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感謝祭 11月第4木曜日

豊かな恵みに感謝する祝いは、世界中ほとんどすべての文化に存在する。米国では、感謝祭は伝統と分かち合いのときである。11月の第4木曜日、人々は家族や友人と集い、伝統的な食事を楽しみ、日々与えられる多くの恵みに感謝する。遠く離れて暮らしている家族も、感謝祭の日には家族と共に過ごすために家に帰ろうと努める。

wwwj-theme-celebrate-thanks3米国では、感謝祭の祝日は、今からおよそ400年前、米国のイギリス植民地時代の初期に、感謝の祝宴として始まった。1620年、「メイフラワー号」と呼ばれる船が100人を超える人々を乗せてイギリスを出発し、大西洋を越えて新天地アメリカに向かった。乗船者の大半は、「分離派」と呼ばれるキリスト教の一派に属する人々であった。彼らは、英国国教会の信条を受け入れることができずにそこから分離したグループであった。分離派はイギリス国内で迫害を受け、信仰の自由が与えられていたオランダに移り住んでいた。その後、彼らはアメリカ大陸に新しい植民地を築くことをイギリスから許されるとともに、経済的な援助も受けた。当初、彼らはアメリカ大陸の南岸に沿った地域で、他の入植者の近くに定住するつもりだったが、途中航路がそれたために、予定よりもはるか北に位置する、現在のマサチューセッツ州ケープコッド湾に上陸した。1620年12月21日、彼らは到着した湾岸で、無人となったインディアンの村を見つけた。そしてそこに居住し、自分たちのこの新しい土地をプリマスと名付けた。

新しい入植地での1年目は大変厳しいものであった。彼らは自らをピルグリム[訳注: 北アメリカに移住し植民地を築いた清教徒の一団]と呼んでいたが、その大半がイギリスの都会の出身であり、荒野で暮らす術を知らなかった。彼らの多くは森を恐れ、狩猟の腕もなかった。イギリスでは狩猟は貴族だけのものであり、一般の人々にとっては、獲物を銃で撃つことは罰金や処罰の対象であった。また、彼らがこの地に到着した季節は多くの農作物を育てるには遅すぎた上に、彼らが持ち込んだ植物は新天地の気候に合わなかった。イギリス産の小麦の種は、植民地の土壌では発芽しなかった。最初の1年で植民地の住民の半数が病死し、もし先住民のワンパノアグ族インディアンの助けや指導を受けることがなければ、全滅していたと思われる。

1621年3月、ワンパノアグ族インディアンの首長マサソイトに率いられた一団がピルグリムの入植地を訪れた。彼らの目的は、入植者との協定を結ぶ相談をすることであった。入植者は、ワンパノアグ族を敵対する部族から守ることと引き換えに、ワンパノアグ族の土地にとどまることを許されることになった。マソサイトはティスクアンタムという名のインディアンを連れていた。彼は英語を多少話すことができ、話し合いの通訳をした。入植者たちはこのインディアンを「スクワント」と呼び、彼は話し合いの後もピルグリムの入植地に残り、彼らが生存していく上で大変重要な役割を果たした。スクワントと他のインディアンたちは入植者に、彼らがそれまで知らなかったトウモロコシという食物の育て方を教え、新しい土壌でよく育つ農作物を教えた。またスクワントは、魚の釣り方、貝の採り方、森の中を音を立てずに移動して獲物を狩る方法なども教えた。

ワンパノアグ族は1年を通じて、土地がもたらす多くの恵みに対する感謝の祭事を行っていた。そしてピルグリムもまた英国で、収穫のときに感謝祭を行っていた。1621年の秋までには、入植者たちは新しい土地で暮らしていくことを学び、トウモロコシ、大麦、豆類、そしてカボチャなどの豊かな収穫を得た。多くの恵みへの感謝のために、彼らは感謝の祝宴と祈りのための特別な日を計画した。彼らはマサソイトを招待し、マサソイトは他の90人のインディアンと共に訪れ、言い伝えによると、入植者の収穫物と一緒にあぶり焼きにするために七面鳥と鹿肉を持って宴に参加した。それ以外にも、貝や魚、うなぎ、コーンブレッド、スクワッシュ、ナッツ、クランベリーなどさまざまな食物が祝宴を飾った。入植者たちはインディアンから、クランベリー(酸味のある小さな果実)やいろいろな種類のトウモロコシやスクワッシュの料理法を学んでいた。この最初の感謝祭には、インディアンがポップコーンを持ってきたとも言われている。

最近まで、多くの学校の教科書には、ピルグリムの物語として、すべての感謝祭の料理をピルグリムが作り、「より恵まれない」インディアンに与えたというように書かれていた。実際には祝宴は、今では私たちも知っているように、荒野で生き抜く方法や、食料の採集法や料理方法を教えてくれたインディアンに対する感謝の意味もあって計画されたものであった。インディアンたちがいなければ、最初の入植者たちは生存できなかったと思われる。

祭日の制定

サラ・ジョセファ・ヘイル (© AP Images)

サラ・ジョセファ・ヘイル
(© AP Images)

その後も入植者は、秋の収穫を感謝の祝宴によって祝った。1776年に米国が独立を宣言した後、議会は国全体が祝う感謝の日を設けることを提言した。そしてジョージ・ワシントンはそれを11月26日とすることを提案した。しかし、感謝祭が法定休日になったのはそのはるか後のことである。これは、1800年代半ばに活躍した著名な編集者サラ・ジョセファ・ヘイルの努力によるところが大きかった。彼女は長年にわたり、感謝祭を国の祝日にする運動をしていた。南北戦争の終盤の1864年になって、彼女はリンカーン大統領を説得し、大統領は11月の最終木曜日を公式に感謝祭として定めることを宣言した。1941年には、11月の第4木曜日が連邦法定休日として宣言され、ほとんどの職場や学校は4連休となった。

感謝祭の日付は年によって異なる。そのため大統領は毎年、その年の日付を法定休日として宣言しなければならない。宣言の中で大統領は、1621年にプリマスで行われた最初の感謝祭の歴史的な行事とその意義に触れ、それを称えている。

感謝祭の分かち合いの精神を受け、今日では市民グループや慈善団体が、恵まれない人々、特にホームレスの人々に伝統的な感謝祭の食事を提供することが慣習となっている。各地域では、休日の期間中、恵まれない家庭のために、フード・ドライブを行って食糧を集めている。

1988年、聖ヨハネ大聖堂で、それまでとは違った感謝祭の式典が催された。感謝祭の晩に、大聖堂に4000人を超す人々が集まり、その中には、全米のアメリカ先住民の部族の代表者たちや、祖先がアメリカに移住した人々の子孫がいた。

式典では、367年前の最初の感謝祭におけるインディアンの役割が公に認められた。

我々は、感謝祭を他の米国民と共に、しかしおそらくは異なる方法で、そして異なる理由によって祝っている。我々の祖先がピルグリムに食物を与えてから我々の身に起こったすべてのことにもかかわらず、我々にはいまだに自分たちの言語、自分たちの文化、そして独自の社会システムがある。核の時代にあってもなお、我々は部族を維持しているのである。

-ウィルマ・マンキラー
チェロキー族首長

感謝祭のシンボル

七面鳥、トウモロコシ、カボチャ、スクワッシュ、ナッツ、そしてクランベリー・ソースは、最初の感謝祭を表すシンボルとなっている。これらのシンボルは、ピルグリムとメイフラワー号の絵と同様に、感謝祭の休日の飾りやカードに描かれている。また、ドライフラワーや色とりどりのひょうたんや「インディアン・コーン」と共に、オレンジや赤、茶色や黄色といった秋の色も、テーブルやドアの飾りによく使われている。これらはすべて、収穫と秋の季節を表すものである。

クランベリーはニューイングランド各州の湿地帯や沼地で生育しており、今日では必ず感謝祭のテーブルに乗る。インディアンはこの酸味のあるベリーをさまざまに利用していた。甘みを加えておいしいソースを作ったり、感染を防ぐ薬として使ったり、赤い果汁で毛布や敷物を染めたりした。インディアンはクランベリーを「イビミ」、すなわち「苦いベリー」と呼んでいた。入植者たちはその曲がった茎が、首の長いツルを思い出させることから「クレーン・ベリー(ツルのベリー)」と呼んだ。

 


 

出典:Thanksgiving Day: Fourth Thursday in November – Celebrate! Holidays in the U.S.A.

*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

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