には、依然として一線が画されている。19世紀に、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)の会員らが複婚の罪で投獄されたのは、このためである。(その後、モルモン教会は、複婚の是認を撤回した。)最近では、信仰が病気を治すのであり、医師の治療を受けてはならないとする宗派の教えに従って、親が病気の子どもに治療を受けさせず、子どもが死亡した場合に、親が過失罪で有罪となるケースが見られる。

 

プロテスタント – リベラル派と保守派

これまでアメリカ人は、宗教的な興奮の波に何度も巻き込まれてきた。その1つが、1740年代の「大覚醒」と呼ばれる運動で、プロテスタントの数派が結束し、組織化された宗教の自己満足を打開しようとした。19世紀初めには、第2の大覚醒運動がニューイングランドを席巻した。

しかし、ニューイングランドの聖職者が皆、信仰復興の呼びかけに共感を示したわけではない。神は救われる者(「選民」)をすでに選んでいるのであり、善行その他の手段を通じて自らの運命を変える能力は人間にはない、とするカルビン主義の運命予定説を放棄した聖職者もいた。一部の牧師は、人には皆自由意志があり、誰もが救われ得る、と説いた。さらにより一層リベラルな考えを持ち、従来のキリスト教の信条の多くを捨てた人たちもいた。彼らは、アメリカ全体で確立していた進歩の概念の影響を受け、科学が自然界に対する我々の理解を修正したように、理性が宗教の教義の再評価を促すべきだと提案した。

19世紀におけるアメリカのリベラル・プロテスタント主義に呼応して、ヨーロッパでも同様の傾向が見られ、学者が聖書の新たな解釈を始めていた。彼らは、聖書に記された奇跡の信憑性と、聖書の著者に関する従来の考えに疑問を呈した。加えて、チャールズ・ダーウィンの進化論の挑戦にも対処しなければならなかった。大半の科学者が、人類は他の動物から進化したと信じるようになっていたが、そうだとすれば、アダムとイブが最初の親であるという聖書の物語は、掛け値なしの真実ではあり得なくなる。

19世紀のリベラル・プロテスタントが20世紀のリベラル・プロテスタントと異なっていたのは、人間の向上の能力に対する彼らの楽観主義である。初期の牧師たちの中には、教会が社会改革を試みることによって進歩を加速できると信じる人たちもいた。彼らは、キリスト教の精神に基づき、都会の貧困層のために活動を始めた。今日では、プロテスタントだけでなくカトリックその他も含めたリベラルな聖職者たちの間で、進歩が不可避であるとの確信が、以前に比べると低下しているかもしれない。しかし彼らの多くは、ホームレス・シェルターの管理、飢えている人たちへの食事提供、託児所の運営、そして社会問題での発言など、貧困層のための努力を続けている。また、キリスト教徒を1つの教会に再結集させることを目指す世界キリスト教統一運動で活動している人たちも多い。

リベラル・プロテスタントが教義の緩和を求めたのに対し、保守派プロテスタントは、聖書の字義どおりの真実から逸脱することは正当化できないと信じていた。こうした保守派プロテスタント主義は、新約聖書の教えを熱狂的に支持することから、「福音主義」とも呼ばれる。

福音主義のキリスト教徒は、宗教に対する熱烈な参加型のアプローチを好む。その礼拝は往々にしてきわめて熱のこもったものであり、皆で歌を歌ったり、ドラマチックな説教に対して会衆が熱烈な反応を返す光景が見られる。特にアメリカ南部は、こうした「昔ながらの宗教」の砦となり、南部では保守派バプテスト教会が大きな影響力を持っている。ここ何十年かの間に、一部の牧師はテレビを利用し、「テレビ伝道者」として大勢の聴衆に伝道をするようになった。

1925年、保守的な信仰と近代科学の衝突が具現化したのが、テネシー州における、いわゆるスコープス裁判である。高校の生物教師ジョン・スコープスは、公立学校で進化論を教えることを禁止する州法に違反したかどで起訴された。当時アメリカで最高の刑事弁護士だったクラレンス・ダローが被告側弁護人を務め、著名な人民党員で元大統領候補のウィリアム・ジェニングズ・ブライアンが検察側となって、センセーショナルな訴訟が行われた末、スコープスは有罪となった。

後に最高裁判所は、進化論を教えることを禁じる法律は、国教の制定を禁止する憲法修正第1条に違反する、との判決を下している。その後、ルイジアナ州は、別のアプローチを試み、聖書の特殊創造説の授業を選択肢として提供せずに進化論を教えることを禁止した。しかし最高裁判所は、これを国教の制定であるとして、この州法を無効とした。

最高裁判所の明確な裁定にもかかわらず、こうした理性対信仰の問題は、依然として続いている。宗教的保守派は、進化論のみを教えることは、人間の理性を、啓示された真実より上位に置くことであり、反宗教的である、と主張する。また、通常はリベラル派と見なされている思想家でさえも、アメリカのマスコミその他の機関は、組織化された宗教を軽蔑するとまではいわないまでも、軽視するような風潮を助長している、と主張してきた。一方、公立学校から宗教的な教育や慣習を排除する傾向に伴い、一部の親は、子どもを宗教系の学校に通わせたり、自宅で子どもを教育するようになった。

 

カトリックと宗教系の学校

南北戦争の頃には、100万人を超えるアイルランド系カトリック教徒がアメリカに渡ってきていた。プロテスタントが主流を占めるアメリカで、アイルランド系その他のカトリック教徒は、偏見の対象となった。1960年になっても、一部のアメリカ民は、カトリックの大統領候補ジョン・F・ケネディが当選したら、ローマ法王の言いなりになる、としてケネディ候補に反対した。ケネディは、この問題に真正面から立ち向かい、自分はアメリカの大統領となることを誓約した。ケネディが大統領に選出されたことは、アメリカにおけるカトリックへの偏見の軽減に大きく貢献した。

カトリック教徒が公立学校や公立病院の利用を拒否されることはなかったが、彼らは19世紀以降、自分たちのための施設を作るようになった。こうした施設は、一般に認められた基準を満たす一方で、カトリックの信仰と道徳に沿ったものだった。しかし、カトリック教会は、信者が教会経営の施設を利用することを義務付けてはいない。カトリック教徒の子弟の多くは、公立学校や非宗教系の大学に通っている。しかし、カトリック系の学校に通う子弟も多く、また他教徒の人たちが、カトリック校の規律と授業の質の高さにひかれて、子弟を通わせる例も増えている。

カトリック教徒は長年にわたって、政教分離が、他の宗教と同様に、カトリックの信仰の実践も保護していることを認識してきた。しかし、別個の教育制度を維持するための費用がかさむようになるにつれて、カトリック教徒は、この原則の適用の1つの側面に疑問を持ち始めた。カトリック教徒の父兄たちは、自分たちは税金を払って公立学校を支える一方、子どもを私立学校に行かせて政府の資金を節約し、その上私立学校の授業料も払っている、と考え、教育費の負担軽減のために政府の資金を獲得する方法を探した。必ずしも宗教系ではない、他の私立学校に子どもを通わせる親たちも、この運動に参加した。

多くの州で、州議会はこの動きに同情的だったが、最高裁判所は、宗教系学校への援助を求める大半の試みを違憲と裁定した。最高裁判所は、国と教会との過度の「かかわり合い」は、合衆国憲法修正第1条による国教樹立の禁止に違反する、と判断した。憲法の修正によって政教分離を変えようとする試みは、成功していない。

 

多信仰の国

カトリックと同様ユダヤ教徒も、アメリカの歴史の初期には、ごく少数派だった。19世紀末まで、アメリカのユダヤ人の大半はドイツ系だった。彼らの多くは、ユダヤ教徒の中でも、近代生活の多くの面に適応してきたリベラルな1派で、改革運動に参加していた。南北戦争以前は、反ユダヤ主義は大きな問題ではなかった。しかし、ユダヤ人が大挙してアメリカに渡ってくるようになると、反ユダヤ主義が頭をもたげ始めた。ロシアやポーランドから移住したユダヤ人は、ユダヤ主義の伝統と食事の決まりを厳格に守る正統派ユダヤ教徒だった。彼らは、最初はアメリカの都市部の特定地域に固まって住み着いた。

通常、ユダヤ人の子弟たちは公立学校に通うかたわら、特別なヘブライ語学校で宗教の授業を受けた。ユダヤ系移民の子弟たちは、急速に専門職や大学で頭角を現し、知的階層の指導的な存在となる者も多かった。その多くは、引き続きユダヤ教を遵守したが、一方、民族的にはユダヤ人の自覚を持ちながら、世俗的かつ非宗教的な考え方を採り入れる人たちもいた。

ユダヤ人は、偏見や差別と戦うために、ブナイ・ブリス名誉毀損防止連盟を結成した。ブナイ・ブリスは、アメリカ人に偏見の不当性を教え、ユダヤ人だけでなくあらゆる少数グループの権利を認識させる上で、大きな役割を果たしてきた。

1950年代までには、アメリカには3大宗教体制ができあがっていた。つまりアメリカ人は、大きく分けて、プロテスタント、カトリック教徒、ユダヤ教徒の3グループから成る、といわれた。この順番が勢力順を表し、1990年の国勢調査では、プロテスタントが全宗派を合わせて1億4,000万人、カトリック教徒が6,200万人、ユダヤ教徒が500万人となっていた。

しかし、今日、この3大宗教体制は当てはまらなくなっている。現在、アメリカでは、イスラム教徒も500万人に達する。その多くは、イスラム教に改宗したアフリカ系アメリカ人である。現在、アメリカにはモスクが約1,200あるが、この数は過去15年間に倍増したと見積もられている。また、仏教国やヒンズー教国からの移民の流入に伴い、これらの宗教も広がっている。宗徒が郊外に移住した都心部のキリスト教会が教会の建物を仏教徒に売却し、仏教徒がその建物を仏教の儀式用に改装している例もいくつかある。

 

寛容の原則

アメリカは、これまで新しい宗教にとって肥沃な土壌だった。アメリカで生まれた信仰の中で恐らく最もよく知られているものに、モルモン教会とクリスチャン・サイエンス教会がある。宗教問題への不干渉の伝統を持つアメリカは、外国から来た多くの小規模な宗派にとって居心地の良い住家を提供してきた。その1つが、主にペンシルバニア州とその近隣州に住むアーミッシュ(アマン派)である。アーミッシュは、ドイツ移民の子孫で、何代にもわたって簡素な生活を営み、質素な服を着て、近代技術を忌避してきた。

小さな宗教団体の中には、過激な信条を公言し、創設者を賛美する傾向があることから、宗教的カルトと見なされているグループもある。カルトとその構成員も、法を守っている限り、通常干渉されることはない。アメリカでは、宗教的偏見はまれにしか見られず、宗派を超えての会合や協力が日常茶飯事となっている。

今日、アメリカで宗教に関して最も物議を醸しているのは、政治における宗教の役割ではないかと思われる。ここ何十年間か、アメリカ人は、政教分離が、宗教に対して敵対的な意味で解釈されてきた、と信じるようになった。宗教的保守派と原理主義者が手を結んで、キリスト教右派という強力な政治勢力となっている。キリスト教右派の目標の1つは、人工妊娠中絶を許可し、公立学校でのお祈りを禁止した最高裁判所の判決を、法律または憲法修正によって覆すことである。「クリスチャン連合」の元専務理事ラルフ・リードの算定によると、1996年の共和党全国党大会代議員の3分の1は、クリスチャン連合または同様のキリスト教保守派団体の会員だったという。これは、政治への宗教の関わりの拡大を表している。

宗教的信念を示威的に表明する団体もあるが、大半のアメリカ人にとって、宗教は日常会話では通常話題にならない個人的な問題である。圧倒的に大多数の国民は、伝統的な宗派または無宗派の教会員として、あるいは組織的な宗教団体に属さない個人として、自らの選んだ方法で、静かに信仰を実践している。どのように信仰を実践するにしても、アメリカ人が宗教的な国民であることは事実である。アメリカ民の10人中9人が、自分の好みの宗教を表明しており、国民の約7割が、何らかの教会に属している。


出典:Portrait of the USA

*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

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