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米国の歴史の概要 – 不満と改革

「偉大な民主主義は、進歩的でなければ、偉大でも民主主義でもない。」
 
農民の窮状とポピュリズムの台頭
1913年3月3日、ワシントンDCのペンシルベニア・アベニューを行進する女性参政権支持者たち (Library of Congress)

1913年3月3日、ワシントンDCのペンシルベニア・アベニューを行進する女性参政権支持者たち (Library of Congress)

米国の農民は、大きな前進にもかかわらず、19世紀末に何度も困難な状況に直面した。機械の改良によって1ヘクタール当たりの収穫高は大きく上昇した。19世紀後半を通じて、鉄道の発展と、平原地帯のインディアンの漸進的な強制移住によって、西部に新たな入植地域が開け、耕作面積は急速に拡大された。カナダ、アルゼンチン、オーストラリアなどでも同様の農地拡大が進行していたため、米国の農産物の多くが輸出されていた国際市場でも状況が悪化した。世界中で大量の供給が農産物の価格を押し下げていた。

中西部の農民は、農産物を市場へ輸送するための鉄道輸送費が高すぎると考え、不満を高めていた。彼らは、大企業に対する補助制度である保護関税が、彼らの使う農機具の価格をますます高くしている、と考えた。市場価格の低下と費用の上昇に圧迫された農民たちは、債務負担の増加と、彼らの抵当を抑えている銀行に対する反感を強めた。天候までが非協力的であった。1880年代後半の干ばつは、大平原地帯西部に壊滅的な打撃を与え、何千人もの入植者が破産を余儀なくされた。

南部では、奴隷制の廃止が大きな変化をもたらした。農地の多くは小作人によって耕されていた。彼らは、借地代および種子や必需品の代金として、収穫の半分を地主に納めていた。南部のアフリカ系米国人農民の80%、そして白人農民の40%が、こうした厳しい体制の下で暮らしていたと推定されている。小作人の大半は、債務の悪循環にはまり、そこから脱出する可能性としては、作付を増やすしかなかった。そのため綿花とタバコが過剰に生産され、その結果、価格が低下し、土壌がさらに疲弊した。

農業における全般的な諸問題に取り組むための最初の組織的な活動は、「Patrons of Husbandry(農業の支援者)」という農民団体によるものであった。この活動は、「グレンジ運動」として知られている。グレンジは、1867年に米国農務省の職員によって設立され、当初は、ほとんどの農家が直面していた孤立的な状況に対応するための社会活動に重点を置いていた。グレンジは、女性の参加を積極的に奨励した。1873年の恐慌をきっかけにグレンジは拡大し、間もなく2万の支部と150万人の会員を持つに至った。

グレンジは、独自の流通機構、店舗、加工施設、工場、および協同組合を設立したが、そのほとんどが最終的には失敗した。グレンジ運動は政治的にも多少の成功を収め、1870年代には、いくつかの州で、鉄道料金と倉庫料を制限する「グレンジ法」が可決された。

1880年までには、グレンジは衰退し、代わりに農民同盟が出現していた。農民同盟は、多くの面でグレンジと似ていたが、グレンジより公然と政治性を表に出していた。当初は自立した州組織であった農民同盟は、1890年までには、ニューヨーク州からカリフォルニア州まで全米で150万人のメンバーを擁していた。農民同盟に匹敵するアフリカ系米国人の団体である黒人農民全国同盟には、100万人以上のメンバーがいた。これらの同盟は、北部と南部の2大ブロックに連合し、「米国の農民を、階級的立法と資本の集中による浸食から守るために、団結させる」ことを目指す詳細な経済プログラムを促進した。

1890年までには、農民の不満は、長年にわたる困難と、マッキンリー関税への反感によって、かつてないレベルに達していた。農民同盟は、彼らに同情的な南部の民主党員や西部の小規模な第3党の協力を得て、政治力を高める活動を推進した。こうして第3の政党である人民党(ポピュリスト党)が誕生した。大平原と綿花の産地に巻き起こったポピュリスト熱は、それまでの米国の政治には見られないものであった。1890 年の選挙によって、南部と西部の12州でこの新しい政党が権力を得た。そして連邦議会に大勢のポピュリスト党議員が誕生した。

初めてのポピュリスト党大会は1892年に開催された。農業団体、労働組合、および改革組織の代表が、ネブラスカ州オマハに集まり、産業・金融トラストによって腐敗し切っていると彼らが考える米国の政治制度を打倒することを決議した。彼らの政治要綱には次のように述べられていた。

われわれは、国家が道徳的、政治的、および物質的な破滅に瀕している中で会合を開いている。腐敗が投票所、州議会、連邦議会を支配し、裁判所にまで影響を及ぼしている。・・・政府の不正を生むのと同じ多産な胎内から、われわれは、放浪者と百万長者という2つの巨大な階級を生み出している。

ポピュリスト党の政治要綱の実用的な部分では、鉄道の国営化、低関税、政府所有の倉庫に保管される腐敗しない作物によって保証される融資、そして最も議論を呼ぶ提案として、金1オンスに対して銀16オンスという「従来の」比率で銀貨を無制限に鋳造し、財務省が購入することによる通貨インフレーションが要求された。

ポピュリスト党は、西部と南部で目覚ましい活躍をし、同党の大統領候補は100万以上の票を集めた。しかし、間もなく通貨の問題がその他すべての課題の影を薄くしてしまった。農民の代表は、彼らの問題の原因は通貨の不足にあると考え、通貨の量を増やせば、間接的に農産物の価格が引き上げられ、産業労働者の賃金が上がり、膨張した通貨によって債務の支払いが可能になる、と主張した。一方、保守派グループや金融階級は、16対1という価格比率は、銀の市場価格の2倍近くである、と応じた。無制限の購入により、財務省の保有する金がほぼなくなり、ドルの価値が急落し、労働階級と中流階級の購買力が破壊される。金本位制だけが安定を提供する、と彼らは主張した。

1893年の金融恐慌は、この論争の緊張を高めた。南部と中西部で銀行の倒産が続き、失業率が急上昇し、作物価格が大幅に下落した。この危機と、グローバー・クリーブランド大統領が金本位制を擁護したことによって、民主党内の意見が真っ二つに分かれた。1896年の大統領選を前にして、銀本位制を支持する民主党員は、ポピュリスト党に移った。

その年の民主党大会では、米国政治史上有数の著名な演説が大きな影響を与えた。「人類を金の十字架にかけてはならない」と訴えた、ネブラスカ州出身の若い銀本位制支持者ウィリアム・ジェニングズ・ブライアンが、民主党大統領候補に指名された。ポピュリスト党もブライアンを支持した。

その後の歴史的な選挙戦で、ブライアンは南部と西部のほとんどすべての州で勝利を収めた。しかし彼は人口の多い工業地域である北部と東部で勝つことができず、大統領選自体も、共和党候補のウィリアム・マッキンリーに勝利を譲った。

翌年には、アラスカとユーコンで金が発見されたこともあって、米国の財政状況は改善に向かい始めた。これが、通貨供給の控えめな増大の根拠となった。1898年のスペイン・アメリカ戦争によって、国民の関心は、ポピュリスト党の提示する課題からさらに離れ、ポピュリズムと銀本位制の問題は忘れ去られた。しかし、ポピュリズムのその他の改革案の多くはその後も生き残った。

労働者の闘争

19世紀米国の産業労働者の生活は厳しかった。景気の良いときでも賃金は安く、労働時間は長く、労働環境は危険であった。国家の成長がもたらした富は、ほとんど労働者に届くことはなかった。また、産業によっては、女性と子どもが労働力に占める比率が高く、その賃金は、男性の賃金に比べ、きわめて低かった。全国的な経済危機が定期的に訪れ、賃金をさらに引き下げるとともに、失業率を上昇させた。

同時に、技術の改善が、米国の生産性を大きく向上させる一方で、熟練労働者の需要を継続的に減少させた。そして、かつてない数の移民が米国に流入し(1880年から1910年までの間に1800万人)熱心に職を求めたため、非熟練労働者の数は常に増加を続けていた。

1874年までは、米国には労働法がほとんど存在しなかったが、同年マサチューセッツ州が、全米で初めて、女性や子どもの工場労働者の労働時間を1日10時間に制限する法律を可決した。連邦政府が積極的に関与するようになったのは1930年代に入ってからであった。それまでこの分野は州および地方政府当局の決断に委ねられており、当局が労働者に対して、裕福な産業家に対するような迅速な対応をすることはほとんどなかった。

19世紀後半に支配的であり、巨大な富と権力の集中を促進した、自由競争的な資本主義は、当時の司法制度に擁護され、こうした制度に挑戦する者は次々と裁判で敗北した。これは、単に、当時優勢だった哲学に沿ったものであった。多くの社会思想家は、ダーウィンの科学に対する単純化された理解に基づき、小企業を犠牲にした大企業の成長と、少数の富者と多数の貧者の併存は「適者生存」であり、進歩の不可避的な副産物である、と考えた。米国の労働者、特に熟練労働者は、工業化されたヨーロッパ諸国のそうした労働者と、少なくとも同等の生活水準を得ていたようである。しかし、その社会的な代償は大きかった。1900年になっても、米国は、世界の工業国の中で、就業中の死亡率が最も高かった。産業労働者のほとんどは、依然として1日10時間働いており(製鉄業では1日12時間)、それでもある程度の生活に必要とされる最低限の収入を得ることができなかった。1870年から1900年までの間に、働く子どもたちの数は倍増した。

全国的な労働者の団体を組織しようとする最初の主な動きは、1869年の労働騎士団の結成であった。これは当初、フィラデルフィア市の衣料産業労働者が組織した、儀式的な秘密団体であり、協同組合制度を主張していたが、アフリカ系米国人、女性、農民を含むすべての労働者に門戸を開放していた。労働騎士団は徐々に拡大していたが、1885年に同団の鉄道労働者部門が鉄道王ジェイ・グールドに対するストライキを成功させたことによって急速に成長し、1年以内にはさらに50万人の労働者が加わった。しかしながら、労働騎士団は、実利的な労働組合主義に同調せず、鉄道ストの成功を再現させることができず、まもなく衰退した。

労働運動において徐々に労働騎士団に代わる存在となっていったのが米国労働総同盟(AFL)であった。AFLは、葉巻工組合の元役員サミュエル・ゴンパーズの指導の下で、組合員を制限し、熟練労働者を中心とする組合の団体となった。その目的は、賃金の引き上げ、労働時間の短縮、そして労働条件の改善という「純粋かつ単純」な、政治色のないものであった。AFLは、労働運動を、ヨーロッパの労働運動の大半が掲げていた社会主義的思想から遠ざけることに大きく貢献した。

しかしながら、AFL創設以前も以後も、米国の労働運動の歴史は暴力的なものであった。1877年の鉄道ストライキでは、全米の鉄道労働者が、10%の賃金削減に反対してストを打った。メリーランド州ボルティモア、イリノイ州シカゴ、ペンシルべニア州ピッツバーグ、ニューヨーク州バッファロー、およびカリフォルニア州サンフランシスコといった数都市で、ストを破ろうとする試みが、暴動と広範囲の破壊を引き起こした。ストが終わるまでに、連邦軍が数カ所に派遣された。

その9年後、シカゴで発生したヘイマーケット・スクエア事件では、同市のマコーミック・ハーベスター・カンパニーで行われていたストライキを支持するアナーキストの集会を解散させようとしていた警察官らに、爆発物が投げつけられた。その後の乱闘で、警察官7人と少なくとも4人の労働者が死亡し、およそ60人の警察官が負傷したとされる。

1892年には、ペンシルベニア州ホームステッドのカーネギー製鋼所で、鉄・鋼鉄・ブリキ労働者合同組合による強力なストを中止させるために会社に雇われたピンカートン社の警備員300人が、スト参加者と激しい銃撃戦を行い、不利な態勢となった。非組合員の労働者を守るために州兵が派遣され、ストは鎮圧された。同製鋼所では、1937年まで、再び組合が許可されることはなかった。

1894年に、シカゴ郊外のプルマン・カンパニーで、賃金カットに抗議してストが行われ、米国鉄道労働組合がこれを支持して、まもなく全米のほとんどの鉄道が停止した。状況の悪化に伴い、元鉄道会社の弁護士であったリチャード・オルニー米国司法長官は、鉄道の運行を継続するために、3000人以上の男たちを代理に任命した。その後、連邦裁判所が、労働組合の鉄道妨害に対して禁止命令を出した。続いて、暴動が発生すると、クリーブランド大統領は連邦軍を派遣し、ストはようやく鎮圧された。

ストを支持する労働組合の中でも最も闘争的な組合は、世界産業労働者同盟(IWW)であった。西部の鉱業における労働条件改善を求めて闘っていたいくつかの組合の合同組織であるIWW(通称「Wobblies」)は、1903年のコロラド州の鉱山における闘争と、その際に情け容赦なく鎮圧されたことによって、知名度を高めた。過激な無政府主義の影響を受け、公に階級闘争を呼びかけたIWWは、1912年にマサチューセッツ州ローレンスの繊維工場で困難なスト闘争に勝利を収めた後、多くの信奉者を得た。しかし、第1次大戦のさなかにIWWが操業停止を呼びかけたため、米国政府は1917年にIWWへの弾圧を強化し、その結果この組織は事実上崩壊した。

改革の衝動

1900年の大統領選挙は、米国民が、マッキンリー大統領の共和党政権に対して、特にその外交政策について評価を下す機会となった。共和党はフィラデルフィアで大会を開き、スペインとの戦争における勝利、繁栄の回復、そして門戸開放政策による新市場開拓の成功を祝った。マッキンリーは、再び対立候補となったウィリアム・ジェニングズ・ブライアンに楽勝した。しかしマッキンリー大統領は、その勝利の成果を味わうことができなかった。1901年9月、ニューヨーク州バッファローで展覧会に出席していたマッキンリーは、暗殺者の銃弾に倒れ、南北戦争以来暗殺された3人目の大統領となった。

セオドア・ルーズベルト副大統領が、マッキンリーの後を継いで大統領となった。ルーズベルト大統領の就任は、米国の政治と国際関係における新たな時代の始まりと時を同じくしていた。そのころ、大陸の人口は増加し、フロンティアは消失しつつあった。それまで苦闘していた小さな共和国は、世界の大国となっていた。米国の政治的基盤は、外国との戦争や南北戦争による大きな変動、そして繁栄と不況の波に耐えてきていた。農業と工業が大きく前進し、無料の公共教育が広く実現し、自由な報道が維持されていた。信教の自由という理想も保たれていた。しかしながら、大企業の影響力が以前にも増して強大となり、地方自治体の政府が腐敗した政治家に支配される例も多く見られた。

19世紀の資本主義と政治腐敗の行き過ぎに対応して、「進歩主義」という改革運動が発生し、1890年前後から米国が第1次世界大戦に参戦する1917年まで、米国の政治と思考に独特の影響を及ぼした。進歩主義者の目的は多様であったが、概して彼らは、都会の政界ボスや、「泥棒男爵」と呼ばれた腐敗した大企業による不正行為に対して、民主的な改革運動を行うことを、自らの使命と考えていた。彼らの目標は、民主主義と社会正義の拡大、正直な政府、より効果的な事業規制、そして公共サービスへの関与の復活であった。彼らは、政府の活動範囲を拡張することによって、米国社会の進歩と米国民の福利を確保できる、と考えた。

18世紀の農業国時代から受け継がれた慣行や原則が、都市を中心とする20世紀の国家には不十分なものとなっており、1902年から1908年までの期間に、文筆家やジャーナリストがこうした古い制度に強く抗議し、広範な改革活動の時代を築いた。その何年も前の1873年に、著名な作家マーク・トウェーンが、「金メッキ時代」で、米国社会を厳しく批判していたが、20世紀に入ると、日刊紙や、「マクリュアーズ」、「コリアーズ」などの人気雑誌にも、トラスト、大型融資、不純な食品、鉄道会社の不正などを取り上げた辛辣な記事が掲載されるようになった。スタンダード・オイル・トラストと闘ったジャーナリストのアイダ・M・ターベルをはじめ、こうした記事の執筆者は、「マックレーカー(醜聞を暴く人々)」と呼ばれた。

アプトン・シンクレアのセンセーショナルな小説「ジャングル」は、シカゴの大手食肉加工業者の不衛生な労働環境を暴露し、米国の食肉供給を支配する牛肉トラストの権力を糾弾した。セオドア・ドライサーの小説「資本家」と「巨人」は、大企業の権謀術策を素人にもわかりやすく描いた。フランク・ノリスの「オクトパス」は、鉄道会社の非道徳的な経営を厳しく非難した。同じくノリスの「ピット」は、シカゴの穀物市場に対する秘密の操作を描いたものであった。また、リンカーン・ステフェンズの「都市の恥」は、地方政府の腐敗をあばいた。これらの「暴露文学」は、市民を奮起させ、行動を起こさせた。

こうした妥協を知らない文筆家が次々と作品を発表し、市民の関心がますます高まるにつれて、政界の指導者たちは実践的な措置を取らざるを得なくなった。多くの州では、人々の生活・労働環境を改善する法律が制定された。ジェーン・アダムズをはじめとする著名な社会批評家に促され、児童労働法が強化あるいは新たに採用され、最低就労年齢の引き上げ、労働時間の短縮、夜間労働の制限、そして就学の義務付けが定められた。

ルーズベルトの改革

20世紀初頭までには、大都市のほとんど、および全米の半分以上の州が、公共事業における1日8時間労働を採用していた。同様に重要なこととして、労働者災害補償法が定められ、雇用者は、従業員の業務上の傷害に対する法的な責任を負担することが義務付けられた。また新たな租税法が制定され、最も支払能力のある人々に政府の費用を負担させるために、遺産、所得、および法人の財産または収益に課税をした。

セオドア・ルーズベルト大統領および連邦議会指導層の進歩主義者たち(特にウィスコンシン州のロバート・ラフォレット上院議員)をはじめとする多くの人々にとっては、改革主義者が挙げる課題のほとんどは、全国的な規模で対処しなければ解決できないものであることが明らかであった。ルーズベルト大統領は、すべての米国民に「スクエア・ディール(公正な取引)」を約束することを宣言した。

ルーズベルト大統領は、第1期目に、反トラスト法を執行することによって、政府による監督を強化した。大統領の支持を得て、議会は、鉄道会社が大口の荷主に払い戻しをする慣行を大幅に制限するエルキンズ法(1903年)を可決した。この法律によって、料金の公表が法的な基準となり、鉄道会社と同様に荷主も払い戻しに関する責任を負わされた。一方、議会は商業・労働省を新設し、同省の法人局には、大規模な企業統合を調査する権限が与えられた。

ルーズベルトは、「トラストつぶし」の異名を取ったが、実際には彼の大企業に対する姿勢はもっと複雑なものであった。彼は、経済の集中は避けられないものであると考えていた。トラストには「良い」トラストも「悪い」トラストもあり、政府の仕事は、妥当な範囲でそれを区別することであった。例えば、法人局は1907 年に、アメリカン・シュガー・リファイニング・カンパニーによる輸入関税の脱税を発見し、法的措置によって400万ドル以上を回収するとともに、同社の役員数人を有罪とした。また、スタンダード・オイル・カンパニーは、シカゴ・アンド・アルトン鉄道会社から秘密裏に払い戻しを受けたとして起訴され、有罪判決を受けて、2900万ドルという多額の罰金を科された。

ルーズベルトは、独特の個性とトラストつぶしの活動によって、一般市民の心をとらえた。彼の進歩主義的な措置は、党派を超えて支持された。そして、当時の米国の繁栄は、時の政権に対する国民の満足度を高めた。その結果、ルーズベルトは1904年の大統領選に楽勝した。

選挙における大勝の勢いに乗って、ルーズベルト大統領は、鉄道規制の強化を要求した。1906年6月、議会はヘップバーン法を可決した。同法は、州際通商委員会に、料金を規制する真の権限を与え、同委員会の管轄を拡大し、鉄道会社が汽船会社や石炭会社との持ち合い株を放棄することを強制した。

このほかにも、連邦政府による統制の原則をさらに拡大する議会措置が取られた。1906年の食品医薬品法は、市販の医薬品および食品に、何らかの「有害な薬品、化学品、または防腐剤」を使用することを禁止した。同年の食肉検査法は、州際通商を行うすべての食肉加工業者に対する連邦政府による検査を義務付けた。

ルーズベルト政権のその他の主な業績としては、米国の天然資源の保護、公有地の管理開発、そして放置されていた広大な土地の開拓などが挙げられる。ルーズベルトとその側近は、単なる自然保護主義者ではなかったが、それまであまりにも公共資源の乱開発が続いていたため、彼らにとって自然保護が大きな課題となっていた。それまでの大統領は、保存および公園用に1880万ヘクタールの森林地を確保していたが、ルーズベルトはこれを5920万ヘクタールに拡張した。またルーズベルト政権は、山火事の防止と、伐採地域の再植林の組織的な活動を始めた。

タフトとウィルソン

1908年の大統領選挙運動の時期が近付くころ、ルーズベルトの人気は頂点に達していたが、彼には、2期を超える任期を務めた大統領はいないという伝統を破る気はなかった。代わりに、ルーズベルトは、彼の政権下でフィリピン知事と陸軍長官を務めたウィリアム・ハワード・タフトを支持した。タフトは、ルーズベルトの各種制度の継続を公約とし、対立候補のブライアンを破った。ブライアンにとって、これは3度目かつ最後の大統領選出馬であった。

新大統領は、ルーズベルトよりも無差別にトラスト訴追を続け、州際通商委員会をさらに強化し、郵便貯蓄銀行と小包郵便制度を設立し、行政サービスを拡大し、さらに2つの憲法修正条項の制定を提案した。これらの修正条項は、いずれも1913年に採択された。

タフト大統領の任期終了直前に批准された修正第16条は、連邦所得税を承認するものであった。その数カ月後に批准された修正第17条は、上院議員の選出を、州議会議員ではなく人民による直接選挙で行うことを定めた。しかしタフトは、こうした進歩主義的な措置を取る一方で、より保護主義的な新関税を認め、アリゾナが自由主義的な憲法を持つことを理由にその連邦加盟に反対し、また党内の保守派への依存度を高めていった。

1910年までには、タフトの政党は内部で激しく対立していた。中間選挙では、民主党が再び議会で多数党となった。2年後の大統領選では、民主党員でニュージャージー州の進歩的な知事であったウッドロー・ウィルソンが、共和党の候補タフト、そして新しい進歩党の候補となったルーズベルトと争い、活発な選挙運動の結果、ライバル2人を破った。

ウィルソン大統領は、第1期目に、米国史上最も注目に値する立法をいくつか実現させた。最初の作業は関税の改革であった。「関税は改正されなければならない。多少とも特恵であると思われるような制度はすべて廃止しなければならない」とウィルソンは述べた。1913年10月3日に署名されたアンダーウッド関税法は、輸入される原料・食料品、綿・羊毛製品、および鉄鋼の関税率を大幅に引き下げ、その他100以上の品目の関税を撤廃した。多くの保護措置が残されていたものの、この法律は、真に国民の生活費を引き下げようとする試みであった。同法では、関税引き下げによる歳入のロスを補うために、ある程度の所得税を導入した。

民主党による次の作業は、崩壊寸前であった金融・通貨制度の全面的な再編成を、遅ればせながら実行することであった。ウィルソンは、「統制は、民間ではなく公共でなければならず、政府自身の手に委ねられていなければならない。それによって、銀行は、企業や個々の事業・計画の支配者ではなく、手段となるからである」と述べた。

1913年12月23日に制定された連邦準備法は、ウィルソンの最大の立法業績であった。保守派は、単一の強力な中央銀行の設立を支持していたが、この連邦準備法は、民主党のジェファソンの考え方を受け継ぐもので、米国を12の地区に分け、各地区に連邦準備銀行を置き、各銀行が全国的な連邦準備委員会の監督下に置かれ、連邦準備委員会は金利を設定する限定された権限を有する、というものであった。この法律により、通貨供給の柔軟性の増大が保証され、事業の要求に合わせた連邦準備券の発行に関する規定が設けられた。そして1930年代には、さらに制度の中央化が進むことになる。

次の重要な作業は、トラストの規制と、企業による不正の調査であった。連邦議会は、連邦取引委員会が、州際通商における、事業による「不公正な競争手段」を禁止する命令を発行することを認めた。クレイトン反トラスト法により、それまでは具体的に糾弾されることのなかった多くの企業慣行が禁止された。例えば、取締役の兼任、購入者間の価格差別、労働紛争における差し止め命令の適用、およびある法人が同種の事業の株式を保有すること、などが禁止された。

農民やその他の労働者も忘れられてはいなかった。1914年のスミス・リーバー法により、全国各地で農業を支援する「農業拡張制度」が設立され、 その後も、農家に低金利の融資を提供する法律などが制定された。1915年の海員法は、船上における居住および労働条件を改善した。1916年の連邦労働者災害補償法は、公務員の労働災害による障害に対する手当を承認し、これが民間企業の模範となった。また同年のアダムソン法では、鉄道労働者の1日8時間労働が定められた。

こうした実績によって、ウィルソン大統領は、米国史上有数の進歩的な改革主義者として確固たる地位を築いた。しかしながら、間もなくウィルソンは、戦時の大統領として国家を勝利に導きながら、その後の平和時に国民の支持を得られなかったため、彼の国内的な業績にも影が投げかけられた。

多民族から成る国家

米国ほど、国家の歴史が移民と密接に結びついている国はない。20世紀の最初の15年間だけでも、1300万人以上の人々が米国に移住し、その多くは、1892年にニューヨーク港に開設されたエリス島連邦移民センターから米国に入国した。(エリス島は、現在は移民センターとしては使われていないが、1992年に、ここから米国に入った大勢の移民の記念碑として衣替えした建物が、一般に公開されている。)

1790年に行われた初めての正式な国勢調査では、米国の人口は392万9214人であった。当初の13州の人口のほぼ半数は英国人(イングランド人)であり、残りはスコッツ・アイリッシュ、ドイツ人、オランダ人、フランス人、スウェーデン人、ウェールズ人、およびフィンランド人であった。これらの白人のヨーロッパ人は、主として新教徒であった。また米国の人口の5分の1は、アフリカ人奴隷であった。

ごく初期から米国人は、移民は拡大する国家に必要な資源である、と考えていた。従って、1920年代までは、米国の移民に対する公的な制限はほとんどなかった。しかしながら、移民の数がますます増えるに従い、一部の米国人は、自分たちの文化が脅かされることを恐れるようになった。

建国の父たち、特にトーマス・ジェファソンは、米国が世界中からやってくる人々をすべて歓迎すべきかどうか、という点について、相反する感情を抱いていた。ジェファソンは、絶対君主を崇拝する国、あるいは王室に代わって衆愚政治を採用する国から来た人々に、民主主義を安心して任せられるだろうかという疑問を抱いた。しかしながら、必死で労働力を求めていた米国では、新しい移民を締め出すことを支持する者はほとんどいなかった。

18世紀末から19世紀初頭にかけては、戦争によって大西洋を渡る旅が中断され、ヨーロッパ諸国の政府が徴兵年齢にある若者を引き止めようとして国民の移動を制限したため、移民の数が減少した。しかし、ヨーロッパの人口増加に伴い、以前と同じ面積の農地内で暮らす人々の数が増え、ほとんど生計を立てることのできない家族も出てきた。また、家内工業が、産業革命による機械化の犠牲となっていった。ヨーロッパでは、工場で働くことのできない、あるいは工場で働く意志のない大勢の職人が失業した。

1840年代半ばには、アイルランドでジャガイモの疫病による不作で飢饉が発生したこと、またドイツ各地で革命が続いたことにより、米国への移民が増えた。一方、主として貧しい中国南東部からの中国人移民が、米国西海岸に少しずつ入ってきていた。

1890年から、1921年に連邦議会が初めて厳しい移民制限法を可決するまでの間に、ほぼ1900万人が米国に移民した。そのほとんどは、イタリア、ロシア、ポーランド、ギリシャ、およびバルカン諸国からの移民であった。ヨーロッパ以外の国からも、日本からは東へ、カナダからは南へ、メキシコからは北へ、移民が米国を目指した。

1920年代初めまでには、賃金の問題を重視する労働組合と、クー・クラックス・クランや移民制限連盟のように人種的・宗教的な理由で移民の制限を求める人々との間に同盟が結ばれた。1924年のジョンソン・リード法によって、新しい移民の流入が、出身国別の割り当てに基づいて、永久的に制限されることになった。

1930年代の大恐慌で、米国への移民はさらに大幅に減少した。ヨーロッパで迫害された少数民族の場合でさえも、米国の世論は概して移民に反対であったため、1933年にアドルフ・ヒットラーが権力を握った後、避難所を求めて米国に亡命した者の数は比較的少なかった。

戦後も何十年間か、米国は国別の移民割当制度を継続した。1952年のマッカラン・ウォルター法の支持者は、割当制を緩めれば、東ヨーロッパ諸国からマルクス主義の破壊分子が米国に大量に流れ込む可能性がある、と主張した。

1965年に連邦議会は、国別の移民割当制度に代えて、半球別の割当制度を採用した。米国市民の親戚、および米国内で不足している職業技能を持つ者が、優先的に移民を許可された。1978年には、半球別割当制が廃止され、全世界で29万人という上限が設けられた。そして1980年には難民法が可決され、この上限が27万人に引き下げられた。

1970年代半ば以降、米国には、アジア、アフリカ、および中南米から新たに移民の波が押し寄せ、全米各地の地域社会に変化をもたらした。現在は、年間およそ60万人が合法的な移民として米国に入国していると推定されている。

しかしながら、移民および難民の割当数が希望者数より大幅に少ない状態が続いているため、不法移民が引き続き大きな問題となっている。メキシコ人およびその他の中南米諸国の人々が、職と高賃金、および家族のためのより良い教育・医療を求めて、毎日米国南西部の国境を越えて米国に入国している。また、中国をはじめとするアジア諸国からの不法移民も多い。さまざまな推定があるが、年間60万人もの不法移民が米国に入ってきているとの推定もある。

歴史的に、大量の移民は、経済的・文化的な恩恵をもたらすと同時に、社会的な緊張を生んできた。しかしながら、ほとんどの米国人の心には、「黄金の扉」の前で灯を掲げ、「自由と解放を渇望する」人々を歓迎する自由の女神こそが米国の象徴である、という考えが刻み込まれている。こうした信念、そして米国民の誰もが移民の先祖を持つという確実な知識が、米国を多民族から成る国家としている。

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Discontent and Reform

(The following article is taken from the U.S. Department of State publication Outline of U.S. History.)

“A great democracy will be neither great nor a democracy if it is not progressive.”
-- Former President Theodore Roosevelt, circa 1910

AGRARIAN DISTRESS AND THE RISE OF POPULISM

In spite of their remarkable progress, late-19th century American farmers experienced recurring periods of hardship. Mechanical improvements greatly increased yield per hectare. The amount of land under cultivation grew rapidly throughout the second half of the century, as the railroads and the gradual displacement of the Plains Indians opened up new areas for western settlement. A similar expansion of agricultural lands in countries such as Canada, Argentina, and Australia compounded these problems in the international market, where much of U.S. agricultural production was now sold. Everywhere, heavy supply pushed the price of agricultural commodities downward.

Midwestern farmers were increasingly restive over what they considered excessive railroad freight rates to move their goods to market. They believed that the protective tariff, a subsidy to big business, drove up the price of their increasingly expensive equipment. Squeezed by low market prices and high costs, they resented ever-heavier debt loads and the banks that held their mortgages. Even the weather was hostile. During the late 1880s droughts devastated the western Great Plains and bankrupted thousands of settlers.

In the South, the end of slavery brought major changes. Much agricultural land was now worked by sharecroppers, tenants who gave up to half of their crop to a landowner for rent, seed, and essential supplies. An estimated 80 percent of the South’s African-American farmers and 40 percent of its white ones lived under this debilitating system. Most were locked in a cycle of debt, from which the only hope of escape was increased planting. This led to the over-production of cotton and tobacco, and thus to declining prices and the further exhaustion of the soil.

The first organized effort to address general agricultural problems was by the Patrons of Husbandry, a farmer’s group popularly known as the Grange movement. Launched in 1867 by employees of the U.S. Department of Agriculture, the Granges focused initially on social activities to counter the isolation most farm families encountered. Women’s participation was actively encouraged. Spurred by the Panic of 1873, the Grange soon grew to 20,000 chapters and one-and-a-half million members.

The Granges set up their own marketing systems, stores, processing plants, factories, and cooperatives, but most ultimately failed. The movement also enjoyed some political success. During the 1870s, a few states passed “Granger laws,” limiting railroad and warehouse fees.

By 1880 the Grange was in decline and being replaced by the Farmers’ Alliances, which were similar in many respects but more overtly political. By 1890 the alliances, initially autonomous state organizations, had about 1.5 million members from New York to California. A parallel African-American group, the Colored Farmers National Alliance, claimed over a million members. Federating into two large Northern and Southern blocs, the alliances promoted elaborate economic programs to “unite the farmers of America for their protection against class legislation and the encroachments of concentrated capital.”

By 1890 the level of agrarian distress, fueled by years of hardship and hostility toward the McKinley tariff, was at an all-time high. Working with sympathetic Democrats in the South or small third parties in the West, the Farmers’ Alliances made a push for political power. A third political party, the People’s (or Populist) Party, emerged. Never before in American politics had there been anything like the Populist fervor that swept the prairies and cotton lands. The elections of 1890 brought the new party into power in a dozen Southern and Western states, and sent a score of Populist senators and representatives to Congress.

The first Populist convention was in 1892. Delegates from farm, labor, and reform organizations met in Omaha, Nebraska, determined to overturn a U.S. political system they viewed as hopelessly corrupted by the industrial and financial trusts. Their platform stated:

We are met, in the midst of a nation brought to the verge of moral,
political, and material ruin. Corruption dominates the ballot‑box, the
legislatures, the Congress, and touches even the ermine of the bench
[courts]. ... From the same prolific womb of governmental injustice we breed
the two great classes – tramps and millionaires.

The pragmatic portion of their platform called for the nationalization of the railroads; a low tariff; loans secured by non-perishable crops stored in government-owned warehouses; and, most explosively, currency inflation through Treasury purchase and the unlimited coinage of silver at the “traditional” ratio of 16 ounces of silver to one ounce of gold.

The Populists showed impressive strength in the West and South, and their candidate for president polled more than a million votes. But the currency question soon overshadowed all other issues. Agrarian spokesmen, convinced that their troubles stemmed from a shortage of money in circulation, argued that increasing the volume of money would indirectly raise prices for farm products and drive up industrial wages, thus allowing debts to be paid with inflated currency. Conservative groups and the financial classes, on the other hand, responded that the 16:1 price ratio was nearly twice the market price for silver. A policy of unlimited purchase would denude the U.S. Treasury of all its gold holdings, sharply devalue the dollar, and destroy the purchasing power of the working and middle classes. Only the gold standard, they said, offered stability.

The financial panic of 1893 heightened the tension of this debate. Bank failures abounded in the South and Midwest; unemployment soared and crop prices fell badly. The crisis and President Grover Cleveland’s defense of the gold standard sharply divided the Democratic Party. Democrats who were silver supporters went over to the Populists as the presidential elections of 1896 neared.

The Democratic convention that year was swayed by one of the most famous speeches in U.S. political history. Pleading with the convention not to “crucify mankind on a cross of gold,” William Jennings Bryan, the young Nebraskan champion of silver, won the Democrats’ presidential nomination. The Populists also endorsed Bryan.

In the epic contest that followed, Bryan carried almost all the Southern and Western states. But he lost the more populated, industrial North and East – and the election – to Republican candidate William McKinley.

The following year the country’s finances began to improve, in part owing to the discovery of gold in Alaska and the Yukon. This provided a basis for a conservative expansion of the money supply. In 1898 the Spanish-American War drew the nation’s attention further from Populist issues. Populism and the silver issue were dead. Many of the movement’s other reform ideas, however, lived on.

THE STRUGGLES OF LABOR

The life of a 19th-century American industrial worker was hard. Even in good times wages were low, hours long, and working conditions hazardous. Little of the wealth that the growth of the nation had generated went to its workers. Moreover, women and children made up a high percentage of the work force in some industries and often received but a fraction of the wages a man could earn. Periodic economic crises swept the nation, further eroding industrial wages and producing high levels of unemployment.

At the same time, technological improvements, which added so much to the nation’s productivity, continually reduced the demand for skilled labor. Yet the unskilled labor pool was constantly growing, as unprecedented numbers of immigrants – 18 million between 1880 and 1910 – entered the country, eager for work.

Before 1874, when Massachusetts passed the nation’s first legislation limiting the number of hours women and child factory workers could perform to 10 hours a day, virtually no labor legislation existed in the country. It was not until the 1930s that the federal government would become actively involved. Until then, the field was left to the state and local authorities, few of whom were as responsive to the workers as they were to wealthy industrialists.

The laissez-faire capitalism that dominated the second half of the 19th century and fostered huge concentrations of wealth and power was backed by a judiciary that time and again ruled against those who challenged the system. In this, they were merely following the prevailing philosophy of the times. Drawing on a simplified understanding of Darwinian science, many social thinkers believed that both the growth of large business at the expense of small enterprise and the wealth of a few alongside the poverty of many was “survival of the fittest,” and an unavoidable by-product of progress.

American workers, especially the skilled among them, appear to have lived at least as well as their counterparts in industrial Europe. Still, the social costs were high. As late as the year 1900, the United States had the highest job-related fatality rate of any industrialized nation in the world. Most industrial workers still worked a 10-hour day (12 hours in the steel industry), yet earned less than the minimum deemed necessary for a decent life. The number of children in the work force doubled between 1870 and 1900.

The first major effort to organize workers’ groups on a nationwide basis appeared with the Noble Order of the Knights of Labor in 1869. Originally a secret, ritualistic society organized by Philadelphia garment workers and advocating a cooperative program, it was open to all workers, including African Americans, women, and farmers. The Knights grew slowly until its railway workers’ unit won a strike against the great railroad baron, Jay Gould, in 1885. Within a year they added 500,000 workers to their rolls, but, not attuned to pragmatic trade unionism and unable to repeat this success, the Knights soon fell into a decline.

Their place in the labor movement was gradually taken by the American Federation of Labor (AFL). Rather than open membership to all, the AFL, under former cigar union official Samuel Gompers, was a group of unions focused on skilled workers. Its objectives were “pure and simple” and apolitical: increasing wages, reducing hours, and improving working conditions. It did much to turn the labor movement away from the socialist views of most European labor movements.

Nonetheless, both before the founding of the AFL and after, American labor history was violent. In the Great Rail Strike of 1877, rail workers across the nation went out in response to a 10-percent pay cut. Attempts to break the strike led to rioting and wide-scale destruction in several cities: Baltimore, Maryland; Chicago, Illinois; Pittsburgh, Pennsylvania; Buffalo, New York; and San Francisco, California. Federal troops had to be sent to several locations before the strike was ended.

Nine years later, in Chicago’s Haymarket Square incident, someone threw a bomb at police about to break up an anarchist rally in support of an ongoing strike at the McCormick Harvester Company in Chicago. In the ensuing melee, seven policemen and at least four workers were reported killed. Some 60 police officers were injured.

In 1892, at Carnegie’s steel works in Homestead, Pennsylvania, a group of 300 Pinkerton detectives the company had hired to break a bitter strike by the Amalgamated Association of Iron, Steel, and Tin Workers fought a fierce and losing gun battle with strikers. The National Guard was called in to protect non-union workers and the strike was broken. Unions were not let back into the plant until 1937.

In 1894, wage cuts at the Pullman Company just outside Chicago led to a strike, which, with the support of the American Railway Union, soon tied up much of the country’s rail system. As the situation deteriorated, U.S. Attorney General Richard Olney, himself a former railroad lawyer, deputized over 3,000 men in an attempt to keep the rails open. This was followed by a federal court injunction against union interference with the trains. When rioting ensued, President Cleveland sent in federal troops, and the strike was eventually broken.

The most militant of the strike-favoring unions was the Industrial Workers of the World (IWW). Formed from an amalgam of unions fighting for better conditions in the West’s mining industry, the IWW, or “Wobblies” as they were commonly known, gained particular prominence from the Colorado mine clashes of 1903 and the singularly brutal fashion in which they were put down. Influenced by militant anarchism and openly calling for class warfare, the Wobblies gained many adherents after they won a difficult strike battle in the textile mills of Lawrence, Massachusetts, in 1912. Their call for work stoppages in the midst of World War I, however, led to a government crackdown in 1917 that virtually destroyed them.

THE REFORM IMPULSE

The presidential election of 1900 gave the American people a chance to pass judgment on the Republican administration of President McKinley, especially its foreign policy. Meeting at Philadelphia, the Republicans expressed jubilation over the successful outcome of the war with Spain, the restoration of prosperity, and the effort to obtain new markets through the Open Door policy. McKinley easily defeated his opponent, once again William Jennings Bryan. But the president did not live to enjoy his victory. In September 1901, while attending an exposition in Buffalo, New York, he was shot down by an assassin, the third president to be assassinated since the Civil War.

Theodore Roosevelt, McKinley’s vice president, assumed the presidency. Roosevelt’s accession coincided with a new epoch in American political life and international relations. The continent was peopled; the frontier was disappearing. A small, formerly struggling republic had become a world power. The country’s political foundations had endured the vicissitudes of foreign and civil war, the tides of prosperity and depression. Immense strides had been made in agriculture and industry. Free public education had been largely realized and a free press maintained. The ideal of religious freedom had been sustained. The influence of big business was now more firmly entrenched than ever, however, and local and municipal government often was in the hands of corrupt politicians.

In response to the excesses of 19th-century capitalism and political corruption, a reform movement arose called “progressivism,” which gave American politics and thought its special character from approximately 1890 until the American entry into World War I in 1917. The Progressives had diverse objectives. In general, however, they saw themselves as engaged in a democratic crusade against the abuses of urban political bosses and the corrupt “robber barons” of big business. Their goals were greater democracy and social justice, honest government, more effective regulation of business, and a revived commitment to public service. They believed that expanding the scope of government would ensure the progress of U.S. society and the welfare of its citizens.

The years 1902 to 1908 marked the era of greatest reform activity, as writers and journalists strongly protested practices and principles inherited from the 18th‑century rural republic that were proving inadequate for a 20th‑century urban state. Years before, in 1873, the celebrated author Mark Twain had exposed American society to critical scrutiny in The Gilded Age. Now, trenchant articles dealing with trusts, high finance, impure foods, and abusive railroad practices began to appear in the daily newspapers and in such popular magazines as McClure’s and Collier’s. Their authors, such as the journalist Ida M. Tarbell, who crusaded against the Standard Oil Trust, became known as “muckrakers.”

In his sensational novel, The Jungle, Upton Sinclair exposed unsanitary conditions in the great Chicago meat-packing houses and condemned the grip of the beef trust on the nation’s meat supply. Theodore Dreiser, in his novels The Financier and The Titan, made it easy for laymen to understand the machinations of big business. Frank Norris’s The Octopus assailed amoral railroad management; his The Pit depicted secret manipulations on the Chicago grain market. Lincoln Steffens’s The Shame of the Cities bared local political corruption. This “literature of exposure” roused people to action.

The hammering impact of uncompromising writers and an increasingly aroused public spurred political leaders to take practical measures. Many states enacted laws to improve the conditions under which people lived and worked. At the urging of such prominent social critics as Jane Addams, child labor laws were strengthened and new ones adopted, raising age limits, shortening work hours, restricting night work, and requiring school attendance.

ROOSEVELT’S REFORMS

By the early 20th century, most of the larger cities and more than half the states had established an eight-hour day on public works. Equally important were the workman’s compensation laws, which made employers legally responsible for injuries sustained by employees at work. New revenue laws were also enacted, which, by taxing inheritances, incomes, and the property or earnings of corporations, sought to place the burden of government on those best able to pay.

It was clear to many people – notably President Theodore Roosevelt and Progressive leaders in the Congress (foremost among them Wisconsin Senator Robert LaFollette) – that most of the problems reformers were concerned about could be solved only if dealt with on a national scale. Roosevelt declared his determination to give all the American people a “Square Deal.”

During his first term, he initiated a policy of increased government supervision through the enforcement of antitrust laws. With his backing, Congress passed the Elkins Act (1903), which greatly restricted the railroad practice of giving rebates to favored shippers. The act made published rates the lawful standard, and shippers equally liable with railroads for rebates. Meanwhile, Congress had created a new Cabinet Department of Commerce and Labor, which included a Bureau of Corporations empowered to investigate the affairs of large business aggregations.

Roosevelt won acclaim as a “trust-buster,” but his actual attitude toward big business was complex. Economic concentration, he believed, was inevitable. Some trusts were “good,” some “bad.” The task of government was to make reasonable distinctions. When, for example, the Bureau of Corporations discovered in 1907 that the American Sugar Refining Company had evaded import duties, subsequent legal actions recovered more than $4 million and convicted several company officials. The Standard Oil Company was indicted for receiving secret rebates from the Chicago and Alton Railroad, convicted, and fined a staggering $29 million.

Roosevelt’s striking personality and his trust-busting activities captured the imagination of the ordinary individual; approval of his progressive measures cut across party lines. In addition, the abounding prosperity of the country at this time led people to feel satisfied with the party in office. He won an easy victory in the 1904 presidential election.

Emboldened by a sweeping electoral triumph, Roosevelt called for stronger railroad regulation. In June 1906 Congress passed the Hepburn Act. It gave the Interstate Commerce Commission real authority in regulating rates, extended the commission’s jurisdiction, and forced the railroads to surrender their interlocking interests in steamship lines and coal companies.

Other congressional measures carried the principle of federal control still further. The Pure Food and Drug Act of 1906 prohibited the use of any “deleterious drug, chemical, or preservative” in prepared medicines and foods. The Meat Inspection Act of the same year mandated federal inspection of all meat-packing establishments engaged in interstate commerce.

Conservation of the nation’s natural resources, managed development of the public domain, and the reclamation of wide stretches of neglected land were among the other major achievements of the Roosevelt era. Roosevelt and his aides were more than conservationists, but given the helter-skelter exploitation of public resources that had preceded them, conservation loomed large on their agenda. Whereas his predecessors had set aside 18,800,000 hectares of timberland for preservation and parks, Roosevelt increased the area to 59,200,000 hectares. They also began systematic efforts to prevent forest fires and to re-timber denuded tracts.

TAFT AND WILSON

Roosevelt’s popularity was at its peak as the campaign of 1908 neared, but he was unwilling to break the tradition by which no president had held office for more than two terms. Instead, he supported William Howard Taft, who had served under him as governor of the Philippines and secretary of war. Taft, pledging to continue Roosevelt’s programs, defeated Bryan, who was running for the third and last time.

The new president continued the prosecution of trusts with less discrimination than Roosevelt, further strengthened the Interstate Commerce Commission, established a postal savings bank and a parcel post system, expanded the civil service, and sponsored the enactment of two amendments to the Constitution, both adopted in 1913.

The 16th Amendment, ratified just before Taft left office, authorized a federal income tax; the 17th Amendment, approved a few months later, mandated the direct election of senators by the people, instead of state legislatures. Yet balanced against these progressive measures was Taft’s acceptance of a new tariff with higher protective schedules; his opposition to the entry of the state of Arizona into the Union because of its liberal constitution; and his growing reliance on the conservative wing of his party.

By 1910 Taft’s party was bitterly divided. Democrats gained control of Congress in the midterm elections. Two years later, Woodrow Wilson, the Democratic, progressive governor of the state of New Jersey, campaigned against Taft, the Republican candidate – and also against Roosevelt who ran as the candidate of a new Progressive Party. Wilson, in a spirited campaign, defeated both rivals.

During his first term, Wilson secured one of the most notable legislative programs in American history. The first task was tariff revision. “The tariff duties must be altered,” Wilson said. “We must abolish everything that bears any semblance of privilege.” The Underwood Tariff, signed on October 3, 1913, provided substantial rate reductions on imported raw materials and foodstuffs, cotton and woolen goods, iron and steel; it removed the duties from more than a hundred other items. Although the act retained many protective features, it was a genuine attempt to lower the cost of living. To compensate for lost revenues, it established a modest income tax.

The second item on the Democratic program was a long overdue, thorough reorganization of the ramshackle banking and currency system. “Control,” said Wilson, “must be public, not private, must be vested in the government itself, so that the banks may be the instruments, not the masters, of business and of individual enterprise and initiative.”

The Federal Reserve Act of December 23, 1913, was Wilson’s most enduring legislative accomplishment. Conservatives had favored establishment of one powerful central bank. The new act, in line with the Democratic Party’s Jeffersonian sentiments, divided the country into 12 districts, with a Federal Reserve Bank in each, all supervised by a national Federal Reserve Board with limited authority to set interest rates. The act assured greater flexibility in the money supply and made provision for issuing federal-reserve notes to meet business demands. Greater centralization of the system would come in the 1930s.

The next important task was trust regulation and investigation of corporate abuses. Congress authorized a Federal Trade Commission to issue orders prohibiting “unfair methods of competition” by business concerns in interstate trade. The Clayton Antitrust Act forbade many corporate practices that had thus far escaped specific condemnation: interlocking directorates, price discrimination among purchasers, use of the injunction in labor disputes, and ownership by one corporation of stock in similar enterprises.

Farmers and other workers were not forgotten. The Smith-Lever Act of 1914 established an “extension system” of county agents to assist farming throughout the country. Subsequent acts made credit available to farmers at low rates of interest. The Seamen’s Act of 1915 improved living and working conditions on board ships. The Federal Workingman’s Compensation Act in 1916 authorized allowances to civil service employees for disabilities incurred at work and established a model for private enterprise. The Adamson Act of the same year established an eight-hour day for railroad labor.

This record of achievement won Wilson a firm place in American history as one of the nation’s foremost progressive reformers. However, his domestic reputation would soon be overshadowed by his record as a wartime president who led his country to victory but could not hold the support of his people for the peace that followed.